トルコの噴水の下で何年もかけて発掘されたものとは
現在のトルコのデニズリにあたる地域で、複数の遺跡の発掘にあたっていた考古学者たち。チームは古代ローマ帝国の中心地域が位置していた地点に重点を置き作業を行っていました。発掘を行っていた遺跡の1つで発見されたのは、過去からの素晴らしい遺物…。2019年、誰もが予想もしていなかった古代の工芸品を発見したチームに衝撃が走ります。驚くべきは、その発掘地点です。
何年にもわたって発掘作業が行われてきた地域
報告によると、チームの発見が奇跡に近いことである理由の1つに、作業が行われていた地域の発掘作業は、19世紀から行われていたという事実があります。
この場所には、かつてローマのフリュギアの一部であるラオディキアの町が所在していました。この町は巨大な貿易ネットワークの鍵となる地点であり、かなり裕福だったと考えられています。
重要なラオディキア
ローマ帝国時代に重要な地域であったことを考慮し、考古学者たちはこの地域を研究の重要地点と定めていました。2002年ごろに開始した詳細な発掘作業は近年まで続けられています。
過去数年の間に、専門家たちは新しく精度の高い遺跡の地図の草案を作成しました。さらに、掘り起こされた発掘物の重要性の解明に取り組んでいます。
今までで最も重要な発掘物
2019年、最重要とは言わないまでも、かなり重要な発見の1つであるものをチームが発掘したという発表がありました。以前にもかなりの数の発掘物が見つかっていることを考えれば、これはかなり期待ができます。
古代のお宝の発掘に一役買った専門家たちは、ラオディキア古代都市発掘委員会のメンバーたちです。デニズリのパムッカレ大学のセラル・シムセックがチームの指揮を執りました。
過去への理解
一般に発表をした際のチーム責任者のセラル・シムセックは、チームと共に発見した発掘物に満足げな様子を見せていました。
しかし、発掘物の重要性を理解するためには、まずローマ帝国の統制下にあったラオディキアの歴史を理解する必要があります。また、ローマ帝国の一部になる前のこの町を理解することも極めて重要です。
ラオディキア以前
興味深いことに、ラオディキアは元々「ディオスポリス」として知られるギリシアの町でした。ディオスポリスは「ゼウスの町」を意味します。また、この地域は紀元前3世紀ごろに一時期「ローズ」と呼ばれていました。
その後、セレウコス2世がのちのローマの町をこの地域に建設します。町が建設され地域を掌握したのち、奥さんのラオディスにちなんで町をラオディキアと命名しました。
元々栄えていたわけではない
常にそうだったわけではありませんが、初期のラオディキアには華々しさも重要性もなかったと報告されています。しかし、ほどなくして町の地位は高まり、富を増やしていきました。
紀元前188年までには、ペルガモン王国の一部となります。紀元前133年以降は町として繁栄し、その後共和政ローマの一部になりました。
戦争で破壊された町
紀元前88年から紀元前63年の間、共和制ローマはミトリダテス戦争に明け暮れます。ローマとポントスの間で激しい争いが繰り広げられました。
残念ながらこの戦いの犠牲となったラオディキアは、ローマが戦いに明け暮れる間に多大な損害を被ります。戦争の妨げを受けたラオディキアでしたが、驚くべきことに他の地域とは異なりすぐに立ち直っていきました。
重要な地点に位置していた町
ラオディキアが容易に立ち直ることができたのは、アジアへの貿易の交易所となりえるその地理のお陰でしょう。
共和制ローマの終焉に近づきローマ帝国が台頭すると、状況をうまく利用した町は繁栄していきました。裕福な町へと急速に成長していき、様々な商品やお金がこの場所に流れ込んでくるようになります。
すべてが完璧とはいかない
町は交易という点で最適な地点に位置していましたが、この地理が原因の問題も抱えていました。町が建設された場所は、地震が頻繁に発生する地域だったのです。
60年あたりに発生した地震は、完全に町の中心地を破壊したと言われています。しかし、この事件の後もこの地に住む人はがれきから再び町を建設する決意をしました。今度は、ローマ帝国の手を借りずにです。
町そのものの富
町の富と資源を活用し、住民たちは以前にも増して豪華絢爛な町へとラオディキアを変貌させました。最も裕福で尊敬されている住民たちは、寺院、劇場、住民のための共有スペースのために個人的に出資したと言われています。
最終的には、町の繁栄を耳にしたローマから自由都市として認められ、ラオディキアは町の運営を自由に行うことができるようになりました。
町の終焉
ローマ帝国時代、ラオディキアの町は重要な都市と考えられていました。しかし、繁栄はローマ帝国以降のビザンツ帝国まで続きます。
実際、ビザンツ帝国統制下でも生き延び繁栄したラオディキア。残念ながら、かつて重要だったこの町は中世時代にトルコとモンゴルの攻撃を受け破壊され、終焉を迎えたと言われています。
抜きんでていたリーダー
ローマ時代のラオディキアは、様々なリーダーによって統制されていました。しかし、特に大きな影響を持っていたローマの君主はただ1人です。ラオディキアの市民たちは彼を崇拝していました。
その人物こそ、98年から117年まで皇帝として君臨したローマ皇帝のトラヤヌスです。彼が市民から愛されていた理由とは、一体なんでしょうか?
