40年間放置された農場の家屋、そこで見つかった真実とは
それぞれ家には、何かしらの歴史があるものだ。そうした歴史を持ちながら、毎日家族やゲストを迎える家もあれば、長年、手入れされることなく放置されてしまう家もある。そして、こうした家の歴史は語られることもなく、雑踏の中に埋もれていってしまうのだ。そう、今回ご紹介するのも、40年もの間、放置されていた家屋の物語だ。
この家の歴史を紐解いたのは、ブライアン・サンシヴェロ。彼は、特別に許可を得て、この放置された家屋に入り、その歴史を記録することにした。サンシヴェロが、その家屋に一歩を踏み入れたとき、彼はその予想外の出来事に驚いた。あなたもその事実を確認する準備はできているだろうか?
時間がさかのぼるような感覚
廃屋など放置された場所を専門に撮影するブライアン・サンシヴェロは、まず、この農場内の家屋が一般の人々の目につきにくくなっていることに驚いた。「家がうまく隠されていることに驚きました。茂みの多いコミュニティに囲まれているのです。近辺に住む人々でさえ、ここに家があることを知らなかったのです。」と語っている。
また、サンシヴェロは、これまでに見てきた家と比べても、この敷地に一歩足を踏み入れると、まるで昔に戻ったかのような感覚になると述べている。この素晴らしい廃屋の写真をさらに見てみよう。
かつての美しい外観も、今や崩壊寸前
長い間自然にさらされ、手入れされていないために、かつては印象的だったであろうビクトリア様式の家は、至るところが朽ちていた。写真は、1860年に建てられた母屋の玄関だ。軒樋は落ち、柱も倒れてしまっている。
9エーカーもある敷地には、燻製小屋やガレージ、屋外トイレ、搾乳小屋、馬小屋、馬車置き場、羊小屋の他、4つの小屋がある。サンシヴェロは「私の撮影した写真がどうにかして、この美しくて歴史的にも重要な家を修復するきっかけになればと願っています。」と語っている。
ニューヨーク州コマック
この農場はニューヨーク州サフォーク郡のコマック村落にあった。かつてそこに住んでいたアメリカ先住民セカトーグが名付けたコマックは「国勢調査指定地域」だ。合計12平方マイルの面積を持つこの地域は、豊かな土壌と森があることで知られていた。
今日では、ほとんどすべてのエリアが郊外化されており、こうした時代の背景も手伝って、このマリオン・カール・ファームの敷地がひときわ、独特なものになっている。この農場の歴史は1701年にまでさかのぼる。つまり、家屋はアメリカの南北戦争が始まる少し前に建てられたのだ。
長年の放置でボロボロとはいえ、中にはお宝がいっぱい
サンシヴェロは、コマック地区教育委員会に許可を得て、このマリオン・カール・ファームを数回にわたって撮影している。「ここに来るたびに、新たに何かを発見するんです。ここには高価な骨董品がいっぱいです。」と述べている。
この家には歴史を刻んだ価値のある骨董品が、いくつも眠っているようだ。それらは今、この家から持ち運ばれて然るべきところで保管されているが、サンシヴェロによって撮影されたこの貴重な写真から、長年放置された廃屋の中がどのようになっていたのかが見て取れる。
マリオン・カール
マリオン・カールとは誰なのだろう。カール女史は代々この地域の名士で、教師としても尊敬されていた。また、カール女史はこの地域で初めてとなるPTA(保護者と教師の会)を作り、1957年、この地域の小学校には彼女の名前が付けられた。
カール女史の人生において、教育は重要な意味を持っていた。そのため、教育ならびに歴史的研究を目的とする場合に限って使用を許可するとして、自身の資産をコマック地区教育委員会に残したというのも納得できる。ベッドの上に残されていた刺しゅう入りの靴は、おそらくカール女史のものだろう。
カール女史、過去を保存しようと試みる
マリオン・カールは歴史愛好家として、できる限り自身の家屋が持つ19世紀の特徴を残そうと考え、モダンな作りに改装することはしなかった。結果、この敷地内には年代物のアンティークが多く残された上、歴史の重みを感じさせてくれる。
