いまだに疑問が残る歴史上の不気味な発見とは
現代に生きる我々は、人類の歴史の多くがすでに明らかになっていると考えがちだが、実は明らかになっている歴史はほんの一部でしかない。毎日、どこかで新たな発見がなされ、我々は歴史について知っていたと勘違いしていただけではないかと思わされる。また、こうした発見のおかげで未だに謎が残されている歴史について、少しその謎を解明する手がかりを得ることができる。古代の人々に関する最近の発見をご覧いただけば、我々が習ったことなど、実にわずかでしかなかったのだと改めて認識するだろう。
装着用ではない仮面
2011年、メキシコのピラミッドで発見されたこの緑色の石仮面だが、およそ2,000年以上前に神への供物として地面に置かれていたものだと考えられている。
仮面の他、黒曜石の欠片と、仮面と同じ緑色の石で作られた陶器も発見されている。仮面は顔につけるために作られたものではなく、ピラミッドの完成を祝って捧げられたのではないかと推測されている。さらに、仮面は当時の人に似せて作られている可能性が高いため、研究者らは当時の人々がどのような顔をしていたのか推測することができる。
砂漠に放置された列車
これは単に砂漠に埋もれた列車だと思われるだろうが、これこそ正に、第一次世界大戦中にトーマス・エドワード・ロレンスが成し遂げた偉業の遺物だ。1917年、中東で任務についていたロレンスは、アラブ人の部隊と共にオスマン帝国軍が補給路として使っていた鉄道の破壊を始めた。
大戦が終わるまでに、ロレンスは仲間と多くの列車を破壊し、鉄道をもはや使用できなくなるまでにした。その後、トルコの人々は破壊された列車を砂漠に残したままにしている。
特別な鎧の手袋
この鎧の手袋はガントレットと呼ばれ、中世の騎士や兵士が身につけていたものだ。ガントレットには様々な種類があり、装飾のために身につけられたこともあったようだが、主には接戦において攻撃を受けやすい前腕や手を守るために作られた。
しかしながら、この写真のガントレットが特別なのは、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が身につけていたと言われているためだ。専門家らによると、皇帝マクシミリアン1世は、1519年に死去するまで、ずっとこのガントレットを身につけていたと言われている。
初期のスノーゴーグル
現代では、太陽光の目に与える悪影響について、周知の事実となっている。しかしながら、イヌイットなどの古代人もこれについて認識しており、太陽光の影響を少なくする方法を工夫していたようだ。
たとえば、2,000年以上前に雪の中を移動していたイヌイットは、ゴーグルを手彫りし、切れ込みを入れることによって外が見えるようにしていた。研究者らは、このゴーグルが曇らないということに驚いている。何千年経った現代でも、ゴーグルが曇るという問題点は未だに解決されていないのに。
単なる岩ではない
この写真を一見したところ、1人の男性が岩の隣でポーズをとっているように見えるかもしれないが、実はこれはただの岩ではない。写真の男性はバーナード・オットー・ホルターマンで、オーストラリアの金鉱の一部を所有していた。彼の横にあるのはこの金鉱で発掘された世界最大級の金塊だ。
この写真を撮影したのが誰かは分かっていないが、この後1882年、ホルターマンはオーストラリアのニューサウスウェールズの議員に選ばれている。残念ながら、47歳のときに発破用火薬事故で亡くなった。
王妃にふさわしい懐中時計
この煌びやかな懐中時計だが、1783年にとある求婚者がマリー・アントワネットのために作らせたものだということが明らかになっている。見るからに贅の限りを尽くした品だ。この懐中時計に使われた金をはじめとする素材を合わせても、その価値はおよそ31億円をくだらないと推定されている。
この懐中時計は唯一無二の存在感に加え、823ものパーツを使って、日付調整が不要なパーペチュアルカレンダー、ミニッツリピーターなど、23もの精緻で複雑な技術を駆使した機能を持っており、歴史上5番目に複雑な作りの時計だと言われている。残念ながら、マリー・アントワネットはこの懐中時計が完成する前に処刑されたため、完成品を手にすることはなかった。
物語を基にした石像
これは、神話に登場する地中海の精霊ウンディーネ(アンディーンとも)で、19世紀にアメリカ人芸術家チョウンシー・ブラッドリー・アイブスによって作られた。ウンディーネに関する物語は、ハインリヒ・カール・ド・ラ・モット・フーケ男爵が書いた小説『ウンディーネ』で有名となっている。
