地元カナダの英雄の命を救った母親の行動に涙が止まらない
カナダのオンタリオ州のシーフォースのコミュニティー、特にボニー・オライリーにとっては、ホッケーは重要な意味を持ちます。彼女の息子は地元のアイスリンクでトレーニングして育ち、最終的にはNHLのスター選手にまで上り詰めました。地元のアイスリンクを運営していた男性は、地元の柱的な存在。シーフォースの人たちが彼が命に係わる危険にさらされていると知ると、スターの母親であるオライリーは彼を救う決意をして名乗りを上げます。
グラハム・ネスビット
グラハム・ネスビットは、オンタリオ州のシーフォースのコミュニティーにおいて、子供たちがトラブルに巻き込まれることを防止することがいかに重要かを理解しています。地元のアイスリンクを運営しているネスビットは、コミュニティーのために期待をはるかに上回る対応をとっていました。
コミュニテイーの安全を守るために特別な措置をとることで知られるネスビット。嵐の時でも常にリンクを開けています。こうすることで、子供たちが道端で戯れるのではなくリンクに遊びに来ることを促進しているのです。
みんなのために常にそばにいてくれる
息子のジョー・ネスビットはCBCのインタビューの中で、「父親は何があってもリンクを開けていた」、と話しています。「お客さんの中には、『学校の前にアイスリンクをあけてもらうことはできないだろうか』と連絡してくる人もいました」
「父親はみんながスケートできるように、朝6時半にリンクをあけていたんです。子供たちがアクティブに忙しくしてトラブルに巻き込まれないようにしておきたいと考えていました。父にとってはスケートが子供の頃のはけ口になっていたので、地元の子供たちにも同じようにしてあげたかったんです」
ネスビットがアイスリンクを開いた理由
ネスビットにとって、アイスリンクは周りが想像するよりかなり大きな意味を持っていました。常にコミュニティーに尽くしている彼ですが、その理由を不思議に思う方もいるでしょう。
ネスビットの父親は彼が10歳の時に他界。ネスビットは自分の家族とたくさんの時間を過ごしながら、自分のコミュニティーのホッケー一家たちに手を差し伸べたいと感じていました。「ご近所さんとコミュニティーに育ててもらったんだ。だから、いつの日か恩返しがしたいという思いがあった」とネスビットは話しています。
誰もがネスビットを忘れない理由
シーフォースに暮らすホッケー一家にとってネスビットが原動力であることは一目瞭然です。また、家族はネスビットが自身の仕事をかなり真剣に受け止めていることを理解していました。息子のジョーは父親のコミュニティーへの影響力を次のように思い起しています。
「父親は誰に対しても優しく、手を差し伸べて、寛大でいるように教えてくれました。他人への思いやりを見せることは自分に返ってくる。父親の場合はまさにその典型で、だからこそ救われたんです」
トレーニングを行うNHLのスターたち
ネスビットがリンクを開き続けていたことは重要な意味を持ちました。このリンクは将来有望なホッケースターたちのトレーニング場となっていたのです。ライアンとカルのオライリー兄弟は、子供の頃のほとんどをネスビットのアイスリンクで過ごしました。
ライアンはセントルイス・ブルースのキャプテンを務めており、2019年にはスタンレー・カップでチームを勝利に導きました。トロフィーは地元に持ち帰っています。カルは現在、アメリカのホッケーリーグであるリーハイ・ヴァレー・ファントムでプレー中です。
ライアン・オライリーのNHLへの道のり
ライアン・オライリーは1990年から2000年代初期にネスビットのアイスリンクで兄と一緒にトレーニングをして過ごしました。セントルイス・ブルースのキャプテンになる前は、コロラド・アバランチ、メタルルグ・マグニトゴルスク、バッファロー・セイバーズなどでプレーしています。
