医師も驚く、成長が止まらない少年の生活とは?
人とは少し変わった人生を送ってきたブロック・ブラウンさん。彼の人生がどう変わっているかと言うと、それは異常なほどの高身長です。そう、この少年、とんでもなくでかいんです。この身長が原因で、慢性的な痛みや周囲からのからかいに悩まされてきました。また、家族でさえも彼の為の特別な服や家具を購入するために、貯金を削る毎日を送っています。
彼は、複数回メディアに取り上げられたのちに人生が劇的に変化していきます。彼が今後どこまで成長するのか、この成長が寿命にどう影響するのかなどを見ていきましょう。
出生時は普通の身長だったブロックさん
ブロック・ブラウンさんが生まれた時、ごく普通の健康な赤ちゃんのようにしか見えませんでした。誕生時の体重は3.6キロで、慎重は59センチ。母親のダーシー・モス・エリオットさんは、自分の息子に普通ではないところがあるとは全く思っていませんでした。
ブロックさんが成長するにつれて、普通の子供とは違うということが明らかになってきます。病院からブロックさんを連れ帰ると、ダーシーさんは自分の息子がかなりのスピードで成長していることに気づいたのです。
止まらない異常な成長
ブロックさんは、両親が購入した赤ちゃん服がすぐ着れなくなるようなスピードで成長。ブロックさんは同い年の他の赤ちゃんと同じくらいハッピーで元気でしたが、他の子よりも成長速度がかなり速いようです。
子どもが急激に成長することは普通です。ただブロックさんの場合、成長し続けていました。保育園に上がると、彼の人生を変える展開が訪れます。
他の子よりかなり大きい
多くの親が、「子どもの成長ははやい!」と言いますよね。ダーシーさんの場合、普通の速度よりもかなりのスピードで息子が成長しているように感じられました。保育園での初日、ダーシーさんは自分の息子が他の子供よりもだいぶ背が高いことに気づきます。当時、ブロックさんはすでに157センチまで成長していました。
一般的なアメリカ人の5歳児が100センチほどであるため、頭ひとつ飛びぬけていたのです。
1年生になるころまでには大人の身長
1年生になるまでには、ブロックさんは母親と同じくらいの身長までに成長していました。はじめ、息子のびっくりの身長を不思議に思っていただけのダーシーさん。しかし、それからすぐに本気でこの状況を心配するようになりました。
ブロックさんの叔母のステイシー・スナイダーさんは次のように話しています。「ブロックが幼い時、自転車に乗れなかったんです。でも、自分の身長と同じくらいの6歳児に自転車の乗り方を教えようとしても難しいですよね。支えてあげることができないんです」
それでも幼い少年として扱ったダーシーさん
ブロックさんは、他の子供たちが遊ぶようには遊べません。さらに、ダーシーさんはブロックさんの場合、日常的な課題をこなすことが困難であることに気づきました。
「けがをした5歳児がいて自分に向かって走ってきたら、抱き上げますよね。この子が自分の半分の身長の時でも抱っこしていたので、私は腰痛もちになったんですよ」 (ダーシーさん)
答えを求めて医師の元へ
ブロックさんの急激な成長は、ただの急成長ではなくもっと恐ろしいものが原因であるかもしれない、と考え始めたダーシーさん。息子の健康を心配して、詳細な検査をしてもらうべく医師の元へ向かいました。
医師の1人がブロックさんを別の医師に紹介し、そこで複数のテストが行います。結果が戻ってくれば、ブロックさんと家族はこの異常な成長の答えがわかるはずです。
巨人症の珍しい診断
ブロックさんが5歳の時、医師から診断を受けます。彼の病気は、15,000人に1人の割合で発症する珍しい病気でした。これは、「脳性巨人症」として知られるソトス症候群という病気です。
診断を受けて、ブロックさんの母親は次のように話しています。「ブロックの成長を止めることは出来ないの。成長が止まるかすらわからない」。この状況により、ダーシーさんは息子の将来を心配し始めます。
他にも考慮すべきこと
ブロックさんの家族が最初にソトス症候群の診断を受けた時、正直あまり知識がありませんでした。はじめ、ダーシーさんは「クラスの他の子よりも成長が早いということだろう」くらいにしか思っていなかったのです。残念ですが、ソトス症候群には他にももっと恐ろしい影響があります。
医師は、ブロックさんが10代を超えて生きる可能性は少ないだろうと家族に告げました。さらに、現在の時点ではソトス症候群の治療法は存在しません。
ソトス症候群の影響
