行方不明だった囚人の男、ベトナムに住んでいたと訴える
1960年代後半から1970年代の初期にかけて起こったベトナム戦争の間、何千人もの兵士が国が分裂する紛争でアメリカのために戦いました。そして、これらの多くの兵士は、捕虜となったのです。
行方不明者と死者
不幸な人生を送った捕虜たちは、拷問や迫害による飢えを受け、時には殺されました。1975年に戦争が終わった時、捕虜の多くは解放されましたが、それでも、特殊部隊のグリーンベレー軍隊のジョン・ハートレー・ロバートソン軍曹を含む、多くの者は行方不明で、そのまま死んだと推定されていました。
しかし、実際には、ベトナムのジャングルで新しい生活を始めていたのです。そして、2008年に彼は発見されたのです。 しかし、彼の物語は、想像以上のものだったのです。
ヘリコプターの衝突によって生き残る
2008年の春、クリスチャンの宣教師であるトム・ファウンセは、地元の人々の井戸掘りを手伝うためにカンボジアに行きました。彼は、2回の勤務を乗り切ることができましたが、軍隊での勤務中に一緒に働いていた人が、彼ほど運が良かった訳ではありません。
ファウンセは、戦争の影響を大きく受け、彼の活力を宗教に向け、世界中の人々を助けました。1968年、ファウンセは、ヘリコプター墜落事故を乗り越えて生き残った男がいるという噂を耳にします。そして、その男は、ラオスに住んでいたようです。
結婚と姓名の変更
ファウンセは、多くの装飾が施されたアメリカ軍の緑のベレー帽が、ジョン・ハートレー・ロバートソンのものであることを見つけました。ロバートソンは、ヘリコプターの墜落事故で負傷した為、北ベトナム軍刑務所病院に送られました。監禁されている間、ロバートソンは彼の世話をしていた看護師と結婚しました。そして、ロバートソンは、看護師の亡くなった夫の身分証を盗み、南ベトナムに逃げました。
ロバートソンは、名前をダン・タン・ゴックに変更しました。とても信じられないような出来事に聞こえますが、ファウンセは、そうするだけの利益があったのだろうと言います。ストレスの多い状況に置かれた兵士たちは、異常な行動を取り、おそらく通常では起こらないような決断することがあるということです。
「彼はアメリカ人ではない、ベトナム人だ」
ファウンセは、彼の話を確認するために、ロバートソンに直接会う必要があったので、彼の家を訪問することにしました。彼が会った男は、非常に細く身長183cmで、薄毛のグレーがかった髪色でした。ロバートソンは、彼を家に迎え入れ、今に招待しました。
ロバートソンは、何故ファウンセが、彼に会いたがっていたのか知っていたので、心良く受け入れてくれましたが、妻はあまりいい顔をしていませんでした。彼女は、突然の訪問者にショックを受けており、ベトナム語で怒りながらこう叫びました。「彼はアメリカ人ではないわ!彼はベトナム人よ!」ロバートソンは、妻を脇に連れて行き、そして、彼は、なぜ彼女があんなにも怒っていたのかを、ファウンセに話し始めました。
CIAとの秘密の仕事
妻は、何年も前とはいえ、ロバートソンが刑務所から脱出したことがバレれば、家族にも影響が及ぶのではないかと心配していました。そして、ロバートソンは、数時間に渡って、軍隊での出来事を話し始めたのです。
ロバートソンは、アラバマ州の高校を卒業後、グリーンベレーに入社しました。彼は、空挺部隊として訓練を受け、1960年代半ば、彼は最高機密部隊であるCIAに召集され、北ベトナムの爆撃に携わりました。ロバートソンは、ラオスとカンボジアの機関と協力して、機密事項の多い捜査破壊偵察任務を遂行しました。
不運な任務
ロバートソンは、仕事には長けていましたが、1968年の南アジアジャングルの上を飛んでいたヘリコプターの火から逃げることは難しかった。ロバートソンは、中で立ち往生していたのです。しかし、不幸中の幸い、これが彼の命を救うことになったのです。
彼は、墜落後もかろうじて生き残りましたが、怪我の状態はよくありませんでした。重傷を追った彼は、ベトナムの病院に運ばれたのです。そして、そこで今の妻と出会いました。それからロバートソンは、ラオスの農村で、ベトナムの農民として、新たな人生を始めたのです。
帰宅