セントルイス・ブルースのキャプテンのキャプテンになってからは、通常シーズンだけで77ポイント、28ゴール、49アシストをマーク。チームとともにボストン・ブルーインズに勝利した際は、コーン・スマイス賞を受賞しました。トレード後の初シーズンでコーン・スマイス賞を受賞したゴールテンダー以外の選手は、NHL史上、ライアン・オライリーが初めてです。
カル・オライリーのAHLへの道のり
カル・オライリーと弟のライアンは、幼少期にネスビットのアイスリンクでトレーニングをして過ごしました。現在フリーエージェントでアメリカホッケーリーグのリーハイ・ヴァレー・ファントムでプレーしているカルは、フィラデルフィア・フライヤーズの有力候補に挙がっています。
マイナーホッケーチームからスタートし、16歳の時にオンタリオホッケーリーグにドラフト入りしました。奥さんのテラ・フィンドレーは有名なフランス系カナダ人フィギュアスケーター兼アイスダンサーです。
いつもそこにいてくれたネスビット
ボニー・オライリーは、ネスビットが自分の息子たちや地元の子供たちに常に目を光らせてくれていることを知っていました。アイスリンクのオーナーとしての責任を超えた働きに、感謝の気持ちしかありません。
小さな絆の強いシーフォースのコミュニティーは、彼がアイスリンクでの仕事を去った2003年以降もネスビットの行いに深く感謝していました。彼はその後、オリンピア・アイス・リサーフェシング、オンタリオ・レクリエーション・ファシリティー・アソシエーションに勤務しています。
衝撃の診断を受けたネスビット
CBCのインタビューによれば、「アイスリンクの調子がイマイチだったり、整氷車の調子が悪かったりするときに相談する相手と言えばネスビット、とオンタリオ南西部では有名でした」。
2011年、 ネスビットはバージャー病とも呼ばれる閉塞性血栓性血管炎の診断を受けます。本人は深刻な病状を薬で抑え込むことができると信じていましたが、生き残ることは奇跡を意味していました。
バージャー病とは?
メイヨー・クリニックによれば、バージャー病とは免疫グロブリンAと呼ばれる抗体が腎臓に蓄積する腎臓の病気です。
これによって、腎臓が血液中の廃棄物をろ過する能力を妨げる炎症を引き起こします。初めは薬で病気を抑え込むことができていたネスビットですが、2019年、腎臓移植手術が必要であることは明らかでした。
移植が保証されているわけではない
厳しい道のりになると理解していたネスビットは、腎臓ドナーを見つけることができるのか定かではありませんでした。アメリカ合衆国保健福祉省によれば、現在移植希望者の待機リストには107,000名の名前が記載されています。
年間39,000回の移植手術が行われる一方、毎日移植手術を待ち望む17名が命を落としています。腎臓は最も需要が多い臓器の一つです。これに肝臓、心臓、肺が続きます。
行動を起こすべき時
ネスビットが腎臓移植を必要としていると知ると、シーフォースのコミュニティーはできる限りの力になろうと結集します。多くの人がドナーとして名乗りを上げましたが、ドナーは完璧にマッチしている必要がありました。
ネスビットには幸いなことに、息子がすぐに腎臓ドナーを見つけてくれました。チェックを受けたボニー・オライリーが、ネスビットに腎臓を提供しても問題ないと病院側からOKをもらったのです。ボニー自身、喜んで腎臓を提供するつもりでいました。
テストのプロセス
2019年、腎臓移植が必要であることを知ったネスビットですが、すぐに適合者が見つかったわけではありません。オライリーとネスビットは数か月にわたるテストを行って、2020年11月20日にやっと適合者であるという確認が取れました。
さらに、新型コロナウイルスの影響で手術は2021年の3月3日まで延期。手術後、2人はやっとじっくりと話をする機会に恵まれました。「2人きりになったとき、グラハムの感謝の気持ちが感じられました。私にとって特別な瞬間です」と、オライリーは話しています。