ソトス症候群を持って生まれた子供は、生涯を通して急激な成長を経験します。かなり若い年齢で、年上の兄弟や親ですら追い抜いてしまいます。
たいていの場合、この病気を持つ子どもは成人するまで急激に成長し続けます。ここまでくると、あとは他の同じ年の人達と同じくらいの身長に収まります。しかし、ブロックさんの場合は違いました。彼の症状は、完全にソトス症候群の説明に当てはまるわけではなかったのです。
辛いティーン時代
子供が思春期に急激に成長することは普通ですが、ブロックさんの場合はどのクラスメートよりも異常に成長して身長を伸ばしていました。中学、高校に入っても、異常成長は止まりません。
しかし、彼もよくいる思春期の少年。友達と遊んだり、釣りに行ったり、外で遊んだりすることが大好きです。14歳になるころまでには、すでに驚きの180センチに到達していました。
ソトス症候群が原因で他の人達よりも早く成長
ブロックさんの状況を追っていた医師たちは、ソトス症候群を患う他のほとんどの患者よりブロックさんが成長していることに気づきます。この発見によって、ブロックさんの健康に関しての懸念が強まりました。
はじめ、医師たちはブロックさんが大人になることが難しいと考えていました。今では、残念ながら15歳まで生きられないかもしれない、と考えを改めています。彼の成長の速度は、人間が耐えられるものではないのです。
たくさんの肉体的な痛み
急激な成長は、人間の心臓にとってかなりの負担になります。さらにブロックさんは、ねじれた背骨、ADHD、断続的激情障害 (IED)、学習障害なども抱えていました。
さらに、ブロックさんは生まれつき腎臓が1つしかありません。つまり、彼の体はきちんと痛め止めを処理することができないのです。そのため、日々の生活を少しでも楽にすべく薬を摂取することすらできません。「大きなテニスラケットが背中を突き抜けたような感覚かな。痛みを止めるために色々してるけど、針が背中を駆け巡る感じなんだ。辛いよ」と、ブロックさん話しています。
成長し続ける体のために休息も必要
ブロックさんはアセトアミノフェンやイブプロフェンなどの薬を摂取することができないため、家族は別の方法でブロックさんの生活を楽にさせてあげようと試みます。家族は大きな体が収まるようにカスタムメイドのベッドを注文。さらに、1,000ドルほどの特注の椅子もあります。
ブロックさんは、1日最大16時間睡眠をとらなくてはいけません。体に保存されたエネルギーがすべて成長に費やされてしまうため、起きているだけのエネルギーが残らないのです。
体と同じくらい大きな心
日々の生活が辛くても、ブロックさんはポジティブです。叔母のステイシー・スナイダーさんは次のように話しています。「笑顔をで毎日病気に向き合ってるの」。母親のダーシーさんによれば、「全体的にはガタイのいい優しい子なの。体と同じくらい心が広いのよ」
ブロックさんは、永遠の楽観主義者で、自分の人生が他の人より短いかもしれないという運命を受け入れています。「お医者さんたちが僕の痛みに対して何か出来たら、とは思うけどさ」
人生を楽しむ準備は万端
ブロックさんは、この病気のお陰で毎日の生活をすることがやっとです。長い間立っていることすらままなりません。車、レストランのブース、映画館、飛行機など、体が収まらない場所もたくさんあります。
幸いにも、ブロックさんは最近ちょっとした旅を経験することができました。家から何十キロも離れて、人生を変える経験を得たのです。想像できると思いますが、これにはブロックさんも大喜びでした。
ギネス世界記録保持者
ブロックさんはミシガン州のジャクソンで生まれ育ち、地元の有名人のような存在になっていました。出身は人口30,000ほどの小さな町。ブロックさんの影響はかなり大きく、彼の成長に関するニュースは最終的にアメリカ中に広がります。
ブロックさんは、2015年まで「世界で最も身長が高い10代」の記録を持っていました。ちなみに、2015年に成人したためそれ以降は外れています。
同じ病状に苦しむ他の子供たちとの出会い
2016年、ブロックさんはTLCのドキュメンタリー『トーレスト・ティーンズ 』に出演。このドキュメンタリーでは、成長部門において周りよりかなり先を行く10代の若者を追っています。
『トーレスト・ティーンズ 』の経験を通じて、ブロックさんはソトス症候群に苦しむ他の同世代の子供たちに出会うことができました。これによって、自分は一人ではないということを理解し、自分自身に苦しめられることがなくなります。しかし、これからさらに驚くような経験が待ち受けていようとは、まだ本人は知る由もありません。
世界一大きな人間?!
