ニューヨークで廃墟と化した大邸宅の謎とは

ニューヨーク市は、現在850万人が住む、アメリカで一番人口の多い街のひとつです。超高層ビルが立ち並び、毎年25万人もの人が移り住むため、家賃もものすごく高くなっているのは、みんなご存知かと思います。そんなニューヨークは、洞窟のような地下鉄(いつも工事中)の底から、エンパイアステートビルの頂上まで、漏らすことなく、隅々まで調べられています。つまりは、どこにも廃墟なんて存在しないはずなんです。

では、なぜ廃墟と化した大邸宅は、未だにそのままなのか?

photo credit: Bryan Sansivero
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騒々しいタイムズスクエアの中心から、2-3マイル離れた場所にこの廃墟と化した大邸宅はあります。しかし、あまりその内情についてはほとんど知られていません。また、中の状態は、かなりいい状態で保たれています。この噂に興味を持ったブライアン・サンシベロという写真家は、この廃墟と化した大邸宅に忍び込み、衝撃の写真の数々を捉えました。

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廃墟化した家の隠された真実が明らかに

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photo credit: Bryan Sansivero
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もし、ニューヨークを拠点に活動している写真家のブライアンが、関わらなかったら、この大邸宅は、マンハッタンの郊外で、未だ人知れず、朽ち果てていたことでしょう。サンシベロは、都市の中でも特に、廃墟と化した建物にフォーカスを当てて写真を撮っています。2008年には、”キングス公園の影”というニューヨークのキングス公園にあるボロボロの精神科病棟についての作品で賞を受賞しました。その映画は、人々に忘れられたものに再び脚光を浴びさせることを題材としています。そして、このサンシベロは、57もの部屋のある大邸宅に入り、中を撮影することにしたのです。

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40年間廃墟だった大邸宅は、57もの部屋がある

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photo credit: Bryan Sansivero
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この広大な邸宅は、1930年代に建築され、1970年代を最後に、その後誰も住むことがありませんでした。この大邸宅の元々の所有者がどうして家を手放したのか、どうしてだれもその後住んでいないのか、その理由については、だれも知ることがありません。そして、この大邸宅には、57もの部屋があり、インドアのテニスコートやボーリングレーンまでも設備されています。また、この大邸宅は、一等地にあり、ホテルに改装することだって可能なのです。(それでかなり儲けることができるでしょう)。しかし、決してそのように再利用されることもなく、ただ朽ち果てていったのです。

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現在のオーナーは、ただこの家を朽ちるのを見ているだけ

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photo credit: Bryan Sansivero
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この豪華な大邸宅は、かつて栄華を繁栄していました。57もの部屋を必要とした人は、何をしてそれだけの家を建てることができたのか、すべて謎のままです。しかし、ある特定の時期に繁栄していたことはわかっています。その大邸宅は、現在、廃墟と化していますが、その家の所有者は、現在も存在するのです。報告によると、その大邸宅の所有者は、名前が公表されていない大金持ちで、常に大邸宅を購入しては、そこを廃墟と化してしまっているそうです。そのオーナーは、明らかに数多くの豪華な家を買っては、そのまま朽ち果てさせてしまっているのです。

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その大邸宅は、6エーカーの領地に立っています

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photo credit: Bryan Sansivero
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その驚異的に大きな大邸宅は、内装だけがすごいのではありません。なんと、その大邸宅は、6エーカーの領地に立っているのです。また、中はまるで小さな街のようになんでも揃っているのです。ボーリングレーンとテニスコートもあれば、スポーツをしない人には、バーも二つあるので飲み食いすることも可能です。また、私用の図書館もあります。そこに住んでいた人は、おそらく引っ越す理由などなかったでしょう。

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しかし、住んでいた人は、急いで引っ越したようです

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この豪華で、広大な大邸宅は、普通の経路で売られた様子ではないようです。この大邸宅が、放置されたのには、何かかなり怪しい背景がありそうです。この領地に住んでいた人は、とにかく急いで引っ越した感じが伺えるのです。もしくは多分、もともとのオーナーが、事故で急死して、家を残したため、オークションにかかったことも考えられます。または、法的に逃げなければならなかったのかも。

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とにかくその理由は、誰も知りません。でも、家は完全にまるで誰かが住んでいたようにそのままで、クローゼットの中には、たくさんの靴や服がそのままになっているのです。子供のおもちゃや家具もそのまま置いてあり、まるで、オーナーは、それらを持っていく時間すらなかったように部屋に物が散乱しているのです。

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少なくとも一人は女性が住んでいた

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photo credit: Bryan Sansivero
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この家の元の住人を推測することは簡単ではありませんが、少なくともひとりは、女性がここに住んでいたようです。というのも、この女性は、寝室に彼女の靴のコレクションをすべて置いていっているからです。

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この靴のタイプから見ると、彼女は、運動するタイプではなく、とても保守的な感じの女性だと推測されます。彼女の靴は、どれも肌色や灰色などの抑えた色のシングルバックのヒールの低い靴で、緑のシングルバックのカラフルな足の先が見える靴がひとつありました。スニーカーはなく、彼女は、インドアのテニスコートは使わなかったようです。また、おそらく子供もいたのでしょう。

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一緒に住んでいた子供たちはどうなったの?