立派なリーダーであったトラヤヌス
歴史家の間では、トラヤヌスはローマ帝国の中でも特に影響力の強いリーダーであったと考えられています。主な理由の1つは、最も重要な軍事拡大の際にトラヤヌスが帝国を勇敢に率いたということでしょう。
トラヤヌスが死去した117年までには、世界におけるローマの領土はローマ史上最大規模に拡大していました。トラヤヌスは帝国の繁栄に貢献した素晴らしい戦士皇帝として記憶されています。
トラヤヌスの青年時代
さて、この素晴らしいローマのリーダーとは一体どんな人なのでしょうか?剣を手にしたこともない皇帝になる前のトラヤヌスは、現在のスペインのセビリアにほど近いイタリカで誕生しました。
成長してローマ軍の指揮官に就任すると、リーダーシップと戦いでの活躍ぶりにおいて評判を得ていきます。98年1月27日、ついにトラヤヌスはローマ帝国の王座に就きました。
ローマの成長を見越していたトラヤヌス
トラヤヌスの統制下のローマでは、たくさんの新しい大きな発展がありました。トラヤヌスの指揮の元に建設された建物や建造物の多くが今日まで姿ととどめており、人気の観光地となっています。その中でも特に有名なのは、トラヤヌスの記念柱とトラヤヌスの市場でしょう。
ローマ市民は新しい変化を受け入れていましたが、トラヤヌスの素晴らしい功績はこれだけではありません。トラヤヌスが抜きんでた統治者である所以は、帝国の拡大にあります。
すぐに始まった拡大
新しい皇帝として、トラヤヌスはすぐに帝国の拡大に着手します。初めに行ったことのひとつは、現代のエジプト、サウジアラビア、ヨルダンの一部から形成される地域であるナバテア王国の征服です。
ナバテア王国の征服後は、アラビア・ペトラエアと呼ばれる新しい属州を建設。その後、現在のセルビアとルーマニアに当たる領域であるダチアを掌握しました。この軍事行動は大きな成功を収め、ローマは大量の戦利品を得ます。
軍人であり皇帝
その後、トラヤヌスは現在のイランにあたるパルティアに戦争を仕掛けます。最終的に勝利を収めたトラヤヌスは、戦争後メソポタミアとアルメニアをローマの支配下に置きました。
トラヤヌスの軍事活動の結果、ローマ帝国は帝国史上最大領域まで拡大。トラヤヌスは市民の人気を得ていきました。
尊敬されていたリーダー
ローマの皇帝になる以前もなってからも、トラヤヌスは戦場での勇敢さ、帝国へのビジョン、市民への愛情、リーダーシップのお陰で名を馳せていました。
彼が人生の中で成し遂げたすべての功績を称え、トラヤヌスには「最高の支配者」と意味する「Optimus princepus」の称号が与えられています。しかし117年、外国に渡航中の船で病に倒れたトラヤヌス。同年の8月8日、セリヌスの町にて63歳でこの世を去りました。
ラオディキアとのつながり
ローマや帝国全体への功績にとどまらず、トラヤヌスにはラオディキアの町とも関わりがありました。歴史家によれば、トラヤヌスは莫大な資金を町につぎ込み町の繁栄に貢献したとの見方もあります。
この行いはもちろんラオディキアの市民の目に留まり、市民たちはトラヤヌスへの感謝を示す方法を考え付きました。
発見
これらの背景を考慮すれば、2019年にセラル・シムセックのチームがラオディキア内にトラヤヌスの銅像と思われるものを発見したと発表した際も、驚かなかった方もいらっしゃるでしょう。
しかしこの発見が衝撃的である理由は、市民が感謝の気持ちを込めて建設したトラヤヌスの銅像のスケール。発見された銅像はかなりの大きさであったのです。
指揮官の服装を身に着けたトラヤヌス
軍服に身を包んだトラヤヌスをとらえた、地下で発見されたこの銅像。体の前の部分を保護してくれる一般的な鎧の上に方から、腕までかかるローブを羽織っています。