訪問の間、ロバートソンはファウンセに、実の家に戻った彼の家族について知っているか尋ねました。ファウンセは、彼の質問に答えることができませんでした。彼は、ロバートソンを助けたかったので、彼に米国大使館に出向き、彼の身元を確認してもらうために、指紋を取られるように伝えました。もし、ロバートソンが誰であるかを証明することができれば、また愛する家族と、再開することができるだろうと思ったのです。
しかし、これは2012年、映画製作者でエミー賞を受賞した、監督のマイケル・ジョルセンが、ロバートソンをカナダに連れて行くまで、実現しませんでした。しかし、その計画が実行された時、45歳で亡くなったと言われていた兄に、会いたがっていた姉と再会することができたのです。
ロバートソンのうろ覚えの記憶
ヨルゲンセンは、2013年のカナダのドキュメンタリー映画「元特殊部隊のグリーンベレー」について未発表の事実の脚本の執筆、監督、政策を行いました。その中で、ファウンセは、映画製作者にドキュメンタリーを提案し、ロバートソンが家族と再会できるように手助け、説得した人物として登場しました。
映画の中で、ロバートソンは、機密事項扱いであった任務中のラオス撃墜について語りました。彼は、ベトナムのジャングルの中で竹かごの中に住んでいたと説明し、病院に送られる前の1年以上、拷問を受けていたと話しました。興味深いことに、ロバートソンは、ベトナム人についてだけ語り、自分の子供の名前や、自分の誕生日は覚えていなかったようです。
ロバートソンの失踪を掘り下げる
ヨルゲンセンは、映画を政策するにあたって、ロバートソンについては、全て調査し尽くしたと言いました。2014年のIndieWire.comに、彼は次のように語っています。
「私は、彼についてできる限りのリサーチは全て行ったよ。ペンタゴンが1月にまとめたMACV-SOG の組織についても多くの調査を行った。そして、この行方不明だった彼についての、事実を全て明確にしようとしたんだ。だけど、その事実はまるでブラックホールのようだよ。彼は姿を消したのに、彼について記載されたファイルが一つもないんだ。何人か一緒にヘリコプターを乗った人からの証言のみなんだ。」
家族親睦会
家族親睦会に参加するために、ロバートソンの姉妹、ジーン、その彼女の夫、そしてその娘のゲイルに会う為に、タスカルーサの彼の家からカナダへ向かいました。ゲイルが、最後に叔父に会ったのは、10歳の誕生日パーティーの時でした。
そして、ついにロバートソンは、2012年の12月17日に家族と再会しました。彼との再会を待ち望んでいた人達にとって、ロバートソンは全くの別人に見えました。実際、彼の家族と会う前に聞いていた、彼の人物とは、少し異なる部分がありました。そんな時、指紋の調査結果が返ってきたのです。
指紋調査の結果
指紋認証は、衝撃的な結果となって返ってきました。そう、指紋は一致しなかったのです。彼は、自分の名前を間違えたのではなく、ジョン・ハートレー・ロバートソンという人物ではなかったと診断されたのです。おそらく、彼は他の行方不明者の兵士なのだろうか?しかし、どちらの主張を支持する証拠もほとんどなかったので、彼が本物のロバートソンということで処理されました。
ファウンセとヨルゲンセンは、ベトナムから来たこの男性を、彼の昔のグリーンベレーの仲間であるエド・マホーニーに会わせることで彼の信用性をテストすることにしました。マホーニーも、1968年のヘリコプター事故で生き残ったロバートソンに会いたいと熱望しました。
DNA検査
ヨルゲンセンは、ドンナイのレストランで行われた彼らの会議の様子を撮影していました。マホーニーとロバートソンが出会った時、彼らはぎこちない抱擁を交わしました。彼らの会話は、英語とベトナム語に通訳され、お互いに理解できるようになっていました。
ロバートソンに仕えていた彼をよく知るマホーにーは、彼は確かにジョン・ハートレー・ロバートソンであると言いました。しかし、指紋認証と家族の証言もあり、このベトナムにいた男性が、実際に誰なのか真実を知る為に、DNA検査を受けることにしました。
厳しい現実
ドキュメンタリー映画が上映される前、ヨルゲンセンは、ロバートソンのアメリカ人妻と2人の子供は、最初DNA検査に協力すると言ったのが、その後、この同意を覆したとメディアに話しました。彼らがなぜ、真実を知りたくなかったのかは、少し奇妙に思えますが、映画制作者はこのように説明しました。