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photo credit: Bryan Sansivero
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ここに女性が住んでいたことがわかり、その彼女は、母親だった可能性も出てきました。家の中に捨てられたものの中には、子供が所有していたような人形やおもちゃなどがあります。螺旋階段のすぐ側のロビーには、ビンテージの乳母車が、ほぼ新品同様の状態のまま捨てられています。そのことからも、その家には、おそらく複数の子供がいたことが分かります。乳幼児、幼少期の子供、それからヨチヨチ歩きの赤ちゃん。子供たちは、人形と遊べるぐらいの年齢で、少なくともハイハイして、おもちゃをリビングルームに持っていけるぐらいだったのかもしれません。

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子供のうちの一人は、学校に通う年齢で、ゴルフを楽しんでいた

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複数の子供がいたことがわかりますが、ひとりは赤ちゃんで、もうひとりは、学校に行く年齢の子供だということもわかりました。この写真に写っていますが、寄宿舎のある学校のトランクが見えています。お金持ちの家族は、たいていの場合、子供を公立の学校には行かせず、寄宿舎のある学校などに通わせます。この子供は、おじさんたちとゴルフのラウンドも楽しんでいたようです。この写真の中に、ゴルフクラブのケースが映っていますからね。この絵画の男の子は、この家に住んでいた子なのでしょうか?

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他の子供は、ホームスクールだったのか?

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photo credit: Bryan Sansivero
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この忘れ去られた家の写真から、ここの子供たちが、寄宿舎のある学校には行っておらず、ホームスクールだった可能性が見つかりました。なんてったってかなり大きな家です。どんな目的にも使用可能です。この部屋は、現代の学校のクラスルームにあるような子供用のデスクが3つありました。しかも、小さなアンテナ付きのテレビとアラーム付きの時計もあります。この壁は、ゆっくりとはがれていて、白色がクリーム色になり、いまは、灰色がかっています。相当な箇所のペンキの塗り直しが必要です。ここの家の母親は、とても厳しい人で、寄宿舎のある学校から帰って来た時に、ここで子供たちに勉強をさせたのでしょうか?それとも彼女が先生だったのでしょうか?

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ライブラリーの棚には、未だにたくさんの本が入ったままです

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photo credit: Bryan Sansivero
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ここの家に住んでいた家族は、引っ越す際に、本を持っていく時間もなかったようです。でも熱心な読書家だったようですね。これが、学校の部屋ではないのなら、この家族は、教育熱心だったのでしょう。ライブラリーが良い証拠です。私用のライブラリーには、本棚から本が落ちて、豪華な机の上に散乱しています。ソファーもあるので、そこで家族は快適に読書をしたのでしょう。長年の月日のせいで、本の中には、ページが剥がれ、床に散らばっています。しかし、この部屋の木製のパネルは、とても綺麗な状態を保っています。

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ダンスホールは、そのままの状態です

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photo credit: Bryan Sansivero
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この大邸宅は、世界で最も忙しい街の郊外にあるにも関わらず、侵入者の形跡もほとんどなく、完全にそのままの状態を保っています。少し変な落書きが、少しそこらへんにあるだけで、この家は、何も外観を損なっておらず、ただ時が過ぎただけです。実際に、この大きな太陽の光いっぱいの部屋は、小さな落書き、ペンキの剥がれ、ヒビの入った鏡があるだけの綺麗な状態です。家族は、しかも豪華なブルーのカーペット、花の窓飾り、カーテン、高価なグランドピアノをそのまま置いていき、そしてソファーの上には、スーツケースが置かれています。彼らは、荷造りする時間もなかったの?

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このインドアテニスコートは、今はガラージ

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photo credit: Bryan Sansivero
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この家のインドアテニスコートは、この家の中でも最も自慢できるもののひとつです。天井全体が、大きな広く伸びた窓でおおわれ、太陽の光をたっぷりと注ぎ込んでいます。ほとんど外にいるのと変わりないにもかかわらず、室温が調節されているのです(ニューヨークの冬はとても厳しく、ここのオーナーは、一年中テニスを楽しみたかったようですね)。この巨大なテニスコートは、良く使用され、メンテナンスされていたのでしょうが、娯楽施設というよりは、物置代わりに変更していったようです。古いテーブル、扇風機、崩れた壁からの瓦礫が散乱しています。しかも、破棄された車もあり、ここは完全に物置と化しています。

