役者夫婦の象徴、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールの息子が語る、彼らの素顔
ハリウッド夫婦の最も象徴的なカップルと言えば、ハンフリー・ボガートとローレン・バコール。このカップルは、何度か映画で共演し、その共演をきっかけに出会い、結ばれました。残念ながら、バコールが30代前半の時に、ボガードは他界。
ボガードとバコールのラブストーリーは、今でも伝説的なものです。このカップルは、磁石のようにひかれあい、当時幼かった子どもたちですらそのアツアツぶりを覚えているほどです。すでに2人ともこの世を去っていますが、息子はこの夫婦の思い出をよく覚えています。今回は、そんな役者2人の知られざる顔を見ていきましょう。
25歳差だった、ボガートとバコール
アメリカン・フィルム・インスティチュートによれば、ハンフリー・ボガートは、古典アメリカ映画界の偉大な男性スターです。彼は、ブロードウェイの舞台に出演して、第一次世界大戦の後半に俳優活動を開始。1929年の大恐慌を受けて、映画界へと移行していきました。
ボガートは、1899年のクリスマスの日に、ニューヨークにて誕生。母親は、メイフラワー号の乗船者の子孫でした。ボガートの将来の妻であるローレン・バコールは、1924年にニューヨークのブロンクスで誕生。色気たっぷりのルックスと、個性的な声で、ハリウッドで有名になります。
『カサブランカ』に主演し、『アフリカの女王』でアカデミー賞を受賞したボガート
ボガートは、1942年の象徴的映画、『カサブランカ』への出演でよく知られているのではないでしょうか?その前には、『ハイ・シェラ』や『マルタの鷹』にも出演しています。ボガートのスター性は、バコールと結婚してからも鈍ることがありませんでした。1951年、ボガートはキャサリン・ヘプバーンと共演した『アフリカの女王』でアカデミー賞を受賞。
その後も役に恵まれ、1954年には『ケイン号の叛乱』で再びアカデミー賞にノミネート。長いキャリアに置いて、多数の映画に出演しました。『裸足の伯爵夫人』ではエヴァ・ガードナーと、『麗しのサブリナ』ではオードリー・ヘプバーンと共演。
モデルだったバコールは、マリリン・モンローと共演
ボガートと出会う前はモデルだった、ローレン・バコール。演技のキャリアに箔がついてくると、いくつかのロマコメに出演し始めます。マリリン・モンローとベティ・グレイブルと共演した1953年の『百万長者と結婚する方法』、グレゴリー・ペックと共演した『バラの肌着』などです。
バコールは、ジョン・ウェインの遺作である、1976年の『ラスト・シューティスト』にも出演。70年代には、いくつかのブロードウェイの舞台に立ち、1970年の『喝采』と1981年の『ウーマン・オブ・イヤー』でトニー賞を受賞。1996年、『マンハッタン・ラプソディ』でアカデミー賞にノミネートされました。
セットで恋に落ちた、ボガートとバコール
ボガートとバコールは、1944年初共演。2人は映画『脱出』で共演し、お互いに惹かれあったようです。1年後にはオハイオ州ルーカスのマラバー・ファーム州立公園にて挙式。式をあげた家は、ボガードの友人である、ピューリッツァー賞受賞作家のルイス・ブロムフィールドのものでした。
夫婦は、結婚後も共演しています。『三つ数えろ』(写真)、『潜行者』、『キー・ラーゴ』など。息子のスティーブンは、ボガートが『東京ジョー』の撮影中だった、1949年1月6日に誕生しています。
息子のことを誇りに思っていたボガート
父親が亡くなった際、まだ幼かったスティーブン。ボガートは仕事で忙しい人でした。しかし、いくつかの記憶は、スティーブンの中に鮮明に残っているようです。特に、ボガートのボートで行った「サンタナ」に関する記憶です。
「サンタナまでよく連れて行ってくれたよ。」と話す、スティーブン。「やっと僕が泳ぎ方を習得してから、ボート乗りを楽しんだんだ。サンタカタリナ島に行って、サンタナまで泳いで戻ってきたりしたなぁ。父さんはとても誇らしげだったんだ。だって、息子が泳げることがわかったんだからね。そういう誇りの記憶は残るよね。」
