素晴らしい人生を送ったアンドレ・ザ・ジャイアント
アンドレ・ザ・ジャイアントは、史上最高に素晴らしいレスラーのひとりです。世界的スポーツスターは、世界に爪痕を残し続ける生きる伝説でした。アンドレが、どれだけビールを飲み干して、どれだけのステーキを一度食事で平らげていたかということは、もはやスポーツ界では神話になっています。彼に近しい人達からは、パーティー好きのいたずら王としても記憶されているアンドレ。
アンドレ・ザ・ジャイアントは、ユーモア、哀愁、そして素晴らしく澄み切った感情で溢れていました。そして、アンドレは、初代かつ唯一のWWE殿堂入りした人物です!
番犬も怯えるアンドレ
身長2.1メートル、体重227キロの体形を考えれば、アンドレ・ザ・ジャイアントほど恐ろしい人はいないですよね。ロジャー・センバジアは、訓練を受けた番犬がアンドレを目にした途端慌てて隠れた、というエピソードを覚えていました。
『スポーツ・イラストレイテッド』誌に、笑いながら次のように話しているアンドレ。「この犬たちは意地悪でなきゃいけないはずだろ…犬は俺のことを一度見て、逆方向に一目散に逃げて行ったんだ」そびえたつ大男を前にしては、犬のことも責められませんよね。しかし、実生活ではアンドレは脅威なんて持ち合わせていませんでした。ただ、かなりの大酒飲みだったことは確かだったようです。
スクールバスが小さすぎる
12歳のアンドレ少年は、身長1.9メートル、体重109キロ。学校へ行くのに、スクールバスに乗るという選択肢は、彼にはありませんでした。だって体が収まらないのです。彼が収まる唯一の車が、トラック。幸運にも、彼の父親と友人同士だった隣人のサミュエル・ベケットが、そのアンドレが必要としているものを所有していたのです。
自身も有名人であるベケットは、著名な脚本家。彼の最も有名な作品は、『ゴドーを待ちながら』です。学校までの車中、ベケットとアンドレが、舞台やリングに関して話すことはありませんでした。2人は、共通の趣味であるクリケットに関して、夢中になって話していたそうです。この経験は、ベケットにとってもかなり不思議なもので、後に、このことに関する劇も手掛けています。
いたずらで友達の車を持ち上げたアンドレ
悪ふざけが好きだったアンドレ・ザ・ジャイアントのお気に入りのいたずらは、相手が見ていない時にその人の車を勝手に動かすというもの。しかし、それは車に乗り込んで、走り去るということではありません。アンドレは、車を持ち上げて違う場所に動かしてしまうんです。きっとそれは、アンドレが乗れないような車を所有していた友人たちに対する、仕返しだったのでしょう。
アンドレ・ザ・ジャイアントは、一体どこへ車を動かしたのか?それは、アンドレがどれだけおふざけをしたい気分かによって、左右されます。車の向きをちょっと変えるだけの時もあります。いたずらしたい気分が強い時は、街灯とビルの隙間の狭い空間に車を置いていたそうです。
軍隊に入るには大きすぎる
19歳のアンドレは、フランス平和軍からの召集令状を受けたものの、実際に徴兵されることはありませんでした。これは、運命のいたずらだったのでしょうか。軍隊には、アンドレサイズの靴がなかったのです。さらに、フランス軍のベッドに身長が収まらず、塹壕に隠れるには大きすぎました。
アンドレは徴兵されなかったため、レスリングに集中することが出来ました。夜はパリで訓練を受け、昼間は引っ越し屋として働いたアンドレ。そして、1963年、彼はイギリスでプロデビューを果たします。その10年後にWWEデビュー。実は渡米する前、日本でもプロレスをしていたんです!