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この家は、ビクトリアデザインのタイムカプセルです

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1930年代を通して、アート・デコと同じで、70年代には、派手なシャグカーペットやブラウントーンで、この大邸宅のオーナーは、ビクトリア風の内装デザインを好んだようです。この崩れかかった部屋の家具や装飾が証拠です。ビクトリアンデザインは、1800年代半ばから、1900年代初頭に好まれ、太いプリント、暗いパターンの壁紙、豪華な装飾そして高価な宝石類で彩られていました。アーチ状の棚のようなゴシック・リバイバルの要素を含み、写真のように装飾された柱が象徴的です。この部屋のトロフィーケースは、金色仕上げで、豪華な彫刻が施され、ビクトリアンデザインを表しています。これは、1970年代の家族にとっては、ユニークなチョイスと言えます。

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この家は、時代と共に装飾されてきた

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photo credit: Bryan Sansivero
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この家のオーナーは、恐らく長い間住んでいたようです。この家は、おそらく30年代から70年代まで同じ家族が住んでいたようです。これは、家の内装のデザインが物語っています。多くの部屋が、ヴィクトリアンデザインですが、この写真にある椅子は、ほとんどすべての時代をカバーしています。竹の椅子も30年代、40年代のアート・デコがあります。ヴィクトリアンスタイルを示すカーブのある、豪華な木目調のディーテイルがあります。50年代、と60年代の現代中期の太い色もあり、70年代の特有のマスタード色、ブラウントーンもあります。

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家は、要素には適していない

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このすごい写真に、馬の乗り物が映っています。家の中でふざけて遊ぶヨチヨチ歩きの幼児のお気に入りのものでした。その馬の乗り物は、ヴィンテージの朽ちかけたソファーの間にあって、この家は、まだその要素の影響を受けています。部屋の右側の大きな窓は、まだ、カーテンで覆われていますが、ニューヨークの寒い冷気が入ってくるのを防いではいません。床の一部は、雪で覆われ、誰かが家に来て、窓を閉じないと、自然にこの家が飲まれていくようです。

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この家のオーナーは音楽家だったのかも?

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この家が建てられた1930年代には、テレビはまだ、新しいものでした。実際、テレビが発明されたのは、たった10年も前の頃で、70年代になって、一般にも普及し、家族でブラウン管の前に座って夜のプログラムを楽しんだものです。他のアメリカ人と違って、この家のオーナーは、テレビはあまり見なかったようです(家に一台だけありましたが、それは後述します)。その代わり、たくさんの音楽機材があります。ダンスホールには、2台のグランドピアノがあり、(大邸宅なら一つはわかりますが、二つあるという事は、それを引いていたという事です)。また、リビングルームには、アコーディオンが一台、小さなキーボード、スピーカー、録音機などが、他の部屋にもあります。

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暖炉のある部屋には高価な絵画や家具がそのままに

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この大邸宅の一番奇妙なことは、その家族が、突然消え去ったことです。この部屋には、子供たちがいた証拠が全くありませんが、テレビが2台(注意して見るとわかりますが、左の端にスクリーンがあります。)子供が座ってみれるような豪華で快適そうなソファーはなく、そこから、この部屋は、大人がテレビを楽しんだ場所であったことが分かります。暖炉の周りに高価そうな椅子が置かれています。この部屋の大きさからすれば、暖炉の方が、普通の暖房器具よりもより効果的に部屋を暖められたのでしょう。特に、この家の大きさから考えると、冬の暖房は大変で、かなりの費用が掛かったことでしょう(まあ、こんな大邸宅にすんでいれば、細かい出費は気にしないのでしょうが)。

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椅子の横に捨てられた自動ピアノ

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2017年には、自動ピアノはあまり見かけません。しかし、70年代には、かなり人気がありませんでした。実際、自動ピアノの販売は、1924年にピークを迎え、1929年には、市場が崩落し、すべての生産が完全に止まりました。自動ピアノは、電気製品の存在しなかった当時の遺跡のようなものです。明らかに、この家のオーナーは、テレビや録音機などの電気製品をもっていました。これは、おそらくその家族の家宝的なもので、1930年代から1970年代にかけて、この家は多分、年配の方か、数世代で住んでいた大家族だったのでしょう。

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なぜ、オーナーは、急に家を出て行ってしまったのでしょうか?