有名なご近所さんと育った息子と娘
スティーブンは、ボガートとバコールの第1子です。スティーブンは、この2人が出会ったきっかけとなった映画『脱出』の登場人物にちなんで名づけられました。スティーブンが幼い時は、ライザ・ミネリとジュディ・ガーランドがご近所さんだったそうです。そして、成長し、ドキュメンタリー映画監督、作家、ニュースプロデューサーになったスティーブン。
スティーブンと奥さんには、成人した子供が3人おり、2人は現在フロリダのネープルズに在住しています。妹のレスリー・ハワード・ボガートは1952年に誕生。『化石の森』で共演したボガートの友人から名前をとっています。
自身のライフスタイルのお陰で命を縮める結果に
結婚10周年を迎えた数年後、ボガートは体調を崩します。喫煙と飲酒の習慣が主な原因でした。バコールは、1956年、医者に行くようにボガートを説得。そこで、食道がんの診断を受けます。すぐに、食道全体、2本のリンパ節、肋骨1本を摘出。
残念ながら、手術によって彼の健康状態が回復することはなく、科学療法も効果がありませんでした。1年ほどガンと戦いましたが、その戦いには負けてしまいます。最期の時には、奥さんの腕に手を置いて、「じゃあな」と言って亡くなったそうです。
亡くなる前にはたくさんのハリウッドの有名人が病院を訪問し、葬式にも多くの人が参列
1957年1月のある日、フランク・シナトラ、キャサリン・ヘプバーン、スペンサー・トレイシーが、病床に伏せるボガートに別れを告げにきました。ボガートはその次の日に永眠。
亡くなった時には、57歳だったボガート。彼の遺体の重さは、36キロにまで落ちていました。家族は簡単な式を執り行い、そこには、ハリウッドの有名なスターたちが参列しています。ヘプバーン、トレイシー、ジュディ・ガーランド、ロナルド・レーガン、ベティ・デイヴィス、ダニー・ケイジョーン・フォンテイン、マレーネ・ディートリヒ、ジェームズ・キャグニー、エロール・フリン、グレゴリー・ペック、ゲイリー・クーパー、ビリー・ワイルダー、ジャック・ワーナーなどが参列。
父親のお葬式に現れた人の数に驚いたスティーブン
スティーブン・ボガートは、お葬式に参加して初めて、父親が影響力のある人間であったことに気づきました。父親を亡くした際は、たった8歳だったスティーブン。「父さんが亡くなった時、僕の知らない3,000人の参列者が集まったんだ。」と、2019年、スティーブンはFOXニュースに答えています。「何かが違う。とてつもなく違う、って思ってたよ」。
ボガートは、特別なプレゼントと共に埋葬されます。これは、小さな金色の笛が付いたチャームブレスレットです。ボガートがバコールと結婚する前に彼女にプレゼントしたもので、2人が出会った映画、『脱出』にまつわるステキな言葉が彫られています。
お互いへの愛が現れていた夫婦のブレスレット
映画の中で、バコールはボガートに次のようなセリフを投げかけます。「口笛の吹き方は知ってるわよね、スティーブ。口を合わせて、息を吐きだすのよ」。現代の基準で考えても、このセリフは、かなり際どいのではないでしょうか。ブレスレットにはこのように彫られています。「求めるものがあるときは、笛を吹け」。 このアクセサリーは、家族にとって特別なものです。バコールは、亡くなっても彼のそばにこれを置いておきたい、と考えたのでした。
ボガートは火葬され、遺灰はカリフォルニアのグレンデールにある、フォレスト・ローン・メモリアル・パーク・セメタリーに葬られます。彼の死を受けて、ファンはボガートを祀った「ブギー・カルト」を設立。マサチューセッツのケンブリッジ、ニューヨークのグリニッチ・ビレッジ、フランスなどにその設立メンバーがいます。
娘によれば「涙もろく、ロマンチック」だったボガート