日本で分かった成長障害
1970年、日本の国際プロレスでレスリングをするために、英国を去ったアンドレ。その日本滞在中に、自身は先端巨大症であることがわかります。成人の先端巨大症は、手、足、顔などに影響が出ます。これは、成長ホルモンが過剰分泌されることが原因です。アンドレは、この病気によって、体にかなりの痛みを感じていたものの、リング上では、この痛みがプラスに作用していました。そのため、アンドレは形成外科手術を拒否しています。
タッグチームや個人戦では、「モンスター・ロシモフ」というリングネームで戦い、最高の成績を残しました。デビューしてからすぐに、彼はマイケル・ナドーと共に、タッグチームのチャンピオンと称されます。そして3年後、「モンスター」はアメリカで「ジャイアント」と命名され、活躍するようになりました。
奇跡の子をもうけたアンドレ
先端巨大症を患っている多くの場合、無精子症である可能性が高いです。しかし、その困難に反して生きたアンドレは、1979年、娘を授かりました。彼が逝去した際、娘であるロビン・ロシモフは、アンドレの不動産をすべてを相続しています。生前、様々な場所に飛び回っていたアンドレは、あまり娘のことを知る時間がありませんでした。
あるとき、父親と時間を過ごすことになったロビンは、なんと土壇場で逃げ出してしまったそうです。それは、10歳の時、ノースカロライナにある農場に来るようにアンドレが招待した日のことでした。よく知らない巨人と遊ぶことに怖くなったロビンが、そこに行くことは結局ありませんでした。しかし、後にも先にもこれが、ロビンが父親を知るための唯一のチャンスだったのです。
有名だったQVC(テレビショッピング)中毒
アンドレの人生の楽しみの一つが、『QVC』のテレビショッピングで買い物をすることでした。晩年、ノースカロライナで多くの時間を過ごしたアンドレは、このテレビショッピング番組に病みつきになってしまいました。家でショッピングすれば、公共の場で人目を引く心配もありません。アンドレは、街中で注目を集めてしまうことが嫌だったのです。
カスタムメイドのリクライニングチェアに何時間も座って、必要かどうか分からないものを『QVC』で購入していたアンドレ。彼は、特に家族や友人のためにお金を使うことが大好きでした。彼は、ディナーのお勘定は、常に自分が支払うようにしていました。
ご飯をおごられて、ターミネーターを持ち上げたアンドレ
受け取るより与えたい性格のアンドレ・ザ・ジャイアントは、アーノルド・シュワルツェネッガーとウィルト・チェンバレンとの会食で怒ってしまいます。なぜなら、アーノルドがこっそり抜け出して、お会計を済ませてしまったんです。そこで車に戻って歩いていくときに、仕返しを思いつきました。
アーノルドの車の前まで行くと、アンドレは、アーノルドを持ち上げて車に乗せたんです。アーノルドより30センチも高いアンドレにとっては、こんなこともお手の物!「I'll be back」とあの名台詞を吐いて、アーノルドは去って行ったんですかね?
無効になったWWEのタイトル
1988年、ワールドチャンピオンシップのタイトルを賭けてハルク・ホーガンと対戦し、勝利したアンドレ・ザ・ジャイアント。残念ながら、この試合はアール・ヘブナーによって不正を行してしまいました。アンドレは、1分後にタイトルベルトを返還させられます。その後、タイトルは該当者なしとなり、アンドレが公平に挑戦できるような機会は、与えられないままとなりました。
『レッスルマニアIII』は、スポーツ界の中でもかなりの観客を集めています。 アンドレの趣向を凝らしたタイトルマッチということで、2月4日には3300万人がNBCで試合を観戦したとされています。
WWE殿堂入りの初期メンバー
1993年の彼の死後、WWEはWWE殿堂を作り、アンドレ・ザ・ジャイアントを讃えました。アンドレは、同リーグにおける初年度唯一の殿堂入りした人物で、授賞式は行われていませんが、彼の死後、『WWE・ロウ』で放送されています。
翌年、WWEは初の就任式を開催。このイベントの間、コメンテーターは、アンドレ・ザ・ジャイアントの就任に対してもコメントしています。テレビで放送する予定ではなかったものの、凝縮版が2015年にWWEネットワークで放送されました。この番組の中で、アンドレの得意技である、シットダウン・スプラッシュとダブル・アンダーフック・スープレックスなどの映像が放送されています。