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所有地の修繕を終える前に、この家のオーナーは、起きて、すぐに家を出た感じです。家の内装を撮影したスナップショットには、はしごがそのまま立てられたままで、ペンキから床を守るシートもそのままの状態です。おそらく、ここのオーナーは、売りに出す前に修繕をしようとしていたが、それも価値がないと思ったのでしょう。おそらく新しいオーナーも元のオーナーがやりかけていた修繕もそのままにして購入して、お金をかける価値もないと判断したのでしょう。もしかしたら、修繕中に破産してしまったのかもしれません。この大きさの家になると、ただ維持するだけでも、かなりのお金が必要になります。結局、どうしてこの大邸宅が、この様な状態で、そのまま放置されるようになったのか、そのミステリーを知ることは無いのかもしれませんね。

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ニューヨーク市の見捨てられたノースブラザー島

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そうです。あるんです。不動産があふれ、土地の価格が信じられない程高い街の中に、開拓業者も手をつけない場所が一つだけあります。それが、ノースブラザー島です。ノースブラザー島は、療養所として、またはチフス患者や天然痘の隔離病棟としての歴史があります。しかし、今日、ゆっくりではありますが、不気味な島の始まりであったものが、重要な鳥の繁殖場として使用されています。

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川ではない川

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見捨てられた島は、ニューヨークのイーストリバーにありますが、イーストリバーが、川ではないことを知らないかもしれませんね。それは、干潮河口にあり、真水というよりは、塩水です。その川は、北の先にあるロングアイランド湾から流れ、最南端のアッパーニューヨークベイまで届きます。長い間、ニューヨークの海運業の中心で、かつては、最も忙しい航路でした。もちろん、これは、今ではあり得ないことで、イーストリバーは、今はかなり静かな川です。

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島は呪われている

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ノーザーブラザー島は、療養所そしてチフス患者や天然痘の隔離病棟として約80年間使用された後、1963年に捨て去されました。島は、一時期40以上もの病院、教会、モルグ、寮の宿泊施設、灯台などの建物に覆われていたほど忙しい時期もありました。今は、見る影もなく、かつて使用されていた錆や埃まみれの崩れかけた家具であふれた呪われた不気味な雰囲気のある島と化しています。壊れて崩れかけた椅子、消えかかったインクで書かれた廃れた紙まみれの本、瓦礫や壊れた窓に囲まれた汚いバスタブなどが、島の至る所で見つけることができます。

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現在の結核患者の隔離病棟

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これが、現在の1941年に付け加えられた結核患者隔離病棟です。今は、壊れた窓だらけで、ツルで覆われたこの建物が、かつては、多くのひどい結核で苦しんだ何千人もの患者を救ってきた場所とは信じられませんよね。医療において、とても難しいプロセスの一つが、この病気の患者を完全に回復するまで、この建物に隔離していたことです。当時は、この建物が必要でありましたが、ワクチン導入や効果的な抗生物質の治療のおかげで、すぐに不必要なものとなりました。結局たったの2年で閉じられることになりました。

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中の様子

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見てください、これが施設内のかつての綺麗で整然とした壁で、今は壊れ果て凄まじい状態です。まるで戦争下の爆発後のように、歳月を感じさせる瓦礫の山です。1945年以来使われていないこの建物を考えても、溜まった塵や錆、そして古びた家具は、かなりすごいものがあります。近所の人も旅行者もこの捨て去られた場所を何年も知っているはずですが、この島の建物に落書きがないことは、すごいことです。壊れた窓も、ツルの成長による"自然”の力によるもの(または、ランダムな旅行者)であり、人々は、訪れた際も、そのままを保存しています。

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大地とかした床

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他の施設内の部屋は、ほかの島と同じように、土で覆われ、"大地”と化したような部屋もあります。床のヒビから根が生え、40年前にこの装飾が存在していたことが信じられません。壁や天井の表面や内部がかなりダメージを受けているのがわかります。少なくとも50年以上前まで、この建物は、病気で苦しんでいた感染症患者を治療し、助けていたのです。それが、今なお、ある意味そのままを残し、壊れた建物は、庭のような雰囲気を醸し出しています。

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レントゲン室

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かつての施設内のレントゲン室は、医療ウイングの一階のタイル張りの神聖な場所となっています。左横に隣接したコントロール室は、あまり壊れていない感じもしますが、壁はかなり朽ち果てています。かつて連なった黄色いセラミックタイルで覆われていましたが、壊れた壁の表面がむき出しになり、四角い鉛のブロックがあらわになっています。この部屋が、何年もの間、ある意味そのままの状態を保っているのは、すごいことですが、部屋の右側の壁の上と天井を見ると、水によるダメージが見えます。

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捨てられた講堂

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島の左側で、一番重要な部屋のひとつが、もともと島のサービス用の建物であったノースブラザーの"学校”にあった、今は根っこだらけの講堂です。かつては、生徒や教師のために機能していた場所ですが、今は瓦礫や壊れた家具で溢れた、地面がむき出しになった部屋となっています。もし、この朽ちた壁が話せたら、この部屋がどのように使用されたか伺うことができるでしょう。おそらく、この施設は、この島の何百人もの病気の子供たちを収容し、この捨てられた島において、かつて機能を発揮していました。