ボガートは、奥さんによく思い出に残るようなジュエリーのプレゼントをしていました。これは、娘のレスリーが大切にしている思い出です。ボガートは、バコールにプレゼントする品をかなり考えて選んでいました。ボガートはいつもステキなメッセージを母への贈り物に彫っていた、と、2015年、レスリーが『ハーパーズ・バザー』に語っています。
「私の母親は、父親のハンフリー・ボガートのことを、涙もろく、ロマンチックな人って説明してたわ。よくきれいなジュエリーをプレゼントしてくれて、そのほぼすべてにステキな言葉や思いと父親のイニシャルが刻まれてるのよ。ロマンチックでしょ!」
愛し合っていたボガートとバコールは、スティーブンにとって良い教師
ボガートは、撮影がなければ、愛するバコールと家で時間を過ごしました。スティーブンは、この2人がお互いをどれだけ愛していたかよくわかっていた、と話しています。
「父さんは仕事から帰ってくると、母さんと食事をしたがるんだ。当時は50年代で、"妻は、子供たちの世話を徹底的にするべきで、意見は、聞くべきではない"って時代だったから、厳しかったは厳しかったよ。でも、2人は愛し合ってたんだ。お互いを必要としてた。まさに、夫と妻だったんだ。」
バコールの若さ、美しさ、強さにひかれたボガート
ボガートがバコールに出会ったとき、彼はこの女優の魅力の虜になりました。「かなりの美人だったんです」と、スティーブンは話します。「母さんは19歳で、父さんは44歳。でも、決め手は、母さんの強さだと思います。強い女性だったんです。誰からのどんな言葉にも、めげませんでした。父さんは、母さんには才能があって、自分についてくることが出来ると考えていたようです。」
かなりの年齢差があるものの、夫婦は直感的にひかれあっていました。ボガートが病気になった時、バコールは彼のベッドのそばを離れなかったと言います。どれだけ母親が憔悴していたか、よく覚えているスティーブン。しかし、ボガートが亡くなった際は、何かが「ふっきれた」ようだったと言います。
父親の死後、大きく変わったスティーブンの人生
ボガートの死後、バコールはカリフォルニアを去り、英国へ渡ります。「カリフォルニアにプール付きの家があったんだ。そこでの生活はなかなかだったよ。でも突然、大きなチャンスが舞い降りてきたんだ。」とスティーブンは回想しています。
スティーブンによれば、バコールはやっと自分を優先に考えるようになり、ずっとやってみたかったことに挑戦するようになったそうです。そして、ニューヨークに住む自分の母親の近くに引っ越して、舞台に挑戦するようになります。
父親のように常に正直でいるよう教えたバコール
1961年、ボガートが亡くなってから4年後、バコールは2人目の夫であるジェイソン・ロバーズと再婚。しかし、結婚生活は、ロバーズのアルコール依存症が原因で終わりを迎えます。ロバーズとの結婚後も、バコールはボガートのことが忘れられなかったようです。
「いつも父さんの話ばかりなんだ。」と話す、スティーブン。「"スティーブンのお父さんならどう考えるかしら?"とか、"あなたのお父さんなら人を適切に扱うわ"、なんて。それこそ、母さんが僕に期待していたことなんだ。母さんは、父さんがうそをつくような人間じゃないと、僕に覚えていて欲しかったんだよ。父さんはうそをつかなかった。母さんはそれをいつも僕に叩き込んでたよ。うそをつくな。正直にいろって。大事なことだったんだ。」
2度目の結婚でもう一人の子どもをもうけたバコール
ロバーズとの8年の結婚生活の中で、夫婦はサムという息子を授かりました。2人が結婚した年に生まれています。サム・ロバーズは俳優で、 2001年のスティーヴン・スピルバーグ監督作『A.I.』での、ヘンリー・スウィントン役で知られています。
2002年、アーサー・ミラー作『ザ・マン・フー・ハド・オール・ザ・ラック(原題)』での役で、サムはトニー賞にノミネートされています。親の離婚にはショックを受けた、と後に認めているサム。彼には、合計で7人の腹違いと父親違いの兄弟がいます。 5人が腹違いで、2人がスティーブンとレスリーです。
困難だったバコールの晩年