19歳で実家に戻った際、目を疑ったアンドレの両親
アンドレ・ロシモフが5年間親元を離れてから19歳で帰郷すると、親は彼を見違えてしまいました。先端巨大症のために2.1メートルにまで成長し、昔の彼とは似ても似つかない状態になっていたのです。実はジェアン・フェレの名前で活躍していた時、息子とは知らずにテレビで視聴していた、と認めているアンドレの親。
1981年に『スポーツ・イラストレイテッド』誌に語ったこの再会から、アンドレは、この両親との出来事をのんきにとらえていることがわかります。自分の親に息子だとわかってもらえないだろうと知りながら、何事もないかのように自分のロールス・ロイスの車に関して幾つか質問を投げかけたアンドレ。最終的に、そこでやっと父親がアンドレの昔と変わらない「キラキラ光る眼」に気づいたのです。
対戦相手に屁をかますことを楽しんでいたアンドレ
多くの男性同様、オナラのジョークを愛したアンドレ・ザ・ジャイアント。ジェイク・ロバーツとの試合では、アンドレは、ロバーツの顔に座って、おならをぶちかましました。その匂いは少なくとも30分は消えなかった、と後に話すロバーツ。「ジャイアントのオナラは、異常な時間持つんだ」
リングでの放屁だけが、アンドレの対戦相手へのいたずらではありません。長髪の人の髪を踏みつけるのも、アンドレのお気に入り。最大のテクニックは、自分のシングレットに染みた汗を、相手の顔に絞ってかけることでした。
ベビーオイルに関してランディ・サベージと口論に
試合の前にベビーオイルにつかるランディ・サベージ。アンドレ・ザ・ジャイアントはベビーオイルを嫌っていたため、基本的に対戦相手には、使用していませんでした。しかし、ランディ・サベージは例外。「アンドレの売りはジャイアントだろ?俺の売りはベビーオイルさ。」
サベージがベビーオイルの使用をやめなかったことは、2人のリング外での関係にも影響しました。アンドレ・ザ・ジャイアントには、実生活の敵はほぼいませんでしたが、ランディ・サベージは、その珍しい人物の一人。この確執は、大人げなかったものの、リングで2人が当たった時には、良い火花の種になっていました。
1日7,000カロリーほど飲むことが出来るアンドレ
パワーリフティングのオリンピック代表であるテリー・トッドは、かつてアンドレ・ザ・ジャイアントと良い飲み仲間でした。その彼によると、アンドレと同じ量の酒は飲むべきではない、と早い段階から気づいたそうです。トッドは、アンドレが一日7,000カロリーほどのアルコールを摂取するのを目撃してきました。
1981年、トッドは、普段のアンドレなら、ビールケース丸ごと全部を飲み干せた、と回想しています。2本のワインも造作なく飲み干していました。デザートには、8つのブランデーショット。2度目のデザートは、少なくとも6杯のカクテルトッドを頂くそうです。
酔って意識を失って、ホテルスタッフがアンドレの周りに赤いロープを設置
『プリンセス・ブライド・ストーリー』の初のテーブル読みの後、アンドレはお酒を飲みすぎて、ホテルのロビーで寝てしまいました。共演者のケイリー・エルウィスによれば、この事件は、アンドレとの泥酔ストーリーの序章でしかなかったのです。
エルウィスは、アンドレ・ザ・ジャイアントが良く『アメリカン』を飲んでいたと話しています。このカクテルには、様々なお酒が混ざっていて、これを一度に何杯も口にいていたアンドレは、問題の夜、それを飲みすぎて、意識を失ってしまったそう。249キロの巨漢を動かすことが出来ず、ホテルの従業員は、アンドレの周りにロープを設置。これで他のお客に踏まれないようにしました。
アルコール依存症なのではなく、痛みに耐えていたアンドレ
先端巨大症に苦しんでいたアンドレにとって、痛みのない生活を送ることは出来ませんでした。成長が止まることがない彼の体。背中にかなりの重さを抱えていた彼は、常にかなりの痛みに悩まされていました。何度が手術を行ったものの、これほどの大男に薬を処方するなど、前例がなかったのです。
痛みに耐えるために、アンドレ・ザ・ジャイアントは、お酒を口にしました。これはかなりの量です。そうこれが、アンドレにとって唯一の痛みを和らげることが出来る方法だったのです。驚くべきことに、実際に酔ってしまうことはほとんどありませんでした。『プリンセス・ブライド・ストーリー』のセットでは、遅れたことも、ろれつが回らないということも、セリフを忘れてしまうということもありませんでした。