「この家屋は、40年前にマリオン・カールが他界したときからずっと放置されていたとはいえ、まるで彼女が100年前の世界を生きていたかのような印象を受けました。」とサンシヴェロは述べている。
ウォルト・ホイットマンとの繋がり
これらは、カール家の家族を記録した写真の数々だ。ケリアン・フラナガン・ブロスキーが著した、郷土史を記録本「ハンチントンの隠された過去」にて、この家族の資産に関する面白い情報が公開されている。
「コマック・ロードから少し入ったところにある、この土地には、元々、アメリカ先住民のセカトーグ部族の人達が住んでいました。1698年から残されている記録によると、先住民はこの土地をジョン・スキッドモアとジョン・ホイットマンに譲渡しました。ジョン・ホイットマンは、詩人ウォルト・ホイットマンの5代前の祖先にあたる人物です。」
階段の危険
この主階段は、1860年に家が作られたときには壮観だったことだろう。この家には地下に繋がるもう1つの階段があるが、そちらの方の階段の保存状態は良くないと、サンシヴェロは報告している。
「地下に一度だけ足を踏み入れました。しかし、そこで写真は撮影できませんでした。私たちが階段を上がって戻るときに、その階段は崩れていったのです。」とサンシヴェロは説明している。古く美しい廃屋は、探索には危険を伴うこともある。
居間から息をのむほどの発見
もし積もり積もった埃やがれきがなければ、この部屋はまさに、マリオン・カールが生前に住んでいたときのままのようだ。飾り彫りが施されているピアノは、長い間、美しい音色を奏でていたに違いない。
技術の進歩によって、ラジオなど音楽を再生する機器がもたらされるまで、ピアノのような楽器は家庭内や社交の場での娯楽に大きな役割を果たしていた。誰かがピアノを上手に演奏して周りに家族が集まり、音楽を楽しんだり、一緒に歌ったりして、楽しいときを過ごしていたに違いない。
歴史的な遺物がずらり
家の中の様々な家具の上に置かれている様々なガラス瓶。こうした年代物のガラス瓶は、昔の珍しいものを集めたいコレクターには垂涎ものだ。薬の入った薬瓶もあれば、オリーブオイルのような一般的な家庭調味料などが入ったものもある。
左手前に見える冊子には「第33回海に囲まれた州のトーナメントプログラム」と題されている。この大会の開催者はアメリカ国際鉄砲協会で、第33回は1926年に開催されている。
時は止まったまま
クモの巣が絡まっている目覚まし時計は、2:54でその針を止まったままだ。そして、その隣にあるガラス瓶は、当時の一般的な家庭用洗剤C.C.パーソンズの家庭用アンモニアだ。
たとえ骨董収集のためカール女史の家屋を探索したいと願っても、残念、うまくいきっこない。というのも、サンシヴェロが家の中を記録した後に、家屋に残されていた物は運び出されたからだ。「今ではすっかり貴重な物は運び出され、警備員と防犯カメラが配備され、常に監視されています。」とサンシヴェロは言う。
屋根裏部屋にはクリノリンのペチコート
カール女史の家には地下室があっただけでなく、屋根裏に収納スペースまで備えていた。ここには寝台まであるため、おそらくお手伝いさんの寝室として使われていたのだろう。
壁に取り付けられたフックには、(スカートをドーム状に広げるための)スチール製ケージとクリノリンペチコートが吊るされている。こうしたスタイルのアンダースカートは、1856年4月に初めて特許が取得されてから、ヨーロッパや北アメリカ中で瞬く間に人気となった。長い年月が経っていることを考慮しても、これらの状態は比較的良いようだ。
過去を映し出す、当時と変わらないもの
カール女史の家に飾られた造花は、年月の割にはよく持ちこたえているようだ。色もまだ鮮やかで、当然だが、しおれていない。花の横に置かれたティーカップなどは、今にも誰かが手を伸ばして飲もうとするのを待っているかのようだ。