防具に加え、伝統的にスコットランド人が着用するキルトに似たキトンを身に着けています。
征服者のイメージ
英雄のような軍服を着用したトラヤヌスの横には、手を後ろで縛られ膝まづく敵の姿。さらに、銅像のトラヤヌスは右手を空高く上げて、自身の優位性を示しています。
銅像はかなり凝った作りになっており、近くで見てみると実際のトラヤヌスの鎧に彫られていたものと同じエッチングを見ることができます。
普通とは違う鎧
2019年3月、シムセックはかなり凝ったこれらの彫刻について『ハリエット・デイリー・ニュース』で説明しています。「鎧のイメージはかなりはっきりと観察することができます」(シムセック)
「鎧の上の部分には、天体の雷神であるユーピテルの雷が描かれています」。もちろん、トラヤヌスが着用していたのなら普通の鎧ではないと考えるのが妥当でしょう。
鎧の意味
シムセックは、さらに次のように説明しています。「胸の部分にメデューサが描かれています。皇帝の恐ろしい側面を表しているという点で非常に重要です」。愛された支配者ではあったトラヤヌスも、冷酷な部分を持ち合わせていたということがわかります。
さらに、「2匹の相反するグリフォンは善良な神であるアポローンを象徴します」。ご存じない方のために説明すると、グリフォンとは獰猛さ、叡知、権力を象徴する、半分ライオンで半分鷲の伝説上の生き物です。
重要な意味を持つシンボル
シムセックは、皇帝の鎧にアポローンの象徴が含まれていたことの重要性を強調しています。「アポローンは、芸術を保護した神として認識されています」(シムセック、『ハリエット・デイリー・ニュース』)
「これを踏まえると、皇帝は実際に当時の芸術を保護していたということでしょう」。つまり、在位中、トラヤヌスは臣下からある種のアポローンのような存在として認識されていたのです。
重要な刻印
銅像自体の重要性に加え、考古学者たちは銅像に彫りこまれた重要な刻印を発見したことを明かしています。
ローマの水道法の詳細を記していた刻印。ローマ社会において、これはもっとも重要な法律の一つだと考えられています。水道システムのお陰で栄えた文明であることは知られていますが、こういったものはきちんと規制される必要があります。
かなり戦略的なシステム
水をローマ中に配給するために、主要なローマの都市に水を輸送する長いパイプが設計されました。このプロセスでは、市民が私欲のために水の流れの進路を変えないことが重要です。
数人がルールを破ってしまうと、すべての下水システムが機能しなくなります。秩序を守るために導入されたのが、水道法です。
厳しく施行された水道法
水道法はローマ政府によって厳格に執行され、下水システムに干渉した者は厳しく罰せられました。
ラオディキアでは、水の供給を汚染したりパイプに細工をしたりした者には、最低12,5000デナリウスの罰金が科せられています。これは決して楽に払える額ではありません。ラオディキアは裕福な町であると考えられていましたが、これだけの罰金を科されてしまえば誰でも昏倒したことでしょう。
明確な法律
水道法には複数の節が存在していましたが、その中の1つには違法事項が明確に記してありました。「市の水を無料で使用したり、個人に与えたりすることを禁止する」
翻訳された法律には次のように記載されています。「水路の近くに農場を所有する者は、農業目的で水を使用することはできない」。ローマ政府はかなり厳しかったようです。
トラヤヌスと水道法の関係