ブロックさんは、成長しても成長速度が衰えることはありませんでした。19歳になった時には、2.3メートル。毎年15センチずつ伸びています。
ブロックさんがこの比率で成長し続けると、世界一身長の高い人になるかもしれません。TLCのドキュメンタリーでブロックさんの旅路を見て来たアメリカ市民は、彼の健康とストーリーが気になるところでしょう。
勇敢にも出演
ブロック・ブラウンさんは、TLCのドキュメンタリー放送後もテレビに出演し続けました。2016年、『モーリー・ポヴィッチ・ショー』の反いじめに関する特別エピソードに出演。同番組では、肉体的な違いからいじめられたブロックさんの経験を議論しました。
同番組に出演後、たくさんの支援を得ることになったブロックさん。彼は自分の正直さが他人に影響をここまで及ぼすとは思ってもみませんでした。
たくさんの支援を受けたブロックさん
『モーリー・ポヴィッチ・ショー』でのブロックさんの言葉は、アメリカ中の視聴者に大きな衝撃を与えました。殆どの人が、何らかの形で「いじめ」を経験したことがあるはずです。ブロックさんの言葉に感動した人達は、彼に連絡を取って支援の言葉を送りました。
同じようにソトス症候群に苦しむ他の子供たちからも、たくさんのメッセージを受けたブロックさん。家族はこれらの励ましの言葉を受けて喜びましたが、まだブロックさんの医療費の支払いに関しては不安が残ります。
ブロックさんの家族における財政的なハードル
医療費に加え、成長し続けるブロックさんの洋服を用意する必要があります。毎年新しい服が必要になり、普通のサイズには収まらないため特注の高額な服を必要とします。
また、ブロックさんが必要とする特別な家具は、家族にとってかなりの出費です。ブロックさんが使用する多くの家具は、特注。どれも、少しでも快適に過ごせるようにと用意されたものです。
コミュニティーからの支援
家族はブロックさんを支援するためにできる限りを行っていますが、財政面においては支援を必要とする時もあります。そのため、家族はフェイスブック上に「ブロック・D・ブラウンのサポートページ」を設置。TLCのドキュメンタリーの放送後、このフェイスブックページには15,000以上のいいねが集まりました。
ミシガン州のコミュニティーもブラウン家のためにいくつかの措置をとっており、ブロックさんの医療費として10,000ドルの寄付を集めています。
NBA選手よりもデカい!
ブロックさんと家族は、すべての支援にこれほどなく感動しています。ある時、ブロックさんのフェイスブックページを通じて、匿名でデトロイト・ピストンズの試合へのチケットの寄付がありました。数名の選手と実際に会って、少しの間だけでも自分の病気のことを忘れることができたようです。見てください、選手たちより少しだけですが身長が高いんですよ。
家族は服の寄付に感謝していますが、ダーシーさん曰く、大抵の服は1年もすれば着ることができなくなってしまうそうです。
寄付に感謝
ブロックさんの家族は、ブロックさんを助けるための色んな人の助けに感謝しています。それでも、将来への不安はぬぐえません。ブロックさんは両親と同じくらい不安を抱えていていますが、それでもポジティブな姿勢を保っています。一番ワクワクするのは、寄付でもらう新しい洋服です。
ブロックさんの叔母のステイシー・スナイダーさんは、ブロックさんが病気や境遇に関する文句を言ったことは一度もない、と話します。巨大なナイキのスニーカーなどの寄付に、本人は感謝しかないのです。
大変な時期に援助した企業
ブロックさんの話を知ったカリフォルニアに本社を置くフィーツは、3Dプリント技術を使ってブロックさんの巨大な足に合う靴を製作しました。
ブロックさんがフィーツから最初の一足を受け取った時、次のように思ったそうです。「マジかよ、いいなんてもんじゃない。最高だ!ありがとう!」このような素晴らしい寄付のお陰で、ブロックさんは自分の病気からの気晴らしができています。しかし、そんな彼の元の医師から衝撃のニュースが舞い込んできました。
はじめて
最近、アーカンザスの専門家を訪れるようにと、家族はブロックさんが特別な飛行機に乗って旅行する機会を作ってくれました。1,609キロも移動して、ソトス症候群を研究するアーカンザス・チルドレンズ・ホスピタルのブラッドレイ・シェーファー医師の元へ向かいます。
シェーファー医師には、ブロックさんの慢性的な背中の痛みを治すことは出来ないかもしれないものの、ブロックさんが待ち望むようないいニュースがあったのです。
専門家から前向きな意見をもらったブロックさん