恩返しができたオライリー
ネスビットの息子であるジョーは、オライリーが腎臓を寄付する際に口にした言葉を今でも覚えています。「息子たちがプロのホッケー選手としてプレーするという夢を実現するお手伝いをしてくれたことに比べれば、私にできるのはこれくらいしかありません」(オライリー)
そのニュースを耳にすると、ネスビットはこれ以上ないほどに喜びを見せたそうです。「父は驚いていたよ」、とジョー・ネスビットは話します。腎臓移植は、ネスビットのリンクにかかわってきたホッケーファミリーの間の強い絆の象徴でした。
成功した手術
65歳のネスビットは、オライリーの優しさに大いに感謝していました。さて、ついにやってきた腎臓移植手術。術後に撮影された写真を見れば、すべてがうまくいったことがわかります。
ネスビットとオライリーはベッドで隣同士で横たわり、お互いにサムズアップ。セントルイス・ブルースは2人の写真をソーシャルメディアに投稿し、次のようなキャプションをつけています。「家族ぐるみの友人に腎臓を寄付したボニー・オライリーの早急な回復を願っています」
ソーシャルメディアで広がるストーリー
セントルイス・ブルースがオライリーとネスビットの写真を共有し、ファンたちはカル、ライアン、その他のホッケー選手の現在の活躍に一役買った優しくて思いやりのあるネスビットの姿を目にすることができました。
ネスビットの奥さんのパムは、オライリーに対して次のように投稿しています。「私の家族からボニーへ、一生分の贈り物をありがとうございます。あなたの無償の行いは、私たちにとって想像以上の価値があります」
バズったストーリー
セントルイス・ブルースがソーシャルメディアに投稿すると、ストーリーは瞬く間に広がっていきました。関わる人すべてが無私無欲であると感動した一般人たちが、たくさんの心温まるメッセージを投稿しています。
「知っている人や知らない誰かに臓器提供を考えるきっかけになればうれしい」と話すオライリー。ネスビットは次のように話します。「臓器移植プログラムを促進する素晴らしい方法だよ。移植チームはかなり喜んでいるみたいだ」。さらにネスビットは、「新しいお気に入りのチームはセントルイス・ブルースなんだ」と冗談交じりで投稿しています。
回復への道のり
腎臓移植手術は、人生で経験しえることの中でも最も辛いことの1つでしょう。手術は無事に成功して、オライリーとネスビットは1か月ほどでほぼ回復しました。
ネスビットと家族は、自分たちが受けてきたオライリーとシーフォースからの支援に感謝しても感謝しきれない思いです。「チームは成長すると、ただのチーム以上の存在、家族になるんだ。本当に言葉も出ないよ」(ネスビット)
感動的なZoom電話
お互いの現状を確認するために、ネスビットとオライリーはZoomを通じて連絡を取り合っています。ネスビットは、今でも感謝の気持ちを口にするそうです。
「言葉では表せないほどの感謝を感じているんだ」と、感情的にオライリーに話すネスビット。「その気持ちは伝わっているわ。だから十分」とオライリーが返します。2人はまだ手術から回復途中ですが、生まれた特別な絆は長い間生き続けることでしょう。
決断は全く後悔していない
肝臓のドナーになる機会を得たとき、オライリーはすぐさまそのチャンスに飛びつきました。別の人なら考えてしまっていましたが、ネスビットのために名乗りを上げたことには理由があります。
「彼は私の息子たちの望むことを本気で気にかけて支援してくれた人たちの1人なの。だから、『わぁ子供たちの人生のために尽くしてくれたグラハムに恩返しする機会が巡ってきたわ』って思ったのよ」とオライリーは話しています。
ヴィンス・ヴィラーノは何年もの間、その店の常連だった