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人のための本

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かつては、この島の住人や雇用者にとって意味があった言葉で書かれた本が、破られ、捨てられ、そこら中に散乱し、床を覆ています。小児病棟であったものが、後に図書館になり、結核患者の病棟は、薬物処置室になりました。前述でも述べたように、結核の患者は、治療を受け、病気が完治するまで、その感染力の高さから、厳重な監視下のもとで隔離されていました。その期間は、何か月から何年にもなり、子供たちは、静養することもできず、本が唯一の楽しみでした。そのことからも、この部屋が図書館に変わったことも納得がいきます。

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苔だらけ

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これが、もともと島の二番目のチャペルだったと想像するのは難しですよね、壁が一つだけあって、床は一部だけ残り、木は苔だらけで、チャペルの痕跡がありません。木で作られた建物は、凄まじい勢いで成長する森に飲み込まれ、ゆっくりと島の一部となっています。こういったストレスが多く、悲しく、いつも死に直面している状況下では、神を信じ祈るためには、チャペルが二つ必要だったのでしょう。見た目では、何も価値の無いようにも見えますが、この町には必要不可欠なものだったことが伺えます。今のノースブラザーの状態を見てきましたが、ここから、この土地の歴史について振り返ってみましょう。

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ノースブラザーの起源

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ノースブラザーが使用されていたころ、天然痘患者は、汚染されていた期間だけそこに滞在し、または、埋められたのでしょう。一度回復すればその島を出て、家に帰ることができました。この病気の感染力の弱い牛痘の感染を発見したエドワード・ジェンナーの功績で、ワクチンが開発され、完全な天然痘の感染を防ぐ効果的な方法を提供することができました。そのため、天然痘の広がりが、世界的に抑えられ、完全に撲滅することができました。天然痘の患者は、町から排除され、すでにこの病気で苦しみ、回復した医療スタッフにより看病されるために、島のこの施設に呼ばれました。

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この島の最も評判の悪い住人、チフス・メアリー

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メアリー・マロンは、チフス菌で病気になったのではありません。その代わり、彼女は、この病気の無症状保菌者という事で滞在していました。それが、どういう意味かというと、彼女は、このチフス菌で病気にはならないものの、他の人を感染させるということでした。彼女は、"チフス菌のメアリー”として知られ、コックとして、ニューヨークで多くの人を感染させました。メアリーは、自分が感染症を広げた張本人であることを認めず、コックを無理やりやめさせられ、20年以上も強制的にノースブラザー島に隔離されました。

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チフス菌メアリー、島で死す

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メアリー・マロンのケースは、ひどいものでした。彼女が、チフス菌保菌者という事を認めなかったために、少なくとも、3人の命を奪いました。しかし、彼女の公共衛生に与えた被害を考えると、50以上の死に影響しているとも言われています。1932年に、メアリーは、脳卒中で倒れて、完全麻痺を起すまで、島で技術者として勤務していました。1938年に肺炎で亡くなりました。彼女の死後、解剖によって、彼女の胆嚢内で、生きたチフス菌が確認され、これにより、彼女が保菌者であったことが100%証明されました。

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もうひとつの恐怖、結核

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この島のもう一つの怖い病気は、結核です。結核は、細菌による感染で、肺組織を破壊します。また、これは、空気感染で人へ広がります。この病気は、ワクチンで感染を防ぎ、とても効果があります。しかし、ワクチンの接種は、とても高価であるため、今日でもワクチンで免疫をすることができない人が多いです。特に、喫煙者やエイズ患者は、結核に感染するリスクが高くなります。この病気は、抗生物質で治療することができますが、2014年に、抗生物質耐性の結核菌の数が増え、1000万人もの人が結核になり、150万人の死者が出ました。

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療養所でけではない

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しかしながら、ノースブラザー島の最後の数年は、治療施設以上の機能を果たしていました。病気の人が屋根裏にいるように世話をする人やその家族の家となりました。第二次世界大戦は、多くの人に被害を与え、退役軍人は、より苦しんでいました。ノースブラザー島の病気に対する治療は、米国内では、落ち目になり、この島は、感染者を看病する人達の住む場所として機能し始めました。点線のある道路、芝生、建物は、とても魅力的な場所で、通りは、家族でごった返し、新しいニューヨークの施設を楽しんでいました。

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時代の最後

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1950年代には、ノースブラザー島の使用は減っていきました。島の住人は、不定期なフェリーの便で行き来して、ニューヨークへ通勤するのに不便を感じ始めました。その一方で、市は、ノースブラザー島の資金繰りに頭を抱え始めました。ニューヨーク市内でも、もっと安い不動産もあり、しかも市がフェリーサービスの援助もしていました。これにより、残った家族も、患者もニューヨーク市内の適切な施設へ移され、自然と島は人がいなくなっていきました。