当初、ブロックさんは成人することは出来ないと言われていましたが、シェーファー博士は異なる予見を示しました。彼の余命に関する医師のほとんどの意見が間違っていることを証明したのである。シェーファー博士は、ブロックさんに、もはや寿命が縮まる危険性はないと言ったのです。
"彼は常に何らかの痛みに対処しなければならないでしょうが、彼は普通の人と何ら変わらない寿命を持っていると信じています。”
最高なこと
ブロックさんの家族は、このニュースを聞いてとても喜びました。ブロックは「今まで聞いてきた中で最高の出来事だった。長生きできると聞いて本当に嬉しい」と言っていました。ダルシはシェイファー医師がブロックが普通の寿命になると言った時に泣いていました。
医者は、成人になったらブロックの成長が止まるのか、それともまだ成長を続けるのか、はっきりとはわかっていないと言いました。しかし、将来がどうであれ、彼の周りには助けてくれる多くの人が存在することを喜んでいます。
多くのインスピレーション
"できればスポーツ用品店で働きたい" "レジ係か何かのような仕事がしたい" とブラウンは言っています "自分の仕事を持ちたい "と思っています。それと一緒に、ブラウンと彼の母親は長い未来を一緒に過ごすことを楽しみにしています。
彼女の部分では、彼の母親、ダーシーは、彼の快適なゾーンの外に何かをするために彼をプッシュしたくありません。"私はただ、彼が良い人生を持っていると彼が今までにすることすべてで幸せであることを願っています "と愛に満ちた母親は彼女の最愛の息子のために願っています。
将来を見据える
現在の世界で最も背の高い男性は、トルコに住むスルタン・コーセンという名前の男性です。スルタンは現在身長250㎝です。2019年、ブルックの現在の身長は237㎝なのでこのまま成長を続けていればスルタンの身長を超えて世界一高い男の座を奪うことになります。
ブロックは自分に未来があることを知った今、世界記録を更新していくかどうかは別として、明るく素敵な未来を手に入れようとしているのは確かです。
12歳には190㎝近くあったアンドレ
12歳のアンドレ少年は、身長1.9メートル、体重109キロ。学校へ行くのに、スクールバスに乗るという選択肢は、彼にはありませんでした。だって体が収まらないのです。彼が収まる唯一の車が、トラック。幸運にも、彼の父親と友人同士だった隣人のサミュエル・ベケットが、そのアンドレが必要としているものを所有していたのです。
自身も有名人であるベケットは、著名な脚本家。彼の最も有名な作品は、『ゴドーを待ちながら』です。学校までの車中、ベケットとアンドレが、舞台やリングに関して話すことはありませんでした。2人は、共通の趣味であるクリケットに関して、夢中になって話していたそうです。この経験は、ベケットにとってもかなり不思議なもので、後に、このことに関する劇も手掛けています。
軍隊に入るには大きすぎる
19歳のアンドレは、フランス平和軍からの召集令状を受けたものの、実際に徴兵されることはありませんでした。これは、運命のいたずらだったのでしょうか。軍隊には、アンドレサイズの靴がなかったのです。さらに、フランス軍のベッドに身長が収まらず、塹壕に隠れるには大きすぎました。
アンドレは徴兵されなかったため、レスリングに集中することが出来ました。夜はパリで訓練を受け、昼間は引っ越し屋として働いたアンドレ。そして、1963年、彼はイギリスでプロデビューを果たします。その10年後にWWEデビュー。実は渡米する前、日本でもプロレスをしていたんです!
日本で分かった成長障害
1970年、日本の国際プロレスでレスリングをするために、英国を去ったアンドレ。その日本滞在中に、自身は先端巨大症であることがわかります。成人の先端巨大症は、手、足、顔などに影響が出ます。これは、成長ホルモンが過剰分泌されることが原因です。アンドレは、この病気によって、体にかなりの痛みを感じていたものの、リング上では、この痛みがプラスに作用していました。そのため、アンドレは形成外科手術を拒否しています。
タッグチームや個人戦では、「モンスター・ロシモフ」というリングネームで戦い、最高の成績を残しました。デビューしてからすぐに、彼はマイケル・ナドーと共に、タッグチームのチャンピオンと称されます。そして3年後、「モンスター」はアメリカで「ジャイアント」と命名され、活躍するようになりました。
19歳で実家に戻った際、目を疑ったアンドレの両親
アンドレ・ロシモフが5年間親元を離れてから19歳で帰郷すると、親は彼を見違えてしまいました。先端巨大症のために2.1メートルにまで成長し、昔の彼とは似ても似つかない状態になっていたのです。実はジェアン・フェレの名前で活躍していた時、息子とは知らずにテレビで視聴していた、と認めているアンドレの親。