ヴィンス・ヴィラーノは、ワシントン在住で、デュポンのコーヒーハウスの長年の常連客だった。彼は何年も前からこの店をよく利用していたので、従業員はみんな彼の顔を知っていたし、彼がいつもどんな注文をするのかも知っていた。
だがある朝、その日出勤したバリスタは、彼の何かがおかしいと感じた。彼はどこかピリピリした空気を出していたので、彼女は気軽に何かあったのか尋ねることができなかった。
ニコルはヴィンスの注文を全て覚えていた
ニコル・マクニールは、そのコーヒーショップで働く、朝シフトの従業員の一人だった。そのため、彼女はヴィンスのことを認識していたし、彼の一日の始まりになるであろうその一杯を準備してあげられることを誇りにも思っていた。
実際、ニコルは常連客の飲み物を覚えるために、お客さんに自分の中でニックネームを付けたりしていた。ヴィンスには "トレンタ バニラ スウィート クリーム コールド ブリュー 4 ポンプ "とし呪文のように名付けていた。また、この注文以上に彼のことにも興味を持っていた。
2017年のある日ヴィンスはいつもと様子が違っていた
それは2017年の1月のある日だった。ワシントンは、その日も今にも凍りそうなほど寒い日だった。だからデュポンのそのコーヒーショップに来る客は、ヴィンスを含め、その寒さをどうにしかして温かい飲み物で凌ごうとしていたのだ。
その日、ヴィンスにコーヒーを渡した後、ニコルは彼を二度見した。それは、いつもの長いトレンチコートのポケットに両手を深く突っ込んでいる彼の姿勢がいつもと違うように感じたからだ。だが、もっと驚いたのはその顔の表情だった。
コーヒーを飲むのは朝のルーティーン
多くの人がそうであるように、ヴィンスは朝、コーヒーを飲むことを習慣にしていた。ニコルは、多くの学生や社会人がそうであるように、彼も一日を始めるためのカフェインキックが必要なのだろうと思い込んでいた。
ニコルが知らなかったのは、このルーティンがヴィンスの人生で荒れていた時間の後に始まったということだった。確かに彼はコーヒーを愛してやまなかったのだが、それは軍隊を退団してから始めた習慣だったのだ。
ヴィンスは大きな野望を持った男だった
話はヴィンスの若い頃に遡る。当時のヴィンスの野望は、高校を卒業して北カリフォルニアの学校であるカレッジ・オブ・ザ・シスキースに通うことだった。このカレッジの卒業生には、プロ野球選手のマーク・エイクやプロサッカー選手のダン・ホーキンスがいる。
しかし、大物が通っていたからといって、彼が通いたい訳ではなかった。彼はこの大学に行って、医学と救急医療管理という非常に重要なテーマを勉強したかったのだ。しかし、そんな夢を抱えていたある日、叔父であるサムが彼のドアをノックし軍人になることを提案したのだ。
10年後、彼は軍曹になった
大学で学んだ後、ヴィンスはアメリカ軍に入隊した。いつの間にか10年もの時が過ぎ、彼は軍曹にまでなっていた。まさか彼自身もこんなに長く軍隊にいるとは思ってもいなかったようだ。
救急医療技術者として、ヴィンスは多くの厳しい状況を目の当たりにした。そこでの出来事は、彼をその後も多いに悩ませていた。だからこそ、軍隊を離れたとき、彼は人生を変えると自分に誓いを立てたのだ。
定時の仕事を見つけるヴィンス
ヴィンスが米軍を除隊した後、彼は自分の人生を変えようと意識的に努力した。そこで彼は考え抜いた故に、ワシントン州レイクウッドにある保険会社での仕事を見つけた。
そしてついに、最前線での生活を捨て、9時から5時までの定時の仕事に就くことができたのだ。しかし、平穏に終わるほど彼の人生は簡単なものではなかった。彼の暗黒時代はまだ先のことだったが、ヴィンスは、遅かれ早かれまた怒涛の人生を送ることになる。
自分のための日課を作った
退役軍人の多くがそうであるように、突然市民の生活に馴染むのは、とても難しいとヴィンスは感じていた。そこで彼は自分自身の為に "普通の生活" に慣れる為の日課を作ることにしたのだ。 その習慣は、毎日コーヒーを一杯飲むことから始まった。