布張りの家具は、長い年月に耐えられなかったようだ。かつては居心地がよく、お茶を楽しめるような空間を作りだしていたのだろうが。こうした光景こそが、ブライアン・サンシヴェロのような写真家に「これまでに見てきたどの家と比べても、この家は、まるで過去に足を踏み入れたかのような気持ちにさせる」と言わせしめる理由なのだ。
生涯にわたって教育者だったカール女史の机
これはマリオン・カールの机だろう。1885年にこの家で生まれ、幼い頃に教室が1つしかない学校に通った。カール女史はジャマイカやクイーンズの高校に行き、その後、コマックに戻ってからずっと教鞭を執った。
カール女史はよく生徒らを家に招いては、郷土史や農場での生活について学ぶ機会を与えていたようだ。コマック小学校は、1957年にマリオン・E・カール小学校と名前を変えた。ご存知の通り、カール女史はコマック地区教育委員会に気前よく、この農場を遺贈している。
敷地内に複数ある小屋
この9エーカーの農場には、屋外トイレ、ガレージ、燻製小屋、搾乳小屋、馬車置き場、馬小屋、羊小屋の他、4つの小屋があった。
この写真は、これらの小屋の1つの内部だ。ブライアン・サンシヴェロは、小屋にある年代物の農具を見ると、実際に稼働していたこの農場の歴史を垣間見ることができると述べている。マリオン・カールの遺言には、農場にある小屋はすべて「歴史資料館」として保存してほしいと、具体的に書かれていた。
金庫に残されていたもの
カギのかかった金庫は、中身は一体何なのかと、好奇心をかきたてるものだが、この古びた金庫もまた、例外ではない。この金庫は、1800年代に設立された、シンシナティに拠点を構えるホールズ・セーフ社によって作られたものだ。
この金庫には「口腔外科博士 A.J.マッカーシー」と名前がエッチングされている。この名前をインターネットで調べてみると、彼は、ニューヨーク州立大学バッファロー校歯学部の教授だったようだ。どのようにして、マッカーシー教授の金庫がカール女史の農場にたどり着いたのかについては、謎のままだ。
家中に設置された暖炉
セントラルヒーティング・クーリング(集中冷暖房)が開発される以前、昔に建てられた家では割と一般的なことだが、カール女史の家にも複数の暖炉が設置されている。この写真にある、部屋の真ん中に大理石で作られた暖炉のように、ほとんどの暖炉の状態はとても良い。
この暖炉は、寒い冬の夜、隅に座って本を読んだり、誰かと話をしたりする人を温かく迎えたことだろう。後ろにある壁紙が剝がれているのさえなければ、カール女史の生前、この部屋がどんな様子だったのかについて、よく分かるだろう。
「骨董品が…至るところに転がっている」
サンシヴェロは「この家が他の家と決定的に異なるのは、そこかしこに歴史を感じさせるものがゴロゴロ転がっているところ」と述べている。「どの部屋にも、この美しい青と白の瀬戸物一式のように、状態の良い宝物が何か見つかるんです。」
このキッチンには、他にもアルコールランプややかんなど、歴史的にも貴重なものがある。しかし天井はすでに剝がれ落ちてきており、じきに天井すべてが崩れ落ちてきそうだ。
家の中でも保存状態がいいところもある
屋根裏部屋を上記でご覧いただいたが、家の二階部分にある廊下の写真がこれだ。ここもおそらく収納と、お手伝いさんの居住スペースとして使われていたのだろう。
天井全体が崩れ落ち、壁も退色し、ガラクタが床を覆って雑然としていながらも、この長年使われていない廊下には、当時を知る手がかりが多く残されている。
他の暖炉もよく見てみよう
この部屋には、保存状態の良い暖炉の炉棚の上に、ドレスを着た女性がじっと見つめている肖像画が置かれている。さらに2枚の肖像画がその隣に飾られている。左手は子どもが、右手は子どもと犬が写っている。
炉棚のティーカップも、まるで誰かが今まさに、何かのついでにちょうど置いたかのようだ。この写真には、ランプのコードが少し写っているが、電気は、カール女史が生前享受した、数少ない文明の利器の1つだ。
米国国家歴史登録財に登録される