1981年に『スポーツ・イラストレイテッド』誌に語ったこの再会から、アンドレは、この両親との出来事をのんきにとらえていることがわかります。自分の親に息子だとわかってもらえないだろうと知りながら、何事もないかのように自分のロールス・ロイスの車に関して幾つか質問を投げかけたアンドレ。最終的に、そこでやっと父親がアンドレの昔と変わらない「キラキラ光る眼」に気づいたのです。
世界でも規格外
アンドレに近しかった多くの人は、巨大な体のステージキャラクターにも関わらず、アンドレが感情に敏感だったと話しています。HBOのドキュメンタリー、『アンドレ・ザ・ジャイアント』では、ハルク・ホーガンが、彼のサイズが原因起こった恥ずかしいエピソードについて語っています。たとえば、フライト中に座席から出ることが出来ず、バケツに排尿したというエピソードなどです。
同じドキュメンタリーでは、「どこに行っても大変なんだ。大きい人間に対する用意が出来てない。盲目の人、障害者には対応してるのに、大きい人への対応ができてないんだ。だからそこに収まるようにしないといけないんだけど、それはそんなに簡単とは限らないんだ」とアンドレは明かしています
2人の人を溺れさせかけたアンドレ
『アンドレ・ザ・ジャイアント』のディレクターであるジェイソン・ヘアールは、映画ではカットされているショッキングなストーリーを、『ザ・ワープ』と共有しています。南部のビーチタウンに共に滞在していた、リック・フレアー、アンドレ、ダスティ・ローデス、ブラックジャック・マリガン。夜飲んでいると、マリガンが突然アンドレにパンチをお見舞いしました。
ジャイアントは、マリガンとローデスをつかんで外に引っ張り出し、2人を波で溺れさせようとしました。幸運にも、リック・フレアーが助けに現れ、アンドレを室内に戻るように説得。アンドレは、その説得に応じて、何もなかったかのように酒をまた飲み始めたと言います。
WWE殿堂入りの初期メンバー
1993年の彼の死後、WWEはWWE殿堂を作り、アンドレ・ザ・ジャイアントを讃えました。アンドレは、同リーグにおける初年度唯一の殿堂入りした人物で、授賞式は行われていませんが、彼の死後、『WWE・ロウ』で放送されています。
翌年、WWEは初の就任式を開催。このイベントの間、コメンテーターは、アンドレ・ザ・ジャイアントの就任に対してもコメントしています。テレビで放送する予定ではなかったものの、凝縮版が2015年にWWEネットワークで放送されました。この番組の中で、アンドレの得意技である、シットダウン・スプラッシュとダブル・アンダーフック・スープレックスなどの映像が放送されています。
トレードマークの黒いシングレットは、黒い装具を隠すため
先端巨大症と長年に及ぶレスリングによって、肉体的に破壊されたアンドレは、1986年に手術を行います。レスリングを行い続けるためには、体を支える装具が必要でした。彼は、トレードマークのシングレットの下に、リングでの動きを制限するサポーターを隠していました。
皮肉にも、アンドレの有名な試合のいくつかは、キャリア後期のものです。『レッスルマニアIII』での対ハルク・ホーガンのタイトル獲得マッチは有名ですよね。試合を気を付けて見てみると、アンドレの動きがかなり制限されていて、若い時の派手な技ではなく、基本的な戦いの動きに忠実に頼っていることがわかります。
無効になったWWEのタイトル
1988年、ワールドチャンピオンシップのタイトルを賭けてハルク・ホーガンと対戦し、勝利したアンドレ・ザ・ジャイアント。残念ながら、この試合はアール・ヘブナーによって不正を行してしまいました。アンドレは、1分後にタイトルベルトを返還させられます。その後、タイトルは該当者なしとなり、アンドレが公平に挑戦できるような機会は、与えられないままとなりました。
『レッスルマニアIII』は、スポーツ界の中でもかなりの観客を集めています。 アンドレの趣向を凝らしたタイトルマッチということで、2月4日には3300万人がNBCで試合を観戦したとされています。
対戦相手に屁をかますことを楽しんでいたアンドレ
多くの男性同様、オナラのジョークを愛したアンドレ・ザ・ジャイアント。ジェイク・ロバーツとの試合では、アンドレは、ロバーツの顔に座って、おならをぶちかましました。その匂いは少なくとも30分は消えなかった、と後に話すロバーツ。「ジャイアントのオナラは、異常な時間持つんだ」