トレードマークの黒いシングレットは、黒い装具を隠すため
先端巨大症と長年に及ぶレスリングによって、肉体的に破壊されたアンドレは、1986年に手術を行います。レスリングを行い続けるためには、体を支える装具が必要でした。彼は、トレードマークのシングレットの下に、リングでの動きを制限するサポーターを隠していました。
皮肉にも、アンドレの有名な試合のいくつかは、キャリア後期のものです。『レッスルマニアIII』での対ハルク・ホーガンのタイトル獲得マッチは有名ですよね。試合を気を付けて見てみると、アンドレの動きがかなり制限されていて、若い時の派手な技ではなく、基本的な戦いの動きに忠実に頼っていることがわかります。
1989年に「恥辱レスラー」に挙げられたげられたアンドレ
WWEのキャリア後期には、すべての功績を欲しいままにしたアンドレ・ザ・ジャイアント。彼のトロフィー棚は、『レスリング・オブザーバーズ・ニュースレター』が、アンドレを「恥辱レスラー」に挙げた1989年、遂にコンプリートされました。これは、アンドレが行った恥ずべき事に対して贈られた賞ではありません。対戦相手に恥ずかしい思いをさせた彼の戦いを讃えている賞です。
最も恥をかかせた相手が、デーモン。ある試合の前、アンドレは、リングサイドで子どもたちのためにサインを書いていました。そこを突然襲った、デーモン。しかし、アンドレはデーモンのマスクをつかんで、リングの反対側に投げつけます。デーモンは、慌ててタオルで顔を隠して、リングを去って行ったそうです。
財布の中身のやっぱり大きい
1974年、最も高い賞金獲得レスラーとして、『ギネス世界記録』に挙げられたアンドレ。これは彼のピークである70年代のことです。1年に400,000ドルを稼ぎ出していました。さらに、スポンサーシップやテレビ出演などにより、プラス100万ドルを得ていたアンドレ。
200万ドルの価値があるとされたアンドレは、かなり豪勢な生活を送っていました。カスタマイズした車で移動して、ファーストクラスで空の旅。一日7,000カロリーのアルコール消費は、すべて最高級のビール、ワイン、スピリッツでした。しかし、その贅沢な生活のすべての裏側には、それと同じだけの痛みを抱えていました。亡くなった時、睡眠中に穏やかに逝ったというのは、せめてもの慰めではないでしょうか?
パリで父親の葬式に参加したのち亡くなったアンドレ
1993年、パリから連絡を受け、父親の健康状態が悪化していることを知らされた、アンドレ・ザ・ジャイアント。当時、アンドレの健康状態も、急速に悪化していました。そして、父親の葬式に参加した直後、ホテルで眠りにつき、帰らぬ人となりました。わずか若さ46歳で永眠。
公式な死因は、うっ血性心不全。何年にも渡る耐え難い痛みと大酒飲みが祟り、アンドレの心臓は白旗を挙げたのです。死後は火葬を希望していたアンドレですが、彼の遺灰は生前の彼の大きさを思い起こさせる量で、7.1キロにもなったそうです。
埋葬場所
アンドレの家族は、パリの亡くなったばかりの彼の父親のそばに、アンドレの骨も埋葬しようと計画していました。しかし、彼の遺書には、はっきりと火葬されたいと書かれていたのです。家族がアンドレほどのサイズに対応できる火葬場を見つけるには、2週間を要したとされています。アンドレの葬儀は、パリで行われたものの、家族は彼の遺志を尊重して、灰をアメリカに持ち帰りました。
アンドレの遺灰は、かつての住まいであるノースカロライナ州のエラーブの自宅の家に埋葬されています。彼の相続受取人は、娘のロビンでした。
世界には大きすぎる
アンドレに近しかった多くの人は、巨大な体のステージキャラクターにも関わらず、アンドレが感情に敏感だったと話しています。HBOのドキュメンタリー、『アンドレ・ザ・ジャイアント』では、ハルク・ホーガンが、彼のサイズが原因起こった恥ずかしいエピソードについて語っています。たとえば、フライト中に座席から出ることが出来ず、バケツに排尿したというエピソードなどです。
同じドキュメンタリーでは、「どこに行っても大変なんだ。大きい人間に対する用意が出来てない。盲目の人、障害者には対応してるのに、大きい人への対応ができてないんだ。だからそこに収まるようにしないといけないんだけど、それはそんなに簡単とは限らないんだ」とアンドレは明かしています。