バコールは、1958年から亡くなる2014年まで、ニューヨークの有名なダコタ・ハウスに住んでいました。70代になっても演技を続けていましたが、晩年は大変だったようです。病気になり、外に出ずに家にこもることを好むようになりました。
「そこまでの年齢に達すると、どう感じるのかもわからないよ。でも、良い状態ではなかった。」と、スティーブンは話します。「母さんは起き上がって、何かして、外に出かけるような人だったんだ。最期の方は、必要な時のためにアシスタントが常駐しててね。晩年は本人にとっても辛かったと思う。」
母親との会話を今でも懐かしく思っているスティーブン
2014年に亡くなった際には、89歳だったバコール。スティーブンは、常に母親と近しい関係を築いていました。関係が親密であったゆえに、母親の死はスティーブンにとって辛いものだったでしょう。
「母さんがもうそばにいないっていうこと自体が耐えられないよ。」母親の何が一番恋しいかと聞かれた際、彼は次のように答えています。「母さんに話せること。13の時に寮に通うために家を出たんだ。その後は母さんと住んでいたことはないけど、でも話したいとき常にそばにいてくれて、声が聞けたんだ。声を聞けることっていうのが、大きいかな。」
親には勝てないと思って俳優業は諦めたスティーブン
俳優や女優の子どもが、演技の道へ進むのはよくあることですよね。しかし、スティーブンは、ボガートやバコールの足跡を追うことに興味はなかったようです。若い時に演技に挑戦したことはあったものの、長続きはしなかったようです。
「親の能力と比べられたらたまらないだろ?」と、話すスティーブン。「比較対象があれじゃぁね。ごめんだよ。それに、俺は口だけはうるさいんだ。高校の間に劇にいくつか出演したけど。あんまり上手じゃなかったんだ。演技は簡単なことじゃないんだよ。」
父親の遺産を受け継いで、ハリウッドのクラシック作品を次世代へつなげようとするスティーブン
スティーブンは、現在毎年ボガート・フィルム・フェスティバルを開催している、ハンフリー・ボガート・エステートを共同経営しています。「父さんの遺産だけでなく、クラシックなハリウッド作品を残しておくために努力しているんだ。」とスティーブンは話します。「現在たくさんの良い映画があるよね…でも、まだまだハリウッド・クラシックにも、余地はあると思うんだ。」
こちらの企業では、ROKドリンクスと提携を組んで、ボガート・スピリッツの販売も行っています。様々な種類のスピリッツを好んだボガートですが、特にジンとウィスキーを気に入っていました。「父さんのお気に入りのカクテルは、マティーニ、ジントニック、マンハッタン、オールド・ファッションド。」
ピューリッツァー賞受賞作家の家で挙式をしたバコールとボガート
1945年5月21日、オハイオ州のマラバー・ファームのビッグ・ハウスで挙式したボガートとバコール。この家は、『雨ぞ降る』や『アップ・ファーガソン・ウェイ(原題)』を執筆した、ピューリッツァー賞受賞作家のルイス・ブロムフィールドが所有していました。彼らの作品の多くは、映画化されています。
ブロムフィールドは、ボガートと親しく、プレザント・バレーにあるギリシャ復興様式調の農場を2人に貸してくれました。この家は、今でもマラバー・ファーム州立公園で目にすることが出来ます。ボガートとバコールにとって、当時終わりに近づいていた第二次世界大戦からの休息になったようです。
ボガートの死後も女優業で活躍したバコール
結婚につながった映画、『脱出』で女優業をスタートさせたバコール。1957年にボガートが逝去してからも演技を続け、映画界で大きな功績を残しました。
1970年代、ブロードウェイの『喝采』と『ウーマン・オブ・ザ・イヤー』でトニー賞を受賞。1996年には、『マンハッタン・ラプソディ』でゴールデングローブ賞を受賞し、アカデミー賞にノミネートされました。アメリカン・フィルム・インスティチュートでは、2009年にバコールにアカデミー名誉賞を授与。クラシックハリウッド映画における、20番目の偉大な女性スターとなりました。