この物語中では、ウンディーネが人間になって騎士と恋に落ちて結婚する。しかし、その騎士がウンディーネを裏切ったため、掟に従ってウンディーネは騎士の命を奪わなければならなくなる。この石像はウンディーネが水から現れたところを表している。
熾烈な戦争
ナポレオンの下でワーテルローの戦いに胸甲騎兵として従軍したアントワーヌ・フラヴォーは、まだ23歳という若さだった。アントワーヌはこの甲冑を着用して戦場に赴いた。甲冑は騎士にとってとても重要なもので、剣やその他の兵器、銃弾などからも身を守るようにあつらえてある。
しかしながら、砲弾から身を守るすべはなかったようだ。1815年、アントワーヌは砲弾に打たれて戦死した。実は、アントワーヌは結婚を控えていたとも言われている。ナポレオンの戦いがいかに熾烈なものであったか、この甲冑が物語っている。
外側から見えるものがすべてではない仏像の中身
2015年、オランダの研究者らは仏像をCTスキャンにかけて調査を実施していたが、仏像の中からは予想をはるかに上回るものが見つかった。調査により、ミイラ化した僧侶が1,000年以上にもわたって入ったままとなっていることが明らかになったのだ。
仏像の中に即身仏が入っていたことも驚くべきことだが、それ以上に、研究者らは僧侶の体内から中国語がびっしり書かれた紙屑が入っていたことにも驚いた。僧侶は自身をミイラ化するにあたり、体が腐敗して虫などがわかないよう、毒の入ったお茶を飲むことで体に毒を入れていたようだ。
王家のサンダル
エジプトと言えば、多くの人がミイラやピラミッド、くっきり引かれたアイライナーなどを思い浮かべるのではないだろうか。しかしながら、ツタンカーメン王が履いていたとされるこのサンダルを見ると、古代エジプトはどうやら思ったよりも現代的だったということが分かる。
古代エジプト人も現代の人々と同じようにファッションに関心があったようだ。古代の履物について詳しい専門家アンドレ・ヴェルドメイエは「一般的に本などで履物についての記述は少ないのですが、それがあった場合には、サンダルは薄っぺらく、たいていみんな裸足だったと記載されています。しかも、履物も数えるほどの種類しかない、と。でも、これは大きな誤解です。古代から履物の種類は多様で、本に記載されていない種類の履物もあったのです。」と述べている。
消息不明のパイロット
これはカーチスP-40キティホークで、アメリカで使用されるトマホークのイギリス版戦闘機とも言えるが、第二次世界大戦中に活躍した。航続距離はわずか380キロメートルほどということもあり、基本的には守備用に使われていた。
この戦闘機は2012年、サハラ砂漠で発見された。当時、同機を操縦していたのは24歳のデニス・コッピング軍曹で、1942年6月に北アフリカ砂漠で墜落したと言われている。同機は2012年に石油会社の社員が発見するまで、手つかずのまま放置されていた。残念だが、操縦していたコッピングの消息は不明のままだ。
141年物のヴィンテージワイン
2001年9月11日に起こった悲劇の後、タリバン政権の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは西欧諸国にとって不倶戴天の敵となった。ビン・ラーディンを捕らえ、法の裁きにかけるべきだと誰もが思っていたが、中でもレストランのオーナー、テッド・バレストレリは熱心だった。
カリフォルニアにレストランを構えるテッド・バレストレリは、ビン・ラーディンが捕まった暁には、米国国防長官と141年物のヴィンテージワイン、シャトー・ラフィット・ロートシルトを開けると公言した。2011年にビン・ラーディンが殺害された後、バレストレリは約束通りこのヴィンテージワインで乾杯すると述べた。
現代のトースターオーブンが発明される前
現在、トーストを作ろうと思えばトースターオーブンにパンを入れるだけだが、昔からカリっとしたパンを楽しみたいと思う人は多かったようだ。
これは初期のトースターだ。現在のトースターのように両面を同時に焼くことはできず、片面ずつしか焼くことはできない。そのため、片面がいい具合に焼けたらパンをひっくり返してもう片面も同じように焼かなければならない。
プラハの天文時計