リングでの放屁だけが、アンドレの対戦相手へのいたずらではありません。長髪の人の髪を踏みつけるのも、アンドレのお気に入り。最大のテクニックは、自分のシングレットに染みた汗を、相手の顔に絞ってかけることでした。
1日7,000カロリーほど飲むことが出来るアンドレ
パワーリフティングのオリンピック代表であるテリー・トッドは、かつてアンドレ・ザ・ジャイアントと良い飲み仲間でした。その彼によると、アンドレと同じ量の酒は飲むべきではない、と早い段階から気づいたそうです。トッドは、アンドレが一日7,000カロリーほどのアルコールを摂取するのを目撃してきました。
1981年、トッドは、普段のアンドレなら、ビールケース丸ごと全部を飲み干せた、と回想しています。2本のワインも造作なく飲み干していました。デザートには、8つのブランデーショット。2度目のデザートは、少なくとも6杯のカクテルトッドを頂くそうです。
アルコール依存症なのではなく、痛みに耐えていたアンドレ
先端巨大症に苦しんでいたアンドレにとって、痛みのない生活を送ることは出来ませんでした。成長が止まることがない彼の体。背中にかなりの重さを抱えていた彼は、常にかなりの痛みに悩まされていました。何度が手術を行ったものの、これほどの大男に薬を処方するなど、前例がなかったのです。
痛みに耐えるために、アンドレ・ザ・ジャイアントは、お酒を口にしました。これはかなりの量です。そうこれが、アンドレにとって唯一の痛みを和らげることが出来る方法だったのです。驚くべきことに、実際に酔ってしまうことはほとんどありませんでした。『プリンセス・ブライド・ストーリー』のセットでは、遅れたことも、ろれつが回らないということも、セリフを忘れてしまうということもありませんでした。
お酒に関しては、ゴミ箱級の欲求があったアンドレ
今までに触れてきたように、アンドレには、かなりの量の酒を消費する生まれつきの才能がありました。70年代のテキサスでのアマリロのツアー中、若きレスラーのテッド・デビアスは、アンドレを満足させろ!という課題を託されます。そこで2人は、一緒にバーへ向かいました。
デビアスは、テーブルにウェイターさんが近づいてきて注文をたずねたときのことを、『CBSスポーツ』に次のように語っています。「アンドレは、ゴミ箱はあるかって聞いたんだ」と思い出すデビアス。「"はい、たくさんありますよ"ってウェイターが答えたんだけど、アンドレは、"ゴミ箱を空にして、ビールと氷を注いでくれ"って言ったんだ。店員は俺を見て、"冗談ですよね?"と言ったんだけど、結局注文通りにしてくれたよ。ゴミ箱に2~3ケース分のビールを流し込んでね」。
1989年に「恥辱レスラー」に挙げられたげられたアンドレ
WWEのキャリア後期には、すべての功績を欲しいままにしたアンドレ・ザ・ジャイアント。彼のトロフィー棚は、『レスリング・オブザーバーズ・ニュースレター』が、アンドレを「恥辱レスラー」に挙げた1989年、遂にコンプリートされました。これは、アンドレが行った恥ずべき事に対して贈られた賞ではありません。対戦相手に恥ずかしい思いをさせた彼の戦いを讃えている賞です。
最も恥をかかせた相手が、デーモン。ある試合の前、アンドレは、リングサイドで子どもたちのためにサインを書いていました。そこを突然襲った、デーモン。しかし、アンドレはデーモンのマスクをつかんで、リングの反対側に投げつけます。デーモンは、慌ててタオルで顔を隠して、リングを去って行ったそうです。
パリで父親の葬式に参加したのち亡くなったアンドレ
1993年、パリから連絡を受け、父親の健康状態が悪化していることを知らされた、アンドレ・ザ・ジャイアント。当時、アンドレの健康状態も、急速に悪化していました。そして、父親の葬式に参加した直後、ホテルで眠りにつき、帰らぬ人となりました。わずか若さ46歳で永眠。
公式な死因は、うっ血性心不全。何年にも渡る耐え難い痛みと大酒飲みが祟り、アンドレの心臓は白旗を挙げたのです。死後は火葬を希望していたアンドレですが、彼の遺灰は生前の彼の大きさを思い起こさせる量で、7.1キロにもなったそうです。
埋葬場所
アンドレの家族は、パリの亡くなったばかりの彼の父親のそばに、アンドレの骨も埋葬しようと計画していました。しかし、彼の遺書には、はっきりと火葬されたいと書かれていたのです。家族がアンドレほどのサイズに対応できる火葬場を見つけるには、2週間を要したとされています。アンドレの葬儀は、パリで行われたものの、家族は彼の遺志を尊重して、灰をアメリカに持ち帰りました。
アンドレの遺灰は、かつての住まいであるノースカロライナ州のエラーブの自宅の家に埋葬されています。彼の相続受取人は、娘のロビンでした。
ワシントン・レッドスキンズからお声がけ?