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現在の島

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40年もの歳月を経て、ツルが島中に広がり、ゆっくりと、でも確実に建物は消えていっています。この島は、暫く忘れ去られていましたが、70年代に入り、ボートで乗り込むスポットとして人気が高まり、島で26もの軽度の破壊行為が見つかりました。しかし、11年ほど前から、ニューヨーク市内の17ほどの島が、ウエザーバードの繁殖場としてニューヨーク市のオーデュボンによって使用されています。

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鳥の聖地

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現在は、ゴイサギや他の自然界の種が、コロニアルウエザーバードの住みかとして機能しています。ノースブラザーは、サウスブラザー島と一緒に鳥の繁殖場として、公衆の目から遠ざけられています。建物は、自然により汚くなってはいますが、この島の環境的には、鳥の保養地としてこれほど完璧な場所はありません。しかしながら、悲しいことに、かつては、このタイプの鳥の生息地でありましたが、ここ数年、繁殖数は、かなり減少しています。

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ジェネラル・スローカム事件

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ノースブラザー島の悲劇は、チフス菌や天然痘などの病気による死だけに限ったことではありません。酷くて、不気味な事故で、千人以上の人が亡くなっているのです。1904年の6月15日に、サイドホイール乗客船であるPSスローカムは、350ドルで、セント・マークズ・エバンゲリカル・ルーセラン教会によって、チャーターされました。これは、お楽しみ一日旅行で、ローワーイーストサイドのドイツ系アメリカ人のコミュニティーからで、そのほとんどが女性と子供たちでした。その船は、ニューヨーク市内から、ロングアイランドのノースショアに行く予定でしたが、目的地へ到着することはありませんでした。

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ジェネラルスローカムで火災発生

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PSスローカムは、イーストリバーまでたどり着きましたが、事態は急変しました。火災の原因は未だに謎に包まれていますが、午前9時にデッキから出発して一時間後に火が一気に広がったことが分かっています。船にいた乗客の多くが泳ぎができませんでした。乗客はパニックになり、火災で焼け死んだか、溺れ死んだようです。ウイリアム・ヘンリー・ヴァン・シャイク船長は、すぐにノースブラザー島に舵を取りましたが、手遅れでした。1358人いた乗客のうち、321人しか助かりませんでした。最終的な死亡者の数は、1021人で、死体の多くは、次の週に海岸に打ち上げられました。この事故は、9/11の次に多くの死者を出しました。

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ジェネラルスローカムの悲劇の後で

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ウイリアム・ヘンリー・ヴァン・シャイク船長は、責任追及のため拘束されました。船長が、保険に関わる理由から、船を岸に着けなかったと広く言われています。傍観者も沖で燃えている船を見て、何故陸に戻ってこなかったのか不思議に思ったそうです。戻って、船をつける代わりに。船はノースブラザー島へ向かったのです。ヴァン・シャイク船長によると、130番通りには、ガスタンクと材木置き場があったため、燃えている船を近くの岸につけるのは危険と判断したそうです。ヴァン・シャイク船長は、法で決められていた火災対応のドリルを怠った理由で、過失犯として有罪となりました。彼は、10年間の重労働を課せられ、シンシン刑務所で刑務の一部を務め、1911年に、ウイリアム・ハワード・タフト大統領の許しを得て、釈放されました。

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老人ホーム

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老人ホームには、鋳鉄製の階段のような素晴らしい建造物が今日もしっかり立っています。老人ホームの最も古い場所に、三つ連なる床が階段と繋がっています。現在、この老人ホームが、この島でもっとも不気味な場所となっています。2011年にラジオラボが、この島を訪れたときに、崩れかけた壁の中に何か変なものを見たと言っています。その建物は、すでに自然の一部と化しているものの、人間が最近訪れた形跡があったようです。外のドアは、銃弾により穴が開いていて、その銃弾の後は、玄関の傷ではなかったそうです。誰かが老人ホームの中から打ったようで、真実は未だ謎のままです。

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野鳥と木の繁殖がツルで脅かされる

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老人ホームの南側は、完全にツルで覆われています。しかも、建物がそこにあるかもわかりづらいほどです。不幸にも、自然で島が奪われ、自然の木々やサギの人口にも影響が出ています。上の写真でもわかるようにクズで覆われています。クズは、ツルの一種ですが、この島の原産種ではありません。当然、これが、建物の構造に悪影響を及ぼし、まあ、人が住んでいないので、別に問題はないのですが。問題は、クズが、他の原産の木々を圧迫し、成長させないようにしているところです。これは、また、そこに住むサギの巣と繁殖にも悪影響を及ぼしています。

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不思議なメンテナンス用の建物

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この忘れられた世界を探検するうえで、とても面白いことは、多分、些細なことです。上の写真を見ると、この島の色々な建物にアクセスできる鍵が映っています。それらの鍵は、メインテナンスの建物の中にまだたくさん残っています。見ての通り、薬品で建物の外見も変わってきています。鍵が、石筍のすぐ横に置いてあります。メンテナンスの部屋の中には、とても古い電話帳もそのまま残っています。電話帳に載っている電話番号は、今日我々が使っている電話番号と違いますよね。