プラハの天文時計は、世界でも最も古く、現在も時を刻み続けている時計の1つだ。この時計は時間だけでなく、太陽、月、十二星座やその他惑星の位置についても教えてくれる。
プラハにあるこの時計は「オルロイ」とも呼ばれ、複数の層で構成されている。時計の主要部分の文字盤には、象形文字で古チェコ時間とローマ数字でヨーロッパ標準時間が示されている。
長い間、凍結によって保存されたもの
これは一般的な装飾の入った靴のように見えるかもしれないが、実際にはおよそ2,000年以上も保存されていた女性のブーツだ。信じがたいことだが、アルタイ山脈の凍てつくほどの寒さのおかげで、ほぼ完全な状態のまま残っていたのだ。
紀元前300年に遡って作られたブーツだが、ピューター(合金)や黄鉄鉱、ガラスビーズ、金箔など、様々な素材が使われている。信じられないかもしれないが、紀元前の当時でさえも、人々はファッションに関心が高かったことがうかがえる。
芸術作品ではない
これは一見、ガラス製品のように見えるかもしれないが、実は宇宙から落ちてきた隕石だ。中国北西部に位置する新疆ウイグル自治区で発見されたこの隕石は様々な素材でできているが、ニッケル鉄の中に埋まった黄褐色の結晶はパラサイトと呼ばれる素材だ。
結晶部分の向こう側から光をあてると、まるでステンドグラスのようだ。パラサイトは地球の岩石には見られない特異な組織を持つもので、それがどこからきたのかについては不明のままだが、おそらくこの隕石は45億年も前に形成されたのだろうと推測されている。
南北戦争中の外科手術器具
武力衝突が起これば、負傷者も生じる。もちろん現代のものとは比べるべくもないが、これは南北戦争中に一般的な外科治療に使用されていた医療器具だ。
もちろん今日ほどではないかもしれないが、戦場で確かに多くの命を救ってきた。現代の医療態勢がかつてよりも整っていることに感謝しよう。
楽譜用タイプライター
1936年に世界で初めて特許を取得したキートン・ミュージック・タイプライターには、元々は14のキーしかなかったが、1950年代までには33にまで増えている。一般的なタイプライターのように、インクでタイプをして使うため、この機械の下に紙を敷いて、音符のキーをたたいて使う。
一見すると、使い勝手が悪そうに見えるが、実は効率的な機械だ。これによって楽譜を書く作業は随分と簡単になったようだ。が、それでも間違えないように慎重にしなければ、インクは消えないので間違えた場合には一からやり直しとなる。
死因となった金庫
これは一見、普通の金庫のように見えるが、実は予想外の経緯によって、所有者はこの金庫が原因となって死亡している。1911年10月9日、金庫の中身を取り出そうとしたテネシー州の事業家は、金庫が原因となって皮肉なことに死亡した。
金庫が開かなかったため、腹を立てて金庫を蹴ったのだという。そして結果的につま先にけがをし、そこから感染症にかかってしまったのだ。感染症は悪化し、その後体中に広がっていった。この金庫は、所有者が敗血症で死亡する前、かわいがっていた甥レム・モトローに譲ったという。
同時多発テロに巻き込まれた消防車
これは酷い事故に巻き込まれてしまった消防車のように見えるが、実は、2001年9月11日の朝に初期対応した消防車のうちの1台だ。現場に残されていたはしご車を再現したものだ。
この消防車には消防隊長パトリック・ブラウンとそのチームが乗っていたのだが、到着後にもう一機の飛行機によって世界貿易センターの北棟が崩壊し、消防車の上にがれきが落ちてきたことで皆が命を落としている。この消防車は復元後、JFK国際空港の格納庫に保管されていたが、2011年に記念博物館ができるとそこに移された。
オルメックの石像
このオルメックの巨像は民族的な芸術品だが、世界でも最も知られている作品の1つだ。すごいのは、それぞれが少し異なった特徴を持って彫刻されているところで、まだ謎の多い文化について解明する手掛かりを与えてくれている。
1つの大きな玄武岩を手彫りして作られた石像だが、こんなに重い石像を古代人はどうやって動かし、配置していたのだろうか。
アイスクリームだけに使われる素敵なスプーン
現代では、アイスクリームを食べるときには引き出しから無造作に出したスプーンを使うだろうが、ビクトリア時代にはそうではなかった。この時代、カトラリーはすべてそれぞれが目的ごとに使われており、このスプーンはアイスクリーム専用に使われていたのだ。
やり過ぎではないかと思われるかもしれないが、この時代の人々にとっては当たり前のことで、このアイスクリーム専用のスプーンを使って食後のデザートを食べていたのだ。