成長してヨガのインストラクターになったレスリー・ボガート
スティーブン同様、レスリーも親のキャリアを追うことはありませんでした。看護師とヨガのインストラクターになります。 レスリーは、ベストセラーの『Yoga: The Spirit and Practice of Moving into Stillness』を執筆したエリック・シフマンと結婚。シフマンは、高い評価を得ているビデオ、『Yoga Mind and Body』の制作者でもあります。
レスリーは母親のことを、「名声と資産を謳歌しながらも、謙虚でい続けた」と話しています。バコールは、自分の地位を築く助けとなった芸術家に常に感謝していました。レスリーにも、母親の地に足の着いた姿勢が受け継がれているようです。
異なる宗教観を持っていたバコールとボガート
ユダヤ人の家庭に生まれたローレン・バコールは、ハリウッドの文化に合わせて名前を改名。自伝の『By Myself』 によれば、「もともとの名前は、ユダヤ人感が丸出しだと感じたため、改名に後悔はしていない」とのこと。ボガートはキリスト教、そのため、夫婦はスティーブンとレスリーにも洗礼を受けさせました。
バコールは、ボガート議論を次のように説明しています。「世界中にはびこる差別を考えれば、キリスト教の方が障害が一つ少なくなるって言ってたの」。バコールはその選択に関して不安な部分もあったものの、第二次世界大戦後の世界を生きるには、都合が良いと同意しました。
子どもとイヌに莫大な遺産を残したバコール
2014年8月12日のローレン・バコールの死後、莫大な遺産は3人の子どもに渡りました。彼女の2,660万ドルの資産は子どもに分配。「個人的な書類に関しては、公開しないように」との言葉が残されていました。
10,000ドルほどは、ペットのパピヨンのソフィーに残されています。近所の人は、セントラル・パーク・ウエストのアパートのそばで、バコールがソフィーを散歩に連れていく姿をよく見かけていたそうです。 さらに残りの250,000ドルは、大学費用のためにと、孫のカルバンとセバスチャン・ロバーズに残しました。
自分に注目を集めたくなかったスティーブン・ボガート
『サ・パーム・ビーチ・ポスト』とのインタビューで、親の名声がプラスになったことはない、と認めているスティーブン・ボガート。「自分らしくいることで、誰かに好かれたり嫌われたりしたくないんだ」。また、母親のローレン・バコールも、注目を浴びることを好まなかった、と話しています。
「私の友達は、現実の人間です。映画界の人が本物の人間じゃないと言っているわけでないのですが、なんとなくわかってもらえますよね?私の母親が業界のそういうところを好んでいたかというと、そうではないですね。」さらに、必要がない限り、スティーブンは、自分の苗字は極力明かさないようにしているそうです。
冷たい父親だったハンフリー・ボガート
「私の父親は割と年を取っていて、自分には自分のやり方があるような人でした」と、『サ・パーム・ビーチ・ポスト』とのインタビューで語っているスティーブン。週末はボートで出かけることが多く、父親のハンフリー・ボガートを見ることはあまりなかったとも認めています。
「赤ちゃんの世話をする、というのは性に合わなかったんでしょうね。大人になってからだったら、もっと父と親密になれたと思います。」ボガートは奥さんのバコールにはピッタリの相手でしたが、自分の子どもとは、そこまで強い絆を構築してはいなかったようです。
若い時はモデルになりたかったレスリー
15歳の時、母親の足跡をたどって、モデルのキャリアを夢見たレスリー・ボガート。1968年の『ヴォーグ』誌では、4ページの見開きを飾っています。しかし、レスリーがこれ以上、このキャリアを追うことはありませんでした。代わりに、看護師として人々をケアする仕事に就きます。
子どものころ、レスリーの親友はジュディ・ガーランドの娘のローナ・ラフトでした。ローレンとハンフリーは、素晴らしい友人関係であった、と後にローナは語っています。そのローナは、現在女優として活躍しています。