1975年、ディフェンスに悩んでいたワシントン・レッドスキンズ。そこで、世界で最も大きなアスリート、アンドレに声をかけたということです。彼はトライアウトを受けるように誘われました。
レッドスキンズは、承認を得るためにWWEのオフィスにも連絡を入れ、ワシントンで記者会見まで行いました。アンドレとビンス・マクマホンが記者会見に参加したものの、アンドレがトライアウトを受けることはありませんでした。その年、アンドレは、WWEチャンピオンシップをものにします。
『プリンセス・ブライド・ストーリー』のキャスティング
レスリングのファンでない人も、カルトクラシックの1987年の映画、『プリンセス・ブライド・ストーリー』でのアンドレを大絶賛。アンドレは、愛嬌のある巨人のフェジックを演じています。しかし、元々プロデューサーたちはこの役に、野球選手をキャスティングしようと考えていたそうです。
『ザ・ワープ』の中で、ジェーン・ジェンキンスは、キャスティングのプロセスについて明かしています。「このフェジックというキャラクターは、どういうものなのかしら?野球選手を探せばいいかしら?」と思案した彼女は、原作者に質問を投げかけたのです。そして帰ってきた答えが、『アンドレ・ザ・ジャイアントにしてくれ』でした。
この役にピッタリな他の候補者は?
『プリンセス・ブライド・ストーリー』にピッタリな巨人を探す間、キャスティングディレクターのジェーン・ジェンキンスは、ロスの街並みで見かける背の高い人すべてをよく観察したと話します。ドアにぶつからないような人は、小さすぎるというのが彼女の基準。
他にも候補者がいたものの、プロデューサーはアンドレを選択。しかし、映画のリハーサル時、彼はすでに日本で何百万ドル規模のレスリングの試合を控えていました。ところが、運命のいたずらでしょうか。彼の試合はキャンセルされ、アンドレは、パリでジェンキンスや他のキャスティングスタッフに会うことが出来たのでした。
ジャイアントガス
すでにお話しした通り、アンドレ・ザ・ジャイアントはおならをかますのが大好き。レスリングのキャリアだけでなく、俳優活動をしていた時もこの「趣味」は続きます。『プリンセス・ブライド・ストーリー』の30周年記念同窓会の際には、共演者のケイリー・エルウィスが、このストーリーをABCと共有しています。
撮影1日目、キャスト全員がリラックスしている際に、アンドレは「16秒間に及びオナラをして、製作チームを一時停止」させました。3つ先の州まで聞こえるくらいの音量だったそうです。「ロブ・ライナー監督以外、誰も何も言わなかった。監督は、"アンドレ、大丈夫かい?"って聞いたんだけど、アンドレは、"今から俺がボスだ"って答えたんだ。すでにそんな冗談が言えるくらいリラックスしてたのさ!」
飛行機のウォッカの在庫を飲み干したアンドレとリック・フレアー
アンドレのレスリング仲間は、彼に関する飲酒話を尽きることなく抱えています。自身の自伝、『リック・フレアー自伝トゥー・ビー・ザ・マン』の中で、リック・フレアーは、2人が日本からシカゴへ移動していた時のことを話しています。
「彼とシャーロットのダウンタウナーにいたんだ。1975年で、アンドレは106杯のビールを飲んだ。当時の彼のマネージャーのフランク・ヴァロワは、56杯….. あと、アンドレと一緒に東京発シカゴ行きのボーイング747に乗ったんだ。俺たちは一緒に飛行機のウォッカを飲み干したんだぜ」
巨大な指を持っていた?
もちろんアンドレには、巨体にあった大きな指が必要ですよね。彼の指はかなり大きく、ピアノを弾くなどという行為はもっての外だったそうです。なぜなら指1本で3つの鍵盤に触れてしまうためです。
アンドレの指輪は巨大で、輪の中に1ドル硬貨が入ってしまうほど。リングではこの巨大な指をいかしていました。2011年のハルク・ホーガンのインタビューによれば、アンドレは試合中に親指の一つを対戦相手の肛門に差し込もうとすることがあったということが明らかになっています。
番犬も怯えるアンドレ
身長2.1メートル、体重227キロの体形を考えれば、アンドレ・ザ・ジャイアントほど恐ろしい人はいないですよね。ロジャー・センバジアは、訓練を受けた番犬がアンドレを目にした途端慌てて隠れた、というエピソードを覚えていました。
『スポーツ・イラストレイテッド』誌に、笑いながら次のように話しているアンドレ。「この犬たちは意地悪でなきゃいけないはずだろ…犬は俺のことを一度見て、逆方向に一目散に逃げて行ったんだ」そびえたつ大男を前にしては、犬のことも責められませんよね。しかし、実生活ではアンドレは脅威なんて持ち合わせていませんでした。ただ、かなりの大酒飲みだったことは確かだったようです。
いたずらで友達の車を持ち上げたアンドレ