その後何年もの間、彼はデュポンのコーヒーチェーン店に行き、同じバリスタに同じ飲み物を注文した。しかし、この時のヴィンスとニコルはそのことをまだ知らなかったが、彼らの人生は、予想外の出来事で変わろうとしていた。そして、それはたった1つの簡単な質問から始まったのだ。
ヴィンスとニコルは、お互いに大きな野望の持ち主だった
ヴィンスと同じように、ニコルは非常に野心的な学生で、ワシントン州タコマのスタジアム高校を卒業した後、大学に進学を志望し、無事にワシントン大学に通うことに成功し、建設管理を学んだ。
彼女は2005年に学位を取得し卒業し、その後すぐに将来の夫であるジャスティンと出会いった。この時のニコルは、夫とヴィンスを何年も毎日見ていたにもかかわらず、多くの共通点が二人の間にあるなど考えてもいなかった。しかし、彼らはどこか見つけ出そうとしていたのかもしれない。
ジャスティンもヴィンスも軍隊でのキャリアがあった
偶然にも、ニコルの夫ジャスティンも退役軍人だった。しかも、ただの退役軍人ではなく アメリカ陸軍だった。更には、彼もまた、軍曹のランクを与えられていたのだ。
もちろんニコルは、 自分の常連客の一人がジャスティンと共通点があるとは知らなかった。しかし、あの日運命的な質問をしたことで、すべてが変わろうとしていた。そして、そこから二人の人生はあっという間に変わっていったのだ。
ニコルは、コーヒーショップで働き始めて数年経っていた
ニコルは、2014年からそのコーヒーショップで働いていたので、彼女はヴィンスの習慣を知っていた。しかし、注文内容や彼が毎朝店に来るこ以上のことは、もちろん知る由もなかった。
ニコルは、既にその場所で長年働いていたので、とてもユニークなポジションに就いていた。それについては、ヴィンスも特に知らなかった。しかし、その偶然が重なったからこそ、ニコルは彼の命を救うことができたのだ。
ニコルは、お客のボディランゲージを捉えるのが得意
バリスタという仕事柄、ニコルはヴィンスをはじめ、毎日多くの人と接していた。だから、彼女は毎日、常連客を見ることに慣れていたし、彼らの気分の変化やボディランゲージのちょっとした違和感を感じとることもあった。
その日のヴィンスは、普段よりピリピリしているようにも見えたし、姿勢ももいつもと違うようにニコルは感じた。あとはそのことについて彼に尋ねるかどうかを決めかねていた。いくら毎日顔を見合わせているからといって、個人的な質問をするのは気が引けたのだ。
すぐに何が違うのかわかることになる
そのコーヒーショップの公式サイトでニコルは、"バリスタとして、お客様が悲しんでいるとき、傷ついているときを本当に見分けることができます "とコメントしていた。彼女は、3児の母として、人々の感情に非常に敏感で、特に彼らの気分が落ち込んでいるときはよく気付くのだった。
だからこそ、その運命の日にヴィンスが不機嫌な表情を浮かべ、どこかだるそうに歩く姿勢に、ニコルはすぐにその彼の体か気分に不調があるのかもしれないと感じとる事ができたのだった。
その時間は、彼女のシフトがちょうど終わる時間だった
ワシントンの1月だったので、外は凍えるような寒い。彼女は最初、彼が少し体調でも崩したのかと思った。ニコルは、その日のシフトがちょうど終わる時間に差し掛かっていた。いつもよりも少し不機嫌そうなヴィンスを気にかけながら、時間も気にしていた。
ヴィンスは特に、めったに表情や態度の変化があまり無い、本当に規則正しい男性に見えていた。そんな彼のいつもの様子が違うのだから、ニコルは、何かを言わなければならないという衝動に駆られていた。
気分があまり優れないようだ
MailOnlineとのインタビューで、ニコルはヴィンスのことをこう話している、「彼はいつも幸せそうに見えていたのに、その日は少し不機嫌そうだった。ただコーヒーを飲んで帰りたかったのかなと思ったわ」と最初の心境について話している。