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結核隔離病棟は、患者には使われていなかった

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チフス菌のメアリーの話の起こった場所が、ノースブラザー島の地図上にありますが、すべての建物が特定の目的のために使用されたわけではありません。1941年に結核隔離病棟が立てられましたが、この病気で苦しんだ患者はひとりも、ここで治療されませんでした。この施設は、結核患者のために使用する前に、島が放置され、患者は市の他の施設へ移送されていました。結核病院は、はじめ寮として使用され、リバーサイド病院のリハビリプログラムのためにの施設および居住スペースとして使用されました。

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ひとつのバスケットリング

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この部屋は、かつてのリクリエーションセンターとしての名残りが見えます。壊れかかったバスケットリングもまだ、壁からつるされ、コート一面あり、反対側には、もう一つのバスケットリングもあります。そこは、運動のできる場所を作りたいと望んだスタッフの集約された場所で、これによりコミュニティーの中毒的な人達を助けていたのでしょう。ジムの壁の大きな穴の向こう側にトイレが見えますが、この写真でもわかるように、長い歳月の間に、かなりひどい水被害にあったのが分かります。

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患者は強制的に隔離

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結核隔離病棟の隔離部屋の壁に、とても衝撃的なメッセージが刻まれていました。"助けて!私は、ここで強制的に閉じ込められているんだ”と言うものです。これは、リバーサイドドラッグプログラムが終了する前に、隔離室内の退院を待ち望んでいた薬物常習者によって書かれたものでした。彼のような施設を嫌う者は、少なくありませんでした。チフスや、天然痘、そして結核などの治療を受けていたすべての患者に共通して言えたことは、ここにいたくないということでした。ここにいた患者は、社会的にも忌み嫌われ、実質的にこの島の牢獄のようなものでした。

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男子寮

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この島で、もっとも古い建物の一つが、男子寮です。1855年に、有名な建築家であったチャールズ・クーリッジ・ハイトによって建てられました。現在でも、その景観はよく保存されています。窓などは、風化して無くなっていますが、ブリックなどは今でも強固に佇んでいます。現在、この男子寮は、将来、修復されるべき建物の一つとして考えられています。市は、近い将来、この島をニューヨークの歴史と生態系を学ぶ場所として、生徒たちや観光客に開放しようと考えています。

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波止場がない

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現在、ノースブラザー島には、公的に訪れるための波止場が存在しません。ずっとこうであったわけではありません。このガントリーは、島へ物資を供給するために多くの荷物を船から降ろしてきました。ちゃんと覚えておく必要がありますが、この島は、かつて車、道路、テニスコートなど街としてしっかり機能していたのです。市は、修復プロセスのために、適切な船着き場を設けようと考えています。いずれ島の多くの部分が復興し、町のツーリズムの資金源になればと期待されています。現在は、かつて荷物を船から島へ卸していた壊れたクレーンの近くにある古いくい打ちに、船を繋げています。

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煙突へのダメージ

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腐った木材や吹き飛ばされた窓の中で、ブリック製の建物は、まだしっかりと立っています。でも、煙突はまた話が変わります。1990年代後半では、島で雷が煙突に落ちるという被害が相次ぎ、それにより、ブリックが数フィート崩れたりする原因となりました。これは、屋根の部分にも被害を及ぼし、死体置き場などにも被害をもたらしました。このボイラールームの煙突は、訪問者にとって危険性があり、未だにブリックが、崩れていて、とても不安定な状態となっています。市の歴史文化財保存課のチーフであるジョン・クローチャックによると、建物の多くが、すでにボロボロで、この数年のうちに多くが倒壊してしまうであろうと考えられています。

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島の電気

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ノースブラザー島は、孤立した一つの街でした。船で食料を供給しなければならず、パイプから水を引いていました。しかしながら、かなり自給自足の生活をしていました。この島には、蒸気、電気、そして島内の電話回線および電気の火災アラーム装置も備わっていました。工場の南側の建物に石炭が蓄えられていて、工場のおかげで、これらすべての供給を可能にしていました。このプロセスは、とても能率化していて、ドックが離れて作られており、石炭を島に迅速に、かつ便利に供給していました。

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石炭用の建物

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石炭を貯蔵していた建物は、ものすごく巨大で、今でも強靭に立っています。しかも、この建物は、単にエネルギー供給のためだけの物ではありませんでした。この建物は、工場の南側に位置し、そこには、二階建てのボイラーがあり、石炭を燃やしてエネルギーを供給していました。現在、石炭用の建物の屋根は崩壊しており、床は、シダや植物で覆われています。その光景は、とても荘厳で、かつての文明の英知を誇ったことが、この古い廃れた廃墟からも伺えます。また、それはそんなに古いものではありません。この島は、1960年代まで完全には見捨てられてはいませんでした。