初期のミシン
1832年から1846年にかけ、ウォルター・ハントはニューヨーク市のエーモス通りにある作業場で初めてミシンの開発に成功した。一番初めに作ったものは手作業で1つ1つ組み立てられ、2本の糸を通すために曲がった形の針が使われていた。
その後30年間の間にミシンの改良が行われ、ファッション業界にまったく新しい可能性をもたらした。初期のミシンが開発された頃、ハントがすぐに特許を取得しなかったため、多くの人が真似をして似たようなミシンを作り特許を取ろうとしたが、このミシンこそが初めて作られたものだ。
黒こげのパン
これはほとんどの人にとって単なるパンとしか思えないかもしれないが、このパンは歴史上、非常に重要な価値がある。79年、ポンペイ村がヴェスヴィオ火山の噴火によって壊滅したとき、多くの人々や家、物が火山灰であっという間に覆いつくされ、長い間そのままの状態となっていたのだ。
たとえばこのパンのように、そのままの状態で遺物が発見されたことはかなり驚きをもって受け止められた。このパンの保存状態は非常に良好で、パンに押されたスタンプ「クィントゥス・グラニウス・ウェルスの奴隷セロレ」という文字まで、判別可能だ。
ハロウィーンのデコレーションではない
鋳鉄製でコウモリのような形をしたランプだが、これは1930年代に作られたものだ。今ではハロウィーンの飾りにピッタリであるようだが、作った当時の手間ひまを考えると、どうやら一年中使われていたようだ。
ハロウィーンが大好きな人であれば、大金をはたいてこのランプを手に入れて家に飾りたいと思うかもしれない。
珍しいデザインの指輪
閉じているときのこの指輪は、凝った装飾がほどこされている普通の金の指輪のようだ。しかしながら、上部を開けると日時計が隠されている。
この時計は1600年代に作られたもので、当時は時間を知る上で日時計が使われていた。そのため、指に日時計をはめることができたなんて、かなり便利だったことだろう。その上、この指輪には紋章が刻まれている。おそらくその家で代々伝わっていた宝なのではなかろうか。
いざ、深海へ
信じられないが、少なくともビクトリア時代には、すでに人々は海に潜って深海の様子を探ろうとしていた。とは言え、適切な器具がなくてはそんなに深くまで潜ることはできない。そこで、当時の人々はこれを作ったのだ。
上の写真は、1882年に使用されていた潜水服で、フランスのマルセイユに住むカルマニョール兄弟によって作られた。この潜水服には22個もの接合部があり、ヘルメット部分には直径5センチほどのガラス製の覗き窓が25個もついている。見た目通り、この潜水服は重く、重さはなんと360キログラムもある。
葬儀用の馬車
これはドイツのドレスデンで見つかった昔の葬儀用馬車だ。ビクトリア時代には華美な装飾があちこちにほどこされていたが、この葬儀用馬車もそれに勝るとも劣らない。おそらく、天使やアーチ型の窓はこの馬車のみに作られたもので、それだけこの馬車は特別なものなのだろう。
この馬車の御者が誰だったのかについては分かっていないが、遺体を運ぶのに使われていた一般的なものよりも特別な仕様がなされていることから、御者も特別な人が選ばれていたことだろう。
ホリー島ことリンディスファーン島で見つかった遺物
発掘調査団体の考古学者らは、ホリー島とも呼ばれているイギリスのリンディスファーン島に赴き、その島に関連する初期のキリスト教について調査を実施しようと考えていた。だが、まさかまったく別の何かを掘り出すことになろうとは予想だにしていなかった。
この調査者らが掘り出した白と青のガラスでできたこの遺物は、あめ玉くらいの大きさのものだ。さて、これが一体何なのか突き止めなければならない。
バイキング時代のもの
調査者らが掘り出したこの遺物はガラスでできていた。白と青の渦巻柄の上に白いガラスの小さい粒がついている。それはまるで王冠のようでもある。このガラス製の遺物は、8世紀から9世紀に使われていたものだと推定されている。
もしこれが本当であれば、この遺物はバイキングが初めてイギリスの領土を襲撃した時代のものだということになる。この事件はキリスト教西欧社会を震撼させた歴史に残る出来事だ。
リンディスファーン島はバイキングの初めの襲撃地
ちなみに、イギリスのリンディスファーン島には修道院があったが、793年にバイキングの襲撃を受ける。この後何度もバイキングによる襲撃を受けた結果、この地域の文化は最終的にまったく変わってしまった。