2人の人を溺れさせかけたアンドレ
『アンドレ・ザ・ジャイアント』のディレクターであるジェイソン・ヘアールは、映画ではカットされているショッキングなストーリーを、『ザ・ワープ』と共有しています。南部のビーチタウンに共に滞在していた、リック・フレアー、アンドレ、ダスティ・ローデス、ブラックジャック・マリガン。夜飲んでいると、マリガンが突然アンドレにパンチをお見舞いしました。
ジャイアントは、マリガンとローデスをつかんで外に引っ張り出し、2人を波で溺れさせようとしました。幸運にも、リック・フレアーが助けに現れ、アンドレを室内に戻るように説得。アンドレは、その説得に応じて、何もなかったかのように酒をまた飲み始めたと言います。
お酒に関しては、ゴミ箱級の欲求があったアンドレ
今までに触れてきたように、アンドレには、かなりの量の酒を消費する生まれつきの才能がありました。70年代のテキサスでのアマリロのツアー中、若きレスラーのテッド・デビアスは、アンドレを満足させろ!という課題を託されます。そこで2人は、一緒にバーへ向かいました。
デビアスは、テーブルにウェイターさんが近づいてきて注文をたずねたときのことを、『CBSスポーツ』に次のように語っています。「アンドレは、ゴミ箱はあるかって聞いたんだ」と思い出すデビアス。「"はい、たくさんありますよ"ってウェイターが答えたんだけど、アンドレは、"ゴミ箱を空にして、ビールと氷を注いでくれ"って言ったんだ。店員は俺を見て、"冗談ですよね?"と言ったんだけど、結局注文通りにしてくれたよ。ゴミ箱に2~3ケース分のビールを流し込んでね」。
コミックに最適だった人生物語
アンドレへの一般人からの関心は、死後もおさまることがありませんでした。その人気により、彼の素晴らしい人生にインスパイアを受けた、2つのコミックが存在します。ボックス・ブラウン作の『Andre the Giant: Life and Legend』 は、2014年に発売。ブランドン・M・イーストンによる『Andre The Giant: Closer To Heaven』は、2016年に発売されています。
ボックス・ブラウンは、グラフィックノベルは、アンドレの人生のようなユニークなストーリーには適している、と話しています。「アンドレのストーリーに取り掛かっているとき、かなり慎重になったよ。アンドレの気持ちになろうとしたんだけど、あれほどの素晴らしい人生を考えると難しかったよね」
最後のWWFの試合
彼の健康状態はかなり悪化していたため、最後の1年、アンドレは、激しいレスリングを制限されていました。最後のテレビ放送向けのWWFへの参戦は、サマースラム '91。このイベントは、マディソン・スクエア・ガーデンで行われ、多くの人がこの試合を記憶しています。理由は、ランディ・サベージとミス・エリザベスの「結婚」。
その年の後半、アンドレはWWEと英国を回ります。1993年のサバイバー・シリーズでは、リングに戻ってきたアンドレでしたが、同年の1月後半に逝去しました。
ワシントン・レッドスキンズからお声がけ?
1975年、ディフェンスに悩んでいたワシントン・レッドスキンズ。そこで、世界で最も大きなアスリート、アンドレに声をかけたということです。彼はトライアウトを受けるように誘われました。
レッドスキンズは、承認を得るためにWWEのオフィスにも連絡を入れ、ワシントンで記者会見まで行いました。アンドレとビンス・マクマホンが記者会見に参加したものの、アンドレがトライアウトを受けることはありませんでした。その年、アンドレは、WWEチャンピオンシップをものにします。
『プリンセス・ブライド・ストーリー』のキャスティング
レスリングのファンでない人も、カルトクラシックの1987年の映画、『プリンセス・ブライド・ストーリー』でのアンドレを大絶賛。アンドレは、愛嬌のある巨人のフェジックを演じています。しかし、元々プロデューサーたちはこの役に、野球選手をキャスティングしようと考えていたそうです。
『ザ・ワープ』の中で、ジェーン・ジェンキンスは、キャスティングのプロセスについて明かしています。「このフェジックというキャラクターは、どういうものなのかしら?野球選手を探せばいいかしら?」と思案した彼女は、原作者に質問を投げかけたのです。そして帰ってきた答えが、『アンドレ・ザ・ジャイアントにしてくれ』でした。
この役にピッタリな他の候補者は?
