14歳の少年、2つのミルク缶から失われた家族の体の一部を発見?
14歳のパトリック・レスマンは、ポーランドで家族と休暇を過ごしていましたが、思いがけないものに遭遇します。それは、ジェシオラック湖の土手に埋まっていたミルク缶でした。
慎重に開けてみると、中に牛乳は入っておらず、何十年もの間、失われていた家族の歴史の一部が入っていたのでした。
パトリック・レスマン、両親と休暇を過ごす
2017年、14歳のパトリック・レスマンは、ポーランドで家族と休暇を楽しんでいました。ポーランド国内最長の湖ジェシオラック湖の土手を家族と歩いていたときに、そこに埋もれていたとんでもないものに出くわすことになろうとは、予想だにしていませんでした。
パトリックが発見したものは、当局に引き渡された後1年以上にわたって調査されることになります。
2つのミルク缶が目に留まる
湖畔を歩いていると、パトリックは2つのミルク缶を発見します。好奇心旺盛な14歳の少年は、さっそくその缶を開けてみることにしたのです。
しかし、中に入っていたのは予想外のものでした。
中にはたくさんの遺物が
2つのミルク缶を開けてみると、中には牛乳も、湖の藻類も入っていませんでした。ところが、その中には長い間忘れ去られていた歴史の断片が入っていたのです。ミルク缶の中から、パトリックは歴史的価値のある遺物を発見したのでした。
その遺物がどの時代のものなのかを解明するにはしばらく時間がかかりそうです。とりあえず、パトリックは両親と一緒にポーランド当局に連絡をすることにしました。
警察当局の介入
ポーランド警察当局が到着してもできることは限られていました。結局のところ、警察は歴史学者ではないのです。そこで、ミルク缶とその中身を警察署に持ち帰ると、考古学者を呼んで調査させることにしました。
このときから、1年がかりで缶の中身すべてを調査することになったのです。
すべてが第二次世界大戦のものだった
ミルク缶の中身を調べるのに、1年は長いと思われるかもしれません。しかし、調査対象となった遺物は数百点にものぼったのです。
その中には、第二次世界大戦中の日記、家族代々受け継がれていたのであろう宝石、古い時代の歯ブラシ、懐中時計がありました。さらにはなんと、ドイツ国防軍将校の軍服まで入っていたのです。
元地主の所有物
湖畔に置かれた2つのミルク缶は、誰のものだったのでしょうか。どうして湖畔に埋もれていたのでしょうか。専門家の間ではしばらく議論が交わされました。
そして1年後、ようやくこの地域の元領主であるハンス・ヨアヒム・フォン・フィンケンシュタイン伯爵のものであるという結論に至ったのです。
70年以上前のもの
ハンス・ヨアヒム・フォン・フィンケンシュタイン伯爵は、プロイセンの貴族で、1945年までジェシオラック湖畔近くの邸宅に住んでいました。パトリックが見つけたのは、70年以上も前の、しかも第二次世界大戦のものだったです!