しかし、個人的に知らない、コーヒーを出すだけのお客に何かプライベートなことを聞くのはいかがなもんだろうか。彼は、自分のことを不思議に思ったり、不審に思ったりしないだろうか。彼女は、心の中での葛藤を続けた
彼女は、座って話そうといった
彼のいつもの注文である30オンスのバニラを追加したバニラコールドブリューを準備した後、ニコルはついに勇気を出して、二人の人生の流れを変えようとしていた。そう、とっても簡単な質問をヴィンスにしたのだ。
ニコルは、 "いろいろ大丈夫ですか?"とだけ尋ねた。彼女は純粋に彼を心配していた。その朝のヴィンスは、他人に心を開く準備はできていなかった。ただニコールも常連客を少しでも助けることに必死だった。だから彼女は、彼が心を開いてくれるようにと、強く彼に話しかけたのだ。
ヴィンスについて興味深いことを知る
MailOnlineとのインタビューでニコルは「あと15分から20分で帰るから、子供を迎えに行く前に30分くらい座っておしゃべりしましょう」と彼に話しかけたと答えている。
ヴィンスは「そんなに簡単に話せる内容では無い」とあまりいい気分ではなかったようだ。しかし、彼は次に彼女が発した言葉で気持ちが少し変わったようだ。彼女は、「実は今日はちょっといつもより時間があるんです !」と笑顔で答えた。二人は、椅子に座って話すことになった。
座ってお互いについて語り合う
ニコルはその日のシフトを終え、一つのテーブルにヴィンスと向かい合うようにして座った。そこから、二人に共通点が多いことに気づくまで、そう時間はかからなかった。先述したように、ヴィンスとニコルの夫ジャスティンも陸軍の退役軍人だったのだから。
しかし、彼の悩みは、軍人から一般市民の生活へ移行したことへの不満ではなかった。彼の表情の落ち込みは、精神的なものではなく 健康面が原因だったのだ。
ヴィンスは多嚢胞性腎疾患を患っていた
ヴィンスは、多嚢胞性腎不全と診断されていた。この病気は遺伝的なもので、その臓器の機能が完全に途絶えるまで、嚢胞を抱えた腎臓の肥大化が起こるのだ。
ヴィンスの家族の中で数人がこの病気を患っていた。そこには、高血圧や腎不全などの合併症を引き起こし亡くなった曾祖父母を含まれていた。その日の朝のヴィンスは、特に具合がよくなく、ニコルがいつもと違う表情を感じ取ったのも理にかなっていた。
病気についての詳細
米国国立医学図書館によると、「多嚢胞性腎疾患は、腎臓や他の臓器に影響を及ぼす疾患である。」とされている。更には、「嚢胞と呼ばれる体液で満たされた嚢の塊が腎臓に発生し、血液中の老廃物をろ過する能力を妨害する」とも言われている。
ヴィンスは、ただただその病気の進行と戦うしかなかった。例え、彼が心の準備やその診断を望んでいなくても、病気の進行は彼を待ってはくれなかった。病気が分かってからというもの、体調と共に彼の気持ちはひどく落ち込む事があった。
話し始めのヴィンスは、淡々と事実だけを語った
コーヒーサイトの公式ニュースサイトで、ヴィンスは「最初に診断された時は、『もう死ぬんだ』って感じだった」と語っている。軍人であった時の厳しい生活を終え、いざ普通の市民のように生活しようと思っていた彼にとっては、それはかなり衝撃的な事実であった。
しかし、「死に直面したのは初めてじゃない」と続けた。そう、彼は軍隊で何度か死に直面した経験があるのだ。ただ、病気に関しては彼の手に負えるものではなかった。「どうすることもできない。ただ、頭の上に常に黒い雲がかかっているようなものだ」と述べている。
ヴィンスは腎臓移植が必要だと言われた
診断を受けてから数年が経過していたが、症状は悪化するばかりだった。2016年、ヴィンスは腎臓透析を受けていた。しかし、2018年のニコルと話す数日前、彼の現在の症状についての追加で情報が入ってきたのだ。