このため、この遺物がバイキング時代のものと知って、考古学者らは興奮した。さて、これは一体何に使われていたものなのだろうか。
オスワルド王、ノーサンブリア王国を着々と築く
リンディスファーン島はイギリスのキリスト教の中心地だと言われている。これは、この地域が異なる王国に支配を受け、分割されたことに端を発している。この地域を支配した王国の1つがノーサンブリア王国であり、634年~642年の間オスワルド王がおさめていた。
しかし、自分の統治するこの領域に足りないものがあると王は考え、ノーサンブリア王国の宗教的な問題を解決するために修道士を探した。結局オスワルド王はアイルランドから修道士らを招き、その後すべてが変わっていったのだ。
エイダンは修道院を建立するために招聘された
635年、領地に修道士が必要だと、オスワルド王はアイルランドから数名の修道士らをノーサンブリア王国に招聘した。代表的な修道士の名前はエイダン。エイダンはアイオワ島と呼ばれる現代のスコットランド南西部の島からノーサンブリア王国に赴いた。
ノーサンブリア王国にいたエイダンだがリンディスファーン島へと移され、その後そこで修道院を建立することとなった。当時、エイダンはその修道院が世界に大きな影響を与えることになろうとは思ってもいなかっただろう。
ホリー島、地理的に貿易に便利
エイダンと仲間の修道士らはリンディスファーン島に修道院を建立することに成功した。結局のところ、とても特別な理由でここが非常に役立つことが分かったのだ。リンディスファーン島はノーサンブリア王国の本土、特にバーニシア地域近くに位置していたため、修道院は貿易と共に栄えた。
皮肉にも、歴史家らはエイダンをリンディスファーンのホリー島に出入りした最も重要な修道士だと見なしていない。その称号は別の人に贈られている。
カスバードが最も重要な修道士だと言われている
カスバードと呼ばれる修道士は、7世紀後半にリンディスファーンに移り、エイダンが建立した修道院に入った。この島で過ごすうちに、カスバードは修道士の在り方を変え始めた。
カスバードの行った改革によって、カスバードこそリンディスファーンに奇跡を起こした最も重要な修道士だと信じられている。後に、カスバードは聖人とされている。
カスバードは静かに暮らしたかった
カスバードは他の修道士のやり方を変えたことで、多くの人々から反対を受けた。カスバードは自身の信念や教えが暴力的なものに変わることを望まず、リンディスファーンを離れることを決意した。
カスバードは隠修士として暮らすことを選び、近くの島で平和に暮らすことにしたが、それは長くは続かなかった。685年、王はカスバードに修道院長になるように要請したため、以降、カスバードは広く知られる公人となった。
カスバードの死後に起こった奇跡
カスバードは687年に死去した後、リンディスファーン島にある教会の1つに埋葬されていた。しかし10年後に遺体が掘り起こされたとき、奇跡が起こる。修道院長カスバードの遺体はまったく腐敗していなかったのだ!
修道士らはこれをカスバードが聖人である故だと考えた。この聖人を祝うべく、カスバードのための聖廟が建てられた。そしてカスバード個人を崇拝する動きが起こり、カスバードやその教えが崇拝されるようになった。その後、この聖廟近くで説明のつかない奇跡が起こり始める。
聖廟近くで奇跡が起こり始める
聖カスバードの聖廟近くで説明のつかない奇跡が起こっているという噂が広まり始めた。人々は非常に興味を持ち、その結果、リンディスファーン島は教育の重要な場として宗教的中心地となっていった。
同修道院の修道士らはリンディスファーンの福音書を作成し、現代でも傑作だと評価されている中世芸術の装飾をほどこしている。しかし、この島の繁栄は続かなかった。
ほとんどの建造物は失われた
783年の夏、バイキングがリンディスファーン島に上陸した。これはバイキングによる西欧諸国への初めての襲撃だった。そして歴史学者らによると、当時の西欧諸国でもよく知られている場所だったため、最初に襲撃する場所としても最適だったのだという。
この襲撃によって、リンディスファーン島のその後の運命が変わる。さらに残念ながら、ほとんどの建造物はこの時に失われている。発掘調査団体「ディグ・ベンチャーズ(DigVentures)」が投入され、2019年にこのガラス製の遺物が見つかったのだ。