悪ふざけが好きだったアンドレ・ザ・ジャイアントのお気に入りのいたずらは、相手が見ていない時にその人の車を勝手に動かすというもの。しかし、それは車に乗り込んで、走り去るということではありません。アンドレは、車を持ち上げて違う場所に動かしてしまうんです。きっとそれは、アンドレが乗れないような車を所有していた友人たちに対する、仕返しだったのでしょう。
アンドレ・ザ・ジャイアントは、一体どこへ車を動かしたのか?それは、アンドレがどれだけおふざけをしたい気分かによって、左右されます。車の向きをちょっと変えるだけの時もあります。いたずらしたい気分が強い時は、街灯とビルの隙間の狭い空間に車を置いていたそうです。
奇跡の子をもうけたアンドレ
先端巨大症を患っている多くの場合、無精子症である可能性が高いです。しかし、その困難に反して生きたアンドレは、1979年、娘を授かりました。彼が逝去した際、娘であるロビン・ロシモフは、アンドレの不動産をすべてを相続しています。生前、様々な場所に飛び回っていたアンドレは、あまり娘のことを知る時間がありませんでした。
あるとき、父親と時間を過ごすことになったロビンは、なんと土壇場で逃げ出してしまったそうです。それは、10歳の時、ノースカロライナにある農場に来るようにアンドレが招待した日のことでした。よく知らない巨人と遊ぶことに怖くなったロビンが、そこに行くことは結局ありませんでした。しかし、後にも先にもこれが、ロビンが父親を知るための唯一のチャンスだったのです。
有名だったQVC(テレビショッピング)中毒
アンドレの人生の楽しみの一つが、『QVC』のテレビショッピングで買い物をすることでした。晩年、ノースカロライナで多くの時間を過ごしたアンドレは、このテレビショッピング番組に病みつきになってしまいました。家でショッピングすれば、公共の場で人目を引く心配もありません。アンドレは、街中で注目を集めてしまうことが嫌だったのです。
カスタムメイドのリクライニングチェアに何時間も座って、必要かどうか分からないものを『QVC』で購入していたアンドレ。彼は、特に家族や友人のためにお金を使うことが大好きでした。彼は、ディナーのお勘定は、常に自分が支払うようにしていました。
ご飯をおごられて、ターミネーターを持ち上げたアンドレ
受け取るより与えたい性格のアンドレ・ザ・ジャイアントは、アーノルド・シュワルツェネッガーとウィルト・チェンバレンとの会食で怒ってしまいます。なぜなら、アーノルドがこっそり抜け出して、お会計を済ませてしまったんです。そこで車に戻って歩いていくときに、仕返しを思いつきました。
アーノルドの車の前まで行くと、アンドレは、アーノルドを持ち上げて車に乗せたんです。アーノルドより30センチも高いアンドレにとっては、こんなこともお手の物!「I'll be back」とあの名台詞を吐いて、アーノルドは去って行ったんですかね?
酔って意識を失って、ホテルスタッフがアンドレの周りに赤いロープを設置
『プリンセス・ブライド・ストーリー』の初のテーブル読みの後、アンドレはお酒を飲みすぎて、ホテルのロビーで寝てしまいました。共演者のケイリー・エルウィスによれば、この事件は、アンドレとの泥酔ストーリーの序章でしかなかったのです。
エルウィスは、アンドレ・ザ・ジャイアントが良く『アメリカン』を飲んでいたと話しています。このカクテルには、様々なお酒が混ざっていて、これを一度に何杯も口にいていたアンドレは、問題の夜、それを飲みすぎて、意識を失ってしまったそう。249キロの巨漢を動かすことが出来ず、ホテルの従業員は、アンドレの周りにロープを設置。これで他のお客に踏まれないようにしました。
コミックに最適だった人生物語
アンドレへの一般人からの関心は、死後もおさまることがありませんでした。その人気により、彼の素晴らしい人生にインスパイアを受けた、2つのコミックが存在します。ボックス・ブラウン作の『Andre the Giant: Life and Legend』 は、2014年に発売。ブランドン・M・イーストンによる『Andre The Giant: Closer To Heaven』は、2016年に発売されています。
ボックス・ブラウンは、グラフィックノベルは、アンドレの人生のようなユニークなストーリーには適している、と話しています。「アンドレのストーリーに取り掛かっているとき、かなり慎重になったよ。アンドレの気持ちになろうとしたんだけど、あれほどの素晴らしい人生を考えると難しかったよね」
いつも舞台を見たかったアンドレ
彼が人生でしてきたことの中で、アンドレがやっとことのないことなど、ほとんど存在しませんでした。信じるか信じないかは別として、彼はよくブロードウェイの舞台を見たがっていました。
結局見ることがなかった理由は、彼が思いやりのある人だったためです。体の大きさから、舞台を見に行くことで他の観客が見えなくなってしまうことを心配したアンドレ。他人に迷惑をかけたくない、という彼の行いは、アンドレがフレンドリーで思いやりのある人間であったことを証明してくれます。