ヴィンスの医師は、彼に腎臓移植が必要で、今の状態では生死に関わる状況だと告げたのだ。そのニュースは、ニコルを悲しませた。そして、その夜、彼女はジャスティンに今日あったことをすべて話したのだ。
ジャスティンは、ヴィンスに腎臓提供を申し出た
ニコルがジャスティンに、ヴィンスとの話をしていた時、彼は無欲かつ華麗な解決策を思いついたのだという。彼女はインタビューの中で、「すぐに、彼(ジャステイン)は言ったわ。『僕の腎臓を使えばいい』とね」とコメントしている。
「実は私は、特に驚きはしなかったわ。彼は寛大で親切だし、おそらくこのことを聞いた私たちの友人も驚かないわね。"もちろんジャスティンならやってくれるわ "ってね。」
ジャスティンとヴィンスはすぐに意気投合した
そこからジャスティンとヴィンスはすぐに友達になった。最初はニコルと一緒に話を始めたのだが、その後は二人だけで話し込むようになった。この時2人は、お互いの臓器の相性が合うかどうかを確かめるために、まだ検査にも行っていなかったのだとか。
インタビューの中でニコルは「それからヴィンスは、私たちの休日の食事会に来るようになり、それから彼とジャスティンは、昔からの親友のようになった」と語っている。こんな偶然起こりうるのだろうか。
ヴィンスは、すぐに家族の一員となった
ジャスティンとニコルがヴィンスを家族の一員と考えるのにそう時間はかからなかった。夫婦はもちろん、3人の子供たちも一緒にビンスを慕っていた。そして、彼はジャスティンの寛大な申し出を知っていたが、ヴィンスはまだ彼のこの申し出に疑問を持っていた。
ぜそこまでしてくれるのか、、彼はニコルとジャスティンが自分のためにしてくれたことに感謝してもしきれなかった。そして、いよいよ二人が検査を受ける時が来た。
ジャスティンの検査結果は良好だった
移植を行う前に、患者とドナーの相性を確認するためにいくつかの検査を受ける必要がある。アリナ・ヘルスのウェブサイトには、"腎臓を提供できるかどうかの検査は、血液検査から始まります。"と書かれている。
"この検査では、あなたの血液型とレシピエントの血液が一致するかどうかを判断します。あなたの血液型がレシピエントの血液と適合する場合は、さらに2つの血液検査が行われます(組織型検査とクロスマッチング)。"
検査を全て終えるのに一年ほどかかった
2人のドナーとして相性が合うこと、そしてジャスティンがビンスに腎臓を提供できることを誰もが祈っていた。しかし、彼らはこの全ての検査の結果が出るまで我慢しなければならなかった。残念なことに、この検査には合計12ヶ月かかることになっていたのだ。
だから1年間、誰もがただただ結果が出るのを待っていたのだ。そして、ついにその結果が出た時、多くの人はその結果を信じられなかったのだ。
ジャスティンとヴィンスの相性は合致!
検査の結果、ジャスティンとヴィンスの相性が合致したと連絡があったのだ!そこから2人は、時間を無駄にしないように、すぐに手術の日取りを決めた。ジャスティンの36歳の誕生日の翌日、12月26日が勝負の日となった。
ジャスティンによると、臓器提供を承諾するのは簡単だったという。『「単純にやろう」って感じだった。2つあるんだからできるよね?1個あるなら大丈夫なんでしょ?それならいいじゃない。ヴィンスにとっては、本当に死活問題なんですよ。だから、それ以外質問はなかった』と言う。
見事、臓器提供は成功した
12月26日が来て、2人は手術室に車で運ばれた。ニコルさんは、外科医が出てきて話しかけてくるのを不安そうに待っていたが、医師がきて話を聞いた彼女は大喜びだった。
移植は完璧に成功し、ジャスティンとヴィンスの2人は回復に向かっていた。ヴィンスにとっての新しい腎臓は、少なくとも20年以上生きられることを意味していた。これはここから彼の人生が輝きだす時間をも意味していたのだ。