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市が提示した過去の修繕案

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数年にわたって、どうやったこの島を役立てて行くかについての数多くのアイデアが上がりました。市は、1964年に薬物常用者のリハビリ施設としての役割を終わらせ、その後、放置状態になりましたが、常にいろいろなことに使用するつもりでした。エド・コッチ市長が、ホームレスのシェルターに一時的に使用しようと提案した際に、ジョン・リンジー市長は、売りに出そうと提案しました。1990年代には、刑務所の建設も提案されました。それは、リカーズ島の近くまで広げるつもりでした。しかし、他のアイデアと同様に建設するのに莫大な費用がかかり、しかも、それを維持するのにも高額すぎたのでした。

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現在の修繕プラン

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市会議員のマーク・リヴァインは、多くの歴史があって、動植物の豊富なノースブラザー島は、そんなに近づき難いものではないと信じていました。2016年に、彼は、この島へのアクセスを広げるキャンペーンを行いました。この考えは、現在、ペンシルバニア大学のデザイン学科のペン・プラクシスによって検討されています。修繕方法のロジスティクスは、まだ決まっていませんが、かなりの高額案になることでしょう。土地を修繕し、管理し、そして運営するスタッフも必要で、市の都市計画課の少ない予算では、可能であるかもしれないし、そうでないかもしれません。

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違法であっても、都市探索家の興味は終わらない

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明らかにノースブラザー島を訪れることは違法となります。しかし、だからと言って、都市探索家たちの行動を抑えることにはなりません。その島が、そのままの雰囲気を残し、見捨てられてはいるものの、それでもそこには、現代の人間の影響が残っています。古い椅子を広げて、景色を楽しみ、ハイネケンのビールの缶やごみ、そして壁の落書き等を見ることができます。現在、この島を探索するために、ポイズンアイビーの除去作業をおこなっていますが、それでもまだ困難を極めます。ツルをむしり取ることで、建物を壊すことがあるため、困難な作業となっています。

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人のいない世界を垣間見る

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ノースブラザー島では、確実にもし人類がこの世から消えてしまったら、を表現したような世界を垣間見ることができます。その地域は、自然に返り、自然が増殖し、大地に帰ります。ゴイサギのような様々な鳥類が戻り、島は現在、鳥たちの楽園と化しています。この島に行くには、ボートのみであるため、人による破壊行動がほとんどなく、自然のパワーを実感し、完全に大地に帰る様を見ることができます。どんどん、人工的な痕が消えて行っています。

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島の音

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島に生息する虫や鳥のさえずる声以外は、ラガーディア空港からの商業用の航空機の上空を飛ぶ音が聞こえるだけです。かつて人が住んでいたこの島には、川の向こう側の街からにぎやかな音が聞こえることは言うまでもありませんが。多くのニューヨーカーにとって、この島が、旅行者の訪れたい場所として、または、歴史的に価値のある場所として公共に開けるまでは、それがこの島の景観ということでしょう。

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どうやってそこへ行けば...

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基本的に自分自身でノースブラザー島に行くのは違法であるので、許可を取るためや、ガイド付きで上陸するための一連の手続きを踏む必要があります。まず第一のステップは、都市計画課に連絡を入れます。特に、3月から10月にかけては、サギの繁殖シーズンであるため、彼らが同行することはありません。許可を得た後ですることは、ボートをチャーターすることですが、これはかなり高価です。島には、波止場がないため、小さなボートで島を目指し、海岸に着けて、そこから自分で上陸しなければいけません。都市計画課は、基本的に、研究目的のみに許可を出す傾向がありますが、これが、合法的に島に上陸する方法です。

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一緒に映画見る?

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エンターテインメントホールには、かつてあったすべての劇場の椅子は、崩壊していましたが、カーテンランナーは、今でも使え、まるで今でもカーテンが付いているようでした。チフス患者、結核患者、そして薬物常用者などが、当時のこの島のこの劇場で、ごった返していたのが想像できます。探索家は、照明のスイッチもまだ上下に動いて、大抵の人が、昔の古い映画で聞いたことのあるような懐かしい大きな音を立てていたそうです。

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世界の果て

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ブロンクスから見ると、ノースブラザー島は、ニューヨークの他のエリアから、石を投げて届くほどの距離にしか見えません。この島が、一等地の不動産であり、多くの人が喜んでビルを建てるはずであるにもかかわらず、この島が、朽ちて行ったことは、とても奇妙な話です。すぐ近くの距離ですが、この島に立って、ニューヨーク市を見ると、まるで、地球から月を見ているようにすら感じられます。それが、どれだけこの島が孤立しているかを物語っています。これは、この島にいた"患者”が、近かったにも関わらず、とても家が遠く感じたゆえんに違いありません。