「誰かが私に伝えたことですが、娘のどちらかが、が、彼のことをきちんと知りたくないらしいのです。それは醜い戦争のようにも思えます。これはあまりにも前のことですから・・しかし、我々としても真実から離れたくありません。私には、よくわかりません。一体、どうして、彼が生物学的に本当の父親であるか知りたくないのでしょう?」
ロバートソンではない
ドキュメンタリーが発表された時、家族を含む多くの人々は、このベトナムにいた男性は、ロバートソンであると確信していました。彼らは、自分たちの最愛の父(兄弟/叔父)が生きていると信じたかったので、DNA検査をすることにしました。しかし、科学は嘘をつきません。
DNAテストの結果が返ってきたとき、ベトナムから来たその男性は、ロバートソンではなかったことを証明しました。この結果が、公表される前、ロバートソンの姪(唯一生き残っているロバートソンの姉の娘)であるゲイルは、「私の母が、彼が彼女の兄弟ではないなんて、決して信じないだろう。」と語りました。
真実を求めて
アラバマに拠点を置く、法医学研究所は、ロバートソンの甥のサンプルと、そのベトナム男性から採取した血液を使って、もう一度DNA検査をしました。ロバートソンのもう一人の姪、シンディは、GoFundMeというウェブサイトで再検査のための募金を募っていることを明らかにしました。
「私たちは、DNA検査の結果を受け取りましたが、残念ながらそれは一致しませんでした。本当に失望しました。」更に、ゲイルはこうも付け加えました。「私の母が言ったように、ただ私たちは叔父のジョンのために正しいことがしたいのです。そして、もしその真実が米国政府の過ちを探ることを意味し、この男性が誰なのかわからないのであれば、私たちは自分たちの手で本当の真実を知りたいのです。」
政府からの妨害
ロバートソンについての、真実を見つける一切の過程で、アメリカ政府は全く、役に立ちませんでした。彼は、IndieWire.comに「私が、政府の職員に連絡を取った時の対応は、なんとも否定的でした。彼らは、私たちのこの行動を辞めさせようとして来たのです。私たちが、ドキュメンタリーを完成させようと、必死にジョンの姉妹を見つけたのに・・。政府は、私たちに、”彼女たちはただ単純に血液検査をしたいだけだ”と言ってきました。決して、そんなことはないのに。彼らの弟は、当時死んでいると言われ、政府によって連絡を取ることさえ許してくれなかったのだ。」と語ります。
一つの大きな計画
ヨルゲンセンのドキュメンタリーが上映されてから、ちょうど1日後、インディペンデント紙は、「ロバートソンであると主張した男性は、ダン・タン・ゴックという76歳のベトナム国籍のフランス出身者であり、米国の兵士であると偽っていた。」と報道しました。
インディペンデントは更に、1982年に早くもこの男性は、ロバートソンと名乗っていたと報道し、ゴック氏が、2009年の防衛刑務所から行方不明者リストを持っていたことを発見しました。また、過去30年間にベトナム戦争の生存者として、いくつものグループから何千ポンドも受け取っている可能性があるということも報道されました。
歯が多くの手がかりを明らかにする
ドキュメンタリー「Unclaimed(仮訳:引き取り手不在)』を撮影している間、ロバートソンであると主張した男性は、歯を取り除き、それをファウンセと映画製作者に渡しました。これは、男性の遺伝的構成を確証するのに役立ちます。
ソルトレイクシティの科学者であるレスリーが歯を分析し、「この歯の持ち主は、アメリカで育った可能性がありそうだ」と述べました。歯のエナメルには、人が育った地域の気候や地質など、多くのことを明らかにできる化学物質が含まれています。この男性は、ロバートソンではないかもしれませんが、どうやらアメリカ人である可能性はあったようです。
まだ疑問が残る
しかしながら、歯のテストをしたからと言って、ゴックが100%アメリカ人であるということが確証したわけではありません。Stars and Stripes の記事では、歯から得られる同位体は、米国以外にも世界の他の地域と一致する指摘されています。もし、2本の歯が検査できれば、よりどこの地域で育ったか特定できるでしょう。1本の歯だけでは、幼少期にどこかへ移動しただけという可能性も否めません。検査した1本の歯は、アメリカ出身であると一致しましたが、果たして他の歯はどうなのでしょうか?