興味深いことに、考古学者チームによって発見されたトラヤヌスの銅像には、水道法に関連した刻印がされています。学者の1人によれば、「真ん中に缶に入った水が描かれている」のです。
「グリフォンは、水の入ったボウルに前足を伸ばしています。水道法を考慮すれば、トラヤヌスがトラバーチンでできたアーチとパイプを駆使してラオディキアに水路をもたらした皇帝であることを示す象徴だと言えるでしょう」
大きな貢献をしたトラヤヌス
考古学者チームのリーダーは、トラヤヌスがラオディキアの水路の建設に30,000デナリウス以上出資したと考えられると説明しています。現在の価値でおよそ50,000ドル(日本円で5,400,000円)に相当します。
そこで、水路建設のために個人的に出資してくれたトラヤヌスを称え、ラオディキアの人たちは銅像を建設し数百年後の発掘地となる噴水の傍に設置した、と考古学者たちは仮説を立てました。
本物そっくりの銅像
遺跡を発掘していた考古学者によれば、銅像はかなり正確に作られており、トラヤヌス本人が銅像のためにモデルと務めたと思われるほどです。
実際にはそうでなかったとしても、銅像を制作した芸術家はおそらく皇帝本人を知っていたのではないでしょうか。皇帝の特徴が正確にとらえられているのです。地元の新聞社は、「個人的に皇帝の知り合いではない人が制作したにしては正確すぎるほど「顔の特徴が細かく詳細に表現されている」と報道しています。
粉々になった銅像
銅像が発掘チームよって発見されたとき、噴水の下から356個の破片となって見つかりました。町をがれきに変えたこの領域を襲った地震が原因で、銅像が粉々にな砕けてしまったと考えられています。
驚くべきことに、数百の破片に粉々となっていっていたにも関わらず、専門家は対部分を元の状態に戻すことに成功しています。
数千年の歴史
偉大な皇帝の銅像は、113年にさかのぼった1,900年以上前のものであると専門家たちは推測しています。この見立てが正しい場合、トラヤヌスが病死する4年前に完成したことになります。
2,000年前に制作され数百のパーツに砕け散っていますが、状態は驚くほど良いと言えるでしょう。もちろん、考古学者たちはこの発見に歓喜しました。
多くの発掘物の1つ
しかし、銅像は遺跡から発掘されたものの1つにすぎません。長年にわたり、現在のデニズリに当たるこの地では数えきれないほどの他の工芸品が見つかっています。
発掘作業が行われている長い月日の中で、寺院、浴場、石棺、競技場など、多くの建物や小さな工芸品が出土しました。
水路を発見
数えきれないほどの工芸品に加え、町から数キロ離れた場所で水路が発掘されました。この水路はラオディキアの町中に水を配給していた複雑なパイプのシステムに水を供給していたと考えられています。
しかし現在の状態からして、トラヤヌスの銅像を破壊した地震によって損害を受けた可能性があると推測できます。
観光が可能
古代都市のラオディキアに興味がある方は、幸い観光地として訪れることができます。さらに、この場所はトルコの観光省から一部助成金が出されています。
そのお陰で、発見された多くの遺跡は修繕は施された状態で展示されています。トラヤヌスの銅像を発見した考古学者のチームは、銅像が地域の観光をさらに促進してくれることを願うばかりです。
誇らしげなチーム
チームの発見に歓喜したセラル・シムセックは『ハリエット・デイリー・ニュース』に次のように語っています。「おそらく、世界中の人がこの場所を訪れ銅像を見に来るようになるでしょう」
「この銅像は、規模と肖像という点で非常に重要です。皇帝の銅像を発掘できたことを非常に喜ばしく思います」。今後も、古代都市ラオディキアの素晴らしい発掘物が発見されることが期待されています。