その後、パトリックは伯爵がなぜ家宝を埋めようとしていたのかを知ることになります。
すべては赤軍と関係していた
フィンケンシュタイン伯爵がなぜ家宝を埋めたのか、考古学者にははっきりとは分かりませんが、有力な説があります。それは、「労働者・農民赤軍」、つまり赤軍と関係があるようです。
赤軍とは、1922年以降のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国およびソビエト社会主義共和国連邦の軍隊ならびに航空パイロットを示します。
伯爵と夫人、娘たちを送り出す
つまり、赤軍がポーランドの領地に侵攻を進める前に、フィンケンシュタイン夫妻は娘2人をポメラニア(バルト海南岸のドイツとポーランドを分ける地域)に住む家族のもとに送り出したというのが有力な説なのです。
明らかに、何か悪いことが起こりそうな予感がしたのでしょう。
1945年、伯爵夫人、ドイツへ渡る
間もなく、ソ連兵がフィンケンシュタイン伯爵を逮捕します。1945年のことでした。その後伯爵はすぐに亡くなり、伯爵夫人は数ヶ月間、ロシア人の下で他の女性たちと一緒に働かなければなりませんでした。
そしてついに、伯爵夫人は領地を離れることができたのです。夫人はドイツに渡り、娘たちと再会を果たしました。
貴重品を隠したのは伯爵夫人
考古学者らは、1940年代にこの2つのミルク缶に家宝を隠したのは、実は伯爵夫人だったのではないかと考えています。
研究者のミハエル・ムウォテックは、「これらは、掘り返された後に再び使用できるものばかりだと思われます。ほとんどは(物そのものの価値があるというよりは)この家族にとって価値のあるものであることから、家族にとっての宝物ばかりだと言えるのではないでしょうか。」と述べています。
大量の書簡が発見される
ポーランドのニュースサイトのインタビューにおいて、研究者のミハエル・ムウォテックは手紙の一部や日記について説明しています。「ハンス・ヨアヒム・フォン・フィンケンシュタインが1914年から1919年にかけて書いた書簡と日記で、非常に内容の濃いものです。」
「非常に大きな歴史的価値のある資料だと言えます。また、1945年1月26日と2月3日の日付がキリル文字で書かれていることから、この他の2つの文書に興味を引かれました。」
ソ連兵からの手紙も発見される
なんと、ミルク缶の中から見つかった手紙の中に、ソ連軍の将校が書いたものがあり、この邸宅に住む者を見逃してほしい、とありました。「同志よ、兵士よ、この家の住人に危害を加えないでほしい。この者たちは我々を歓迎してくれたのです。」と書かれていました。
また、「前線司令官の命令で」、家畜を捕らえるという話も書かれていました。
絵葉書、手紙、メモ書きなど
この他にも、紙幣、銀のスプーン、家族アルバム、手紙、絵葉書、メモなど、一般的に価値の高いものや、個人的な思い入れが大きいものが見つかっています。
考古学者らは、伯爵夫人は埋めたものをいつか取り戻しに来ようとしていたけれども、結局来れなかったのだろうと推測しています。
影響力のある貴族だった
結論から言うと、フィンケンシュタイン家は当時、非常に力のある家柄でした。ポーランドの科学誌によれば、フォン・フィンケンシュタイン家は「プロイセンで最も影響力のある貴族の一つ」と言われています。
「フィンケンシュタイン家の祖先はおそらく14世紀の初めにケルンテン公国からこの土地にやってきたのでしょう。チュートン騎士団に軍事的支援をした他の騎士たちと共に。」
赤軍がキャンプを張ったのには理由があった
何世紀にもわたって、フォン・フィンケンシュタイン家の人々は、軍人のために重要な役割を担っていました。そのため赤軍が彼らの門を叩いた可能性が高いのです。彼らの影響力と34,000エーカーを超える土地は、キャンプを張るには最適の場所でした。
さらに、一族が所有する牛やその他の家畜も自由に使うことができたのです。
最後の相続人の話をするために連れてこられた
そして、フィンケンシュタイン伯爵の娘で、当時81歳だったヴァルトラウト・フォン・フィンケンシュタインに連絡しました。
彼女は、自分と妹は確かに荘園から追い出され、父親には二度と会うことができず、その状態からしばらくして母親と再会したことを彼に話しました。
遺品が故郷に帰ってきた
遺品の大半は、フォン・フィンケンシュタイン家の最後の相続人であるヴァルトラウトに引き渡されました。彼女は、手紙や家族の宝石、写真集などが手元に戻ってきて、とても喜日ました。
しかし、軍服の持ち主が誰であるかは、彼女も知らなかったのです。
あるものは国庫に預けられた
第二次世界大戦中、東プロイセンはドイツの属領であったにもかかわらず、制服は謎のままでした。紙幣と硬貨に至っては、ポーランドの国庫の所有物となりました。
幸いにも、国庫は歴史の小さな部分を他の人と共有しようと考え、現在は博物館に展示されてます。
もっと知りたい
考古学者チームの研究はまだ終わっていませんでした。パトリックが見つけたものが、第二次世界大戦で失われた遺物であることがわかると、彼らは湖に戻り、再び金属探知機を使ってさらに掘り進めたのです。
その結果、中世の戦斧や中世の集落の遺物を発見したのです。しかし、残念ながら伯爵の生涯を語るに足るものは何も出てきませんでした・・