『プリンセス・ブライド・ストーリー』にピッタリな巨人を探す間、キャスティングディレクターのジェーン・ジェンキンスは、ロスの街並みで見かける背の高い人すべてをよく観察したと話します。ドアにぶつからないような人は、小さすぎるというのが彼女の基準。
他にも候補者がいたものの、プロデューサーはアンドレを選択。しかし、映画のリハーサル時、彼はすでに日本で何百万ドル規模のレスリングの試合を控えていました。ところが、運命のいたずらでしょうか。彼の試合はキャンセルされ、アンドレは、パリでジェンキンスや他のキャスティングスタッフに会うことが出来たのでした。
ジャイアントガス
すでにお話しした通り、アンドレ・ザ・ジャイアントはおならをかますのが大好き。レスリングのキャリアだけでなく、俳優活動をしていた時もこの「趣味」は続きます。『プリンセス・ブライド・ストーリー』の30周年記念同窓会の際には、共演者のケイリー・エルウィスが、このストーリーをABCと共有しています。
撮影1日目、キャスト全員がリラックスしている際に、アンドレは「16秒間に及びオナラをして、製作チームを一時停止」させました。3つ先の州まで聞こえるくらいの音量だったそうです。「ロブ・ライナー監督以外、誰も何も言わなかった。監督は、"アンドレ、大丈夫かい?"って聞いたんだけど、アンドレは、"今から俺がボスだ"って答えたんだ。すでにそんな冗談が言えるくらいリラックスしてたのさ!」
ジャイアントに従え
アンドレ・ザ・ジャイアントは、1990年代、シェパード・フェアリーが始めた、ストリートアート運動でもよく使用されていました。フェアリー作のアンドレのスタイライズされたイメージは、世界中で見られるようになります。そこには、「従え」という意味を込めて、「アンドレがポッセ(警護団)」というフレーズが書かれていました。
フェアリーは、『フォーマット』誌に次のように話しています。「アンドレ・ザ・ジャイアントのステッカーは、たまたまだったんだ。ハッピーな事故ってやつさ。1989年の夏、僕は、友人にステンシルのやり方を教えていたんだけど、その時丁度新聞が手元にあって。アンドレとレスリングをするっていう広告がたまたま載ってたもんで、友達にこれでステンシルをするように言ったんだ。おもしろいと思ったから、僕自身もいくつかステッカーを作ってさ。当時つるんでたやつらがお互いのことを「ポッセ」って呼んでいて、だから"アンドレがポッセ"というフレーズにしたんだ。しかも、ヒップホップのスラングでは、"仲間"という意味で"ポッセ"を使うから、ちょうどいいと思ったんだ。パブリック・エナミー、N.W.A、アイス-Tなんか、みんな使ってたよ」
馬が合わなかったカマラ
伝説的なレスラーのカマラは、1980年代にアンドレと試合をしています。この時代、2人はライバル関係にありました。ロインクロスを身に着け、裸足で、フェイスペイントをしてレスリングをし、自分自身を「ヘッドハンター」と呼んでいたカマラ。
カマラは、レスリング界の人種差別的・性差別的な文化に関して、最近になって口を開いています。そこで、アンドレに関しても言及。「見た目と違って、アンドレはフレンドリーな奴じゃなかった。かなりの気分屋で、ひどい態度だったんだ。はじめて一緒に仕事をするようになったとき、リング上で俺に失礼な言葉を吐いて、俺はヤツを殴ってやったよ。それからは、特にヤツとの間に問題はないかな。アンドレとうまくいってないやつは結構いたよ。アンドレは現れると、みんなにつっかかるんだ。レスラーやファンの扱いですらひどかったよ」アンドレとカマラは、リング外でも小競り合いをしていたという話もあります。
バッドニュース・アレン
バッドニュース・アレンとの折り合いも悪かった、アンドレ。アレンも、カマラと同じようなコメントをアンドレに対してしています。1992年にメキシコで行ったツアーに一緒に参加した際に、ジャイアントから失礼な言葉を投げかけられたというものです。この時、アンドレの健康状態はすでにかなり悪化していました。
メキシコでは、アンドレは胃腸ウィルスにかかっており、テキーラを常に消費していました。アンドレとアレンの試合が始まると、ジャイアントの消化系が悲鳴を上げます。有名な「バット・バンプ」という技をかましますが、お腹のコントロールを完全に失ってしまったアンドレ。この汚い事件の後から、アレンに「バッドニュース・ブラウン」というあだ名がつけられました。