破損したMIA機関
実際に、ゴックが誰なのかはいまだに不明であるが、米国政府は、家族がもっと彼について詳しいことを知ることが出来るように、MIAの機関を見直そうとするようです。ヨルゲンセンは、IndieWire.comに対してこう語りました。
「問題に立ち向かおうとするのではなく、それを否定し、却下しようとする行為は、政府が後退していっている証であると、私は思います。先日、トロントで開催されたHot Docs Festivalで上映された映画に対して、政府は、MIA機関から”機能不全、不適切、そして、詐欺的”と批判しました。これには、大規模の調査を開始する必要があります。第二次世界大戦83,000件以上の事件です。」
捕虜の驚きの物語、アメリカ海軍飛行士「ディーター・デングラー」
ディター・デングラーは、べトナム戦争の間、アメリカの海軍として任務を担っていました。1966年に、彼は最初の最高機密任務につきました。しかし、彼の飛行機は撃墜され、死んでしまったか、捕虜にされたのではないかと半年間言われました。これが、彼の話の始まりです。
デングラーは、戦時中のドイツで育ちました。そして、それは将来海軍として飛行する彼の夢を持つきっかけとなっていたのです。彼は、近くの連合軍の戦闘機のパイロットを見るために、家の屋根裏部屋に弟といました。このことを思い出して、デングラーはこれが、自分の将来が拓けた瞬間だと言います。10代で彼はアメリカに移住し、パイロットとしてアメリカ海軍に勤務できるように、契約しました。そして、ベトナムへ配属されました。1996年2月1日、彼は米国を出発しました。これが、彼の最初の任務でした。
敵による撃墜
デングラーは、他3つの飛行機と一緒に任務を進めました。敵の領土を越えて飛行してから約2時間半、デングラーの飛行機の右の翼は、敵によって撃墜されました。彼の飛行機は空を横切って転落し、そして最終的に打ちつけられました。衝突すると、デングラーは航空機から100フィート投げられ、意識を失いました。
しばらくして、彼は目を覚ましてジャングルに逃げました。彼は、すぐに地元のPathet Laoジャングルの中で2日間過ごしました。また、負傷した左足を支えるために竹を使って添え木をしていました。彼は、ラオス人の共産主義者Viet Cong(ヴィエット・コン)とによって発見されました。
囚人としての拷問が始まる
捕獲された後、ヴィエットは、デングラーの負傷した左足を無視して、ジャングルの中を歩かせました。夜間は、彼が逃げるのを防ぐために、足を縛り付けました。また、彼の顔は蚊に刺されたことによって、大きく腫れ上がり、元の顔を判別するのが難しくなっていました。
ある時、どうにかデングラーは逃げようとしました。しかし、彼は近くの井戸の中で発見されました。そして、この瞬間、彼への本当の拷問が始まったのです。彼らは、デングラーにここでの”規則”を教えたかったので、彼を逆さまに吊るし上げ、赤い蟻で彼の顔を覆い、彼の意識がなくなるまで続けました。そして、夜になると、彼を凍った井戸に入れました。彼が眠りにつくと、溺れそうな状況を作ったのです。
デングラーの愛国心を揺さぶる
彼の精神を更に追い込もうと、彼らは、水牛にデングラーを引きづらせ、街まで行き、彼を笑い者にしたのです。人々は、彼を嘲笑ったり、唾を吐いたり、水牛より早く走れよ!などと囃し立てました。また、彼は役人に送られて、アメリカを非難する文書に、署名をするように促されました。
しかし、彼は自分の祖父が、ドイツのヒトラーに投票することを拒み、その結果がもたらした悲劇を思い出した為、デングラーも同じように拒否しました。この彼の反応に、拷問は激しさを増し、竹の楔で彼の爪を剥がし、負傷した左足の傷をより深く切り込んだりしました。
「彼らはいつも、何か新しい拷問方法はないか探していた」
しかし、拷問はそれだけに止まらず、もっと手の込んだ物になりました。彼らは、デングラーの限界を押し上げるために、色々なテストをしました。1人が、デングラーの腕にロープを結び、彼の腕とロープの間に木片を滑り込ませました。すると、彼の骨が神経を圧迫し、彼は6ヶ月間、手が使えなくなりました。
また、ヴィエットの許可を得ずに、デングラーの指輪を勝手盗んだことから、デングラーの目の前で仲間の指を切断するところを見せつけられたりしました。それ以来デングラーは、ヴィエットには、絶対に反抗しないことを誓いました。
デングラーは、彼の新しい”家”にたどり着いた
彼らと何週間か過ごした後、デングラーはついに彼らの目的地に到着しました。そう、そこは、囚人専用の戦争収容所キャンプだったのです。デングラーは、そこに着くのを楽しみにしていました。なぜならジャングルから抜け出し、上手くいけば他のパイロットと会えたり、更には怪我の治療など、人間としての扱いを受けられるかもしれないと思ったからです。