敷地内の家屋などがかなり朽ちているにもかかわらず、マリオン・カール・ファームは1979年に米国国家歴史登録財に加えられた。米国国家歴史登録財には、現在100万件以上もの資産が登録されている。
これに登録されるためには、資産は以下の4つの基準のうち、少なくとも1つを満たしていなければならない。それは、アメリカの歴史の大きな流れに寄与するものであるのか、アメリカ史における偉人と関連しているのか、独特の建築的性質を有しているのか、または「前史または歴史に重大な情報をもたらす可能性がある」のかといったものだ。
古い写真から得られる歴史的な手がかり
カール家の写真から、農場に住む人々について詳しく見ることができる。確認できているわけではないが、服装からも、カール家の人々が裕福だったということが見てとれるだろう。
「こうして多くの写真や書簡を見ていると、カール家の歴史や、昔、どのような暮らしをしていたのかなどを垣間見ることができます。」とサンシヴェロは言う。これらの貴重な写真は、部屋のテーブルの上に広げられていたが、今は運び出され、安全に保管されている。
昔ながらの道具
「カール女史の遺言を履行し、遺産を修復し、持続的に管理する」ことを目標に掲げる非営利団体のマリオン・カール・プリザーブ(保存会)によると、この敷地内で使われているユーティリティは、電気、石油暖房、浴室2部屋(水やお湯)のみだという。
この写真では、寝室の化粧台の上に、水差しと受け皿が置かれているのが見える。これらは、水道水が使えないときなどに、水を貯めたり、洗ったりするのに使われていた。カール女史の家は、正に昔の生活を見ているような気持ちにさせる。
かつての農場で使われていた移動手段
この写真は、カール家の農場にいくつかある小屋のうちの1つだ。そりと荷馬車が置かれているが、かつては馬にひかれていたものだろう。そりの左手前に写っているのは、木製のすきだ。
かつて乗り物として使われていた歴史的に重要なこれらの遺物は、小屋で見つかったその他の道具のように、かつて農場として機能していたこの敷地内で、様々な小屋がどのように使われていたのかについて、教えてくれる。
過去を映し出してきた鏡
家のリフォームを取り上げたテレビ番組がアメリカで人気となり、あちこちで合いじゃくり板を使った壁パネルが使われるようになって久しいが、それよりもずっと前には、壁には下見板を使うのが一般的だった。下見板は通常、オーク材から切り出されており、ニューイングランド地方では、このカール家の洗面所のように、一般的には縦方向に張られていた。
金色の額縁で飾られたこの鏡が、これまでに何を映し出してきたのかは、この家のみが知っている。そして、これは誰にも語られることのない秘密だ。
洋服が市販される前には
これはカール女史のミシンだ。使ったそのままの状態で残されていた。マリオン・カール・ファームにはいくつか小屋があるため、この写真にある羊毛は、おそらく飼育していた羊から取られたものだろう。
家中で人台(衣服の型付けに使われる人体の模型)が見つかったことから、どうやらカール女史は、熱心に洋服を仕立てていたようだ。ここにもコードのついたランプが見える。電気の灯りで、カール女史は暗くなっても裁縫を続けられたことだろう。
ハンプレイズ30という薬
空の薬瓶や家庭用洗剤の瓶などが、家のあちこちに置かれていたが、暖炉の棚を接写すると「ハンプレイズ30」と呼ばれていた薬が入ったガラス瓶が見える。ラベルを読んでみると、この薬は「膀胱や夜尿症などに効果がある」そうだ。
ニューヨークシティに拠点を置くこのメーカーは、コレラにかかって消化不良を起こしている動物のホメオパシー治療薬としての薬#6や、その他の調合薬も製造している。
読み物の山
マリオン・カールのような教育者であり、かつ歴史学者でもある人が読書家であるのは当然のことだ。家中のあちこちに本棚が置かれている。この棚は、カリフォルニア州サンフェルナンドにあるサンフェルナンドハイツ・オレンジ協同組合の「スプレンダー・サンキストオレンジ」が入っていた木箱から作られている。