離婚に動揺したサム・ロバーズ
1983年、『ピープル』誌とのインタビューの中で、サム・ロバーズは、親の結婚生活について語っています。幼い子どもからすれば当たり前ですが、親の離婚には戸惑ったようです。しかし、成長してからは、この過程の中で、親から映画界のキャリアに関して学んだと語っています。
「プロの献身が何たるかに気づかせてくれたんだ。」有名な役者家族で育ったサムは、ハリウッドで成功するための強さとモチベーションが理解できた、と話しています。
映画から直接影響を受けることはなかった子どもたち
『ステイ・サースティ―』とのインタビューで、マーク・ヨストは「ハンフリー・ボガートの息子であるというのはどんな感じか」という質問を、スティーブンにしています。「他の人の息子であることと変わりないと思うよ。自分の親がたまたま映画に出てるだけさ。子どもとしては、そいうことはあまり気にならない。」
スティーブンの人生には、あまり関わっていなかったハンフリー・ボガートですが、息子に大きな影響を与えたようです。「父さんのことは、毎日のように考えるよ。」
遊びを忘れず、皮肉も言える様に、息子に教えたハンフリー・ボガート
『ステイ・サースティ―』によれば、父親のハンフリーとは、あまり時間を過ごさなかったスティーブンですが、自分に「ハンフリーっぽさ」を垣間見ることが出来ると言います。「父さんは、鋭く、冗談を忘れないユーモアのある人でした。私にもそういうところがあるんです。」と、スティーブンは話しています。「父さんはなかなか皮肉っぽい人だったけど、僕も結構な皮肉屋なんですよね。」
しかし、父親から受け継いだ最も重要な性格と言えば、「人を適切に扱うこと」でした。これは、母親のバコールからも教えられていたことです。
ジェイソン・ロバーズとも良好な関係を築いていたボガートの子どもたち
ローレン・バコールの元夫である、ジェイソン・ロバーズには、アルコール依存症の問題があったものの、ボガートの子どもたちとは良好な関係を構築していたようです。スティーブンは、よくロバーズとキャッチボールをして遊んで、ロバーズの息子のジェイソン・Jrとはかなり親しくなりました。
「でも、ジェイソン・ロバーズを父親として見たことは一度もないかな。」と、はっきり語っているスティーブン。「人としては好きだったし、母さんと結婚していたけど、それだけのことなんだ。」月日が経っても、ハンフリー・ボガートの影響力は大きかったようです。
何をすべきか子どもに指図することがなかったローレン・バコール
スティーブン・ボガートによれば、バコールは、バカバカしいことを一切許さず、厳しくて自信に満ち溢れた母親でした。「何をすべきか指図を受けたことは一度もないんだ。」とスティーブンは話しています。「僕は自分が誰であるかを知りたかった。ハンフリー・ボガートの息子という以外にね。」
バコールは、子どもたちに自分らしく生きるようにさせていましたが、バコール自身の生活に喜んで子どもたちを受け入れました。「母さんは、それなりの人間になって、それなりの人生を送れるように、僕たちを育てたんだ。」
子どもとの生活を楽しみだした直後に、この世を去ったハンフリー・ボガート
ハンフリー・ボガートの死に衝撃を受けた家族。思いもよらなかったというだけでなく、亡くなった年には、子どもとの時間をもっと過ごして絆を構築し始めていたのです。
「父さんが僕と何か一緒にできるような年になってきていたんだ。」と、『シカゴ・トリビューン』に語るスティーブン。「小さな大人と言ってもよかったんじゃないかな。僕をご飯に連れていくこともできた。溺れる心配なく、僕をボートにのせることもできた。一緒に楽しむことが出来たんだ。そういう時期に差し掛かっていたんだ。そしたら、父さんは病気になって、そこからはすべてが下り坂だった。」
自身のプロジェクトを通じて、父親を知ったスティーブン・ボガート