飛行機のウォッカの在庫を飲み干したアンドレとリック・フレアー
アンドレのレスリング仲間は、彼に関する飲酒話を尽きることなく抱えています。自身の自伝、『リック・フレアー自伝トゥー・ビー・ザ・マン』の中で、リック・フレアーは、2人が日本からシカゴへ移動していた時のことを話しています。
「彼とシャーロットのダウンタウナーにいたんだ。1975年で、アンドレは106杯のビールを飲んだ。当時の彼のマネージャーのフランク・ヴァロワは、56杯….. あと、アンドレと一緒に東京発シカゴ行きのボーイング747に乗ったんだ。俺たちは一緒に飛行機のウォッカを飲み干したんだぜ」
舞台を見たかったアンドレ
彼が人生でしてきたことの中で、アンドレがやっとことのないことなど、ほとんど存在しませんでした。信じるか信じないかは別として、彼はよくブロードウェイの舞台を見たがっていました。
結局見ることがなかった理由は、彼が思いやりのある人だったためです。体の大きさから、舞台を見に行くことで他の観客が見えなくなってしまうことを心配したアンドレ。他人に迷惑をかけたくない、という彼の行いは、アンドレがフレンドリーで思いやりのある人間であったことを証明してくれます。
ロック様との関係
アンドレが、ドウェイン・ジョンソンと知り合いとはどういうことでしょうか? ロック様がツイッターで共有したこの写真がすべてを物語っています。キャプションには次のように書かれていました。「5歳の時、なぜみんなが彼を見て興奮するのかわからなかったんだ…俺にとっては、ただの"アンドレおじちゃん"だったからね;) #MissU #TBTpic.twitter.com」
このキャプションを見ると、アンドレがロック様の実のおじさんなのかと思うのではないでしょうか?しかし、2人は血縁者ではありません。ジョンソンの父親である、ロッキー・ジョンソンは、プロレスラーで、家族ぐるみの付き合いをしていたのです。そのため、ロック様はアンドレを「おじちゃん」と呼んでいたというわけです。
巨大な指を持っていた?
もちろんアンドレには、巨体にあった大きな指が必要ですよね。彼の指はかなり大きく、ピアノを弾くなどという行為はもっての外だったそうです。なぜなら指1本で3つの鍵盤に触れてしまうためです。
アンドレの指輪は巨大で、輪の中に1ドル硬貨が入ってしまうほど。リングではこの巨大な指をいかしていました。2011年のハルク・ホーガンのインタビューによれば、アンドレは試合中に親指の一つを対戦相手の肛門に差し込もうとすることがあったということが明らかになっています。
共演者にも悪影響
幾つかの報道によれば、アンドレの大酒飲みの習慣は、共演者にも影響していたようです。特に、『プリンセス・ブライド・ストーリー』の共演者です。どうやら共演者のケイリー・エルウィスやマンディ・パティンキンが撮影中の飲み仲間だったようですが、アンドレのペースにはついていける人は、誰もいませんでした。
『UpRoxx』は、このことが原因でたくさんの演者が二日酔いで現場に現れたと明かしています。アンドレは撮影中にロンドンのハイアットホテルに40,000ドルのツケがあったことを考えると、他の人が彼の飲酒量についていけなかったことも頷けますよね。
サイズにおける問題
アンドレ・ザ・ジャイアントほどの大きさとなれば、「普通」サイズの人ができることが困難になります。アンドレにとっては、すでに紹介したように、トイレ関連が一番の問題になります。
一般的なトイレが使えないだけでなく、日本ではさらに厳しい状況に追い込まれます。ハルク・ホーガンの自伝によると、アンドレは、日本のトイレの個室に収まらなかったそうです。代わりに、ベッドに新聞紙を敷いて、そこに排便するという気まずい方法で乗り切っていたようです。
大きな大きな大きなハニーコム!
Honeycomb Cerealみたいに大きいのは誰?アンドレ!1980年代、アンドレは子ども用のハニー味のシリアルのCMに出演しています。様々な地域で放送されたこのCMの中では、2人の子どもを訪問して、一緒に木の上の隠れ家で遊ぶアンドレが映し出されています。
この役はアンドレには、適役でした。その理由は、この商品のテーマソングにあります。「ハニーコムは大きい…イエイイエイイエイ!小さくないよ…ノーノ―ノー!ハニーコムは大きな大きな口で食べないと!大きなお口に大きなハニーコム!」