使いこまれた辞書、政府についての書籍、現代ヨーロッパ人と題した本などなど、様々な本が積み上げられている。置かれてきた環境を考慮しても、ほとんどの本の状態は良い方だと思われる。
ガラス瓶をもっとよく見てみよう
年代物の色々なガラス瓶をよくよく見てみると、驚くべきことが明らかとなった。この瓶のうちの1つは、なんと、現在でも購入可能なフィリップスのマグネシウムミルクの瓶なのだ!このマグネシウムミルクは、便秘や胸焼け、吐き気、胃のむかつき、消化不良全般に効果があるとされている。
「マグネシウムミルク」という言葉を初めて使ったのは、イギリス人薬剤師のチャールズ・ヘンリー・フィリップスで、1872年のことだ。チャールズの死後、彼の息子が数年会社を経営していたものの、1995年以降、バイエル社がその商標を所有している。
もう1つの貴重な電化製品
カール女史は電気照明を使っていたが、この写真は、彼女が利用していたもう1つの文明の利器を写している。卓上扇風機だ。おそらく廊下だろう、ひどく染みのついた壁紙の前に取り付けられたコンソールテーブルの上に置かれている。
さらに、この写真からは数冊の本と新聞紙も見てとれる。大きめの緑色の本はローランド・ジョンズとレナード・テイラー共著の「Dogs for Profit(利益を生む犬)」、もう1冊は、著者ホイットニーとだけ書かれた「繁殖の基礎」という本だ。
その他のブライアン・サンシヴェロの写真を見たい場合には、彼の公式ウェブサイト(www.bryansansivero.com)やインスタグラムのページをご覧ください。
キュリオ・キャビネットにも、骨董品がたくさん
この上の戸棚にある時計とガラス瓶を接写した写真はすでにご紹介したが、このキュリオ・キャビネットには、様々な興味深い骨董品が並んでいる。陶磁器で作られた馬や、ウサギ、それからたくさんの薬瓶がある。残念ながら、ラベルの多くはボロボロになっているため判読できない。
棚の下には、地図や「カークマンズ」とラベルのついた木箱が置かれている。木箱の中で見つかった小さめのガラス瓶には、塩や胡椒などの調味料が入っていたのだろう。
熱心な裁縫師
マネキンに着せられたブラウスと、箱に入ったたくさんのミシン糸が、カール女史が使っていた主寝室で見つかっている。家の至るところから見つかった洋服やミシンに使う道具などを見ても、彼女がとても裁縫上手だったことが分かる。
長年さらされていたために色があせているが、このシャツの全体に刺繍や装飾が施されている。こうした装飾は、明らかに熟練者が施したものだ。そしておそらく、カール女史は自分でこのブラウスを着用していたのだろう。
ダイニングルーム
この家のダイニングルームだ。すべて家具が揃っている。左から瀬戸物の食器がおさめられている食器戸棚、カール女史の机、予備のイス、そして物が置かれたままの食卓が見える。
右手に見えるモダンなごみ箱は、誰かが家を片付けようとしていたのだろうか、もしくはあちこちに見られる雨漏りの水受け用にと誰かが置いたのだろうか。この敷地は一般には公開されていないため、このごみ箱を運んできたのは、家に入れる許可を得た誰かの仕業だろう。
歴史に囲まれて
カール女史の歴史に対する愛は、毎日の生活においても見受けられた。1952年3月30日付で発行された「ノースポートジャーナル」は、カール女史が農場で主催した出来事について詳しく取り上げられていた。
「マリオン・カール女史を囲んでコマック委員会の300周年が木曜日の夜に開かれた。多くの興味深い骨董品が展示され、昔話に花が咲いた。」カール女史は、地元の小学生を農場に招いて、郷土史や農場についてを教えていたことでも知られている。
カール家についてもう少し詳しく
この地域の文化遺産の保護を専門に行っている非営利団体、「ロングアイランドの保護(プリザベーション・ロングアイランド)」によると、この写真は1950年代のマリオン・カールを撮影したものだという。同団体のウェブサイト上には、カール女史とその家族について、もう少し詳しく情報を載せている。