自分の家族を手に入れ、ハリウッドからかけ離れた生活を送っているスティーブンは、2年間をかけて『Bogart: In Search of My Father』を執筆。この間に、自分の父親に関してほとんど何も知らなかったということに気づきました。
「母はよく、お父さんはどんな人って僕に聞くんです」と、インテビューで明かしたスティーブン。「僕が答えると、母はこんな風に言うんです。“それは映画の中のお父さんでしょ”って」徹底的な研究と努力のお陰で、「人間らしい父親像」を描き出すことが出来たスティーブンですが、この過程で、「一匹オオカミ」という点が、父親のハンフリー・ボガートと似ていると気づいたそうです。
自分には「特別なものがある」とは気づかなかったハンフリー・ボガート
『シネマ・ファナティック』は、スティーブン・ボガートにこんな質問をしています。「ハンフリー・ボガートは、自分が特別な存在であると気づいていたか」この質問に「ノー」と答えたスティーブン。 「だからこそ特別だったんじゃないかな。それに気づいていたら、うまくはいかなかったかも」
スティーブンは、「父さん(ハンフリー・ボガート)は、悠然と自分らしくいたからこそハリウッドで成功したと思う」と話しています。「海が好きで、ボートが好きで、妻を愛した人だった」また、賞などを受賞した際は、必ず脚本家に感謝を伝えていたそうです。
ハリウッドの有名人と暮らしているという意識がなかったバコールとボガートの子どもたち
3,000人の人が参列したハンフリー・ボガートのお葬式の時、初めて親の影響力に気づいたスティーブン。ジュディ・ガーランド、サミー・カーン、アート・リンクレターたちは、ただの友達ではなかったのです。子どもたちは、ここを出て初めて、そのすごさに気づきました。
自分の家族こそが家族だ、とスティーブンは強調しています。「(有名人一家といえど、)母さん、父さんがいて、同じように叱られて、"ママ、違うよ"なんて同じように言い争って、ケンカするんです」バコールは、甘やかしすぎずに、なるべく子どもたちを普通に育てようとしました。
自分を大きく宣伝することがなかったローレン・バコール
ハリウッドで最も有名な俳優のひとりだったにも関わらず、ローレン・バコールは、自分のことを大きく宣伝することがありませんでした。スティーブン・ボガートは、バコールが自分の富と人生に感謝しつつ、そのことを自慢したりすることはなかったと話しています。
アメリカン・フィルム・インスティチュートの偉大なるハリウッドスターのリストに載っていることに関しては、スティーブンは次のように話しています。「僕の母さんを知っているひとなら、"生きる伝説?そんな称号嫌だわ!"なんて言うって言うと思うよ。母さんは、本当は、ありがたいと思ってると思うけどね」
「映画スターの男」だけではなかったハンフリー
『シネマ・ファナティック』とのインタビューで、ハンフリーは俳優ではない仲間とつるむこともよくあったと、スティーブンが明かしています。フランク・シナトラやスペンサー・トレイシーとたくさんの時間を過ごして、脚本家と話すことも好きだったと言います。ハンフリーは、俳優ではない仲間と遊ぶことを楽しんでいたのです。
ハンフリー・ボガートを特別な思い出に残す人物に仕立てあげたのは、この「控えめな部分」だったのではないかと、スティーブンは考えています。彼の出演作の影響は大きいですが、その名声でおごり高ぶることはなかったようです。
映画をたくさん見たローレン・バコール
セットで仕事をしていない時、ローレン・バコールは映画館へ行き、映画鑑賞を楽しんでいたそうです。映画の授賞式がある際には、ノミネートされたすべての作品を見て、それから自分の票を入れていた、と話す息子のスティーブン。
驚くべきことに、バコールは「映画界の人に比べて、舞台関係の人をたくさん知っていた」そうです。ブロードウェーで演技をしたいと夢見ていたバコールは、時間をかけて、リチャード・バートン、ベティ・コムデン、ロディ・マクドウォールなどのブロードウェイ俳優と友人関係を築いていったようです。