「カール家はロングアイランドにて代々住んでおり、マリオンの祖先ティモシー・カールは、オランダ人入植者であるヴァン・コートランド家から1706年にサギティコスマナー(現在は歴史的建物となっている家)を購入した。カール家がハンチントンの地域社会で地元の名士として代々続いていた一方で、サギティコスマナーの所有権はやがて、セタウケットのトンプソン一族に渡り、その後はガーディナー一族に渡った。」
2011年「危機にさらされている史跡」にノミネートされる
2011年、非営利団体のロングアイランド骨董品保存会は、毎年更新している同会の「危険にさらされている史跡リスト」に、4件追加した。マリオン・カール・ファームはそのうちの1つだ。ロバート・C・ヒューズは、コマック近くのハンチントンの歴史学者だが、マリオン・カール・ファームを推薦し、この史跡について、ニューヨークタイムズ誌に次のように語っている。
「敷地内の建物ばかりではなく、その中身までもが、素晴らしいタイムカプセルのような史跡です。この史跡はもっと注目されるべきだし、保存のための資金を確保すべきです。」
農場の今後
コマック地区のコミュニティ活動代表を務めるデビー・ヴァーガは、マリオン・カール・ファーム委員会は教育委員会や地元住民と会合を開き、どのようにしてこの歴史的建物を保存するかについて話し合っていると述べている。ヴァーガは、コマックには広場が不足していることから、農場を市民公園として開放するのが理想的だとも話している。
シンシア・クラークは、カール農場を保護するために尽力している他の団体のメンバーだ。彼女が地元報道機関のニュース12に語ったところによると、提示されている提案が「マリオン・カールの遺志に沿った歴史的性質を保存する形ではないかもしれない」ことに懸念しているのだという。クラークの提案は「有機農場や教育センターとして機能させ、農場を修復した史跡として残す」ものだ。
ハンチントン史学会
マリオン・カールやカール家、またはカール家の素晴らしい歴史的建物について、さらに詳しく知りたい人は、近くにあるハンチントン史学会を訪れるといい。同史学会には、カール家についての歴史的情報を含む全2巻の本を所蔵している。
ハンチントン史学会のウェブサイトによると、「エドウィン・L・ソパー(1917-1990)が地域の家族やその繋がりについて情報をまとめました。ソパーは定期的に資料のコピーを寄贈していましたが、ソパーの死後、残りの資料はすべて資料館に寄贈されました。」とある。ソパーは地域社会に対するカール家についての本を全2巻にまとめたのだ。
ハンチントン史学会、歴史的な裁縫学校を所有
ニューヨークのコマック近くのハンチントンは、国内でもいち早く専門学校、ハンチントン裁縫・職業専門学校が設立された場所だった。ここでは若い子女に裁縫や家事を教え、地元の青少年に商業を教えていた。1905年に設立されたこの学校は、おそらくカール女史にも刺激を与えたに違いない。
2017年、有名な投資家ウォーレン・バフェットの姉で、慈善家のドリス・バフェットによる支援のおかげで、建物は改修された。そのため、現在ではハンチントン史学会の資料保管施設として機能している。
マリオン・カールの遺産
1960年代初頭、コマックの集落は急速に成長を遂げ、マリオン・カールの名を冠した小学校は閉鎖された。しかし、地元新聞スミスタウン・マターズにも書かれているように、彼女の残したものは、学校が閉鎖したからといって無くなるものではない。
「マリオン・カールが残したものは、マリオン・カール学校ではなく、地域社会への貢献、教育への献身、コマックや地域住民、マリオン・カール・ファームを愛する気持ち」であり、「それは、マリオン・カールが農場や最も大切にしたものをコマック地区教育委員会に託した、その気持ちなのだ。」と、同紙は述べている。
その他のサンシヴェロの写真については、インスタグラムのページをご覧ください。