しかし、彼がキャンプで見たのは、想像よりもはるかに悪い事態でした。デングラーが到着して最初に見たものは、ある兵士が自分の手で、自分の腸を抱きしめている姿でした。
デングラーは、新たな戦友たちに出会った
キャンプには、彼の他に6人の捕虜がいました。4人のタイ人と同僚の2人のアメリカ人でマーティンとデービンと言いました。1人のアメリカ人は、歯がなく、口の中にひどい感染症を起こしていました。それは、錆びた釘と彼の歯茎で、なんでも噛み砕くように言われていた為でした。デングラーは、彼ら6人が2年半の間そこにいたこと、そして、ここを出ない限り、彼の人生も彼らのようになるということを知ったのです。
キャンプで起きた恐ろしい夜
夜の時間は、デングラーと囚人達にとって最も恐ろしい時間の一つです。彼らのいる小屋では、男達は全員一緒に手錠にかけられて。彼らの足は、中世風の木版画に閉じ込められていました。彼らは全員、慢性の赤痢にかかっていましたが、起き上がってトイレに行くことが許されなかった為、夜間の大半を寝て過ごすか、他人の排泄物と一緒に過ごさなければなりませんでした。
これは、彼らの感染を更に拡大するだけでなく、人間としてのモラルも破壊されていきました。国のために働いていた兵士でさえも、捕虜にされた途端、このような扱いを受けていたいたことは、決して想像できないでしょう。
状況は、悪くなる一方
時間が経ち、彼らの状態と傷が悪化するにつれて、食料も底が見えて、囚人達の間には緊張が高まりました。一握りの米だけがグループに与えら、彼らはそれを平等に分配して保存しました。この過酷な状況下で、一番重要な戦略は、常にグループ内で助け合い、同じ気持ちだと信じることです。
米に加えて、彼らは、鹿の胃の中から取り出された草を与えられました。もちろん、警備員たちは、彼らの前で肉を食べていました。しかし、囚人達は、時折空腹をしのぐために、トイレで見つけたネズミや蛇を捕まえて食料にしました。
計画を実行に移す時
これらの残虐行為は、数ヶ月間続きました。その間、囚人達はキャンプ内の地図を描き、警備員が、どのタイミングで休憩をとり、銃はどこにあるのかなどを調べ、学ぶことによって、逃げるための綿密な計画を練りました。全員で、ルーティンワークと警備員達のスケジュールを1秒も欠かさず細部まで記憶しました。ある晩、タイ人の囚人の一人が、警備員の話を耳にしました。
警備員は、彼らをどうやって処刑するのか話し合っていました。それは、ジャングルの中へ行進させて飢えさせ、処刑するという方法でした。囚人達は、この前に逃亡の計画を行動に移すべきだと確信しました。
計画
グループは、警備員達が午後4時頃に食事を摂るために、銃を手放すことを知っていました。そして、この時が脱出するのに、最適なタイミングであると計画していました。全過程の所要時間は、全部で2分30秒。そして、この時間こそが、彼らが小屋を抜け出し、銃を盗み取り、キャンプを占領するまでにかけられる全ての時間を意味していました。全ての囚人に、この計画を完璧に実行する役割が与えられていました。何週間も前から、グループはキャンプを抜け出すために、何度も計画を練って来たので、準備は完璧でした。 幾夜か、脱出決行計画を見送ったあと、ついに計画を実行する時が来たのです。
脱出
1966年6月29日、グループは彼らの計画を、確実に実行できるその正確なタイミングが来る1分1秒まで待ちました。そして、警備員が古家の電灯を緩め出て行った瞬間、その時が来たのです。デングラーは、警備用のテントに行き、3機の銃を手にし、それと共に雑誌も手にに入れました。その間、他のメンバーもキャンプの周りで、隅々まで計算された計画を実行に起こしていました。
そうしている時、警備員達は何かがおかしいことに気づいたのです。 気づいた瞬間、彼らは右往左往し、1人はデングラーを撃ってきたのです。しかし、デングラーも、一人は逃したものの5人の警備員達を撃ちました。そして今、もはや彼らは静かに脱出する計画を放棄し、可能な限りの物資を掴み取り、ジャングルを駆け抜けることにしたのです。
裏切りと最後のさようなら
彼らは、持てるもの全てを持って一緒に逃げていた。もちろんその中には、デングラーとディアンのブーツや蚊帳など、みんなで共有できるものも含まれていました。そんな中、アメリカ人の1人であるジーンは、獄中に親友となったタイ人のY.Cが病気で逃げられない為、デングラー達と一緒に逃げることを拒否しました。
デングラーとディアンは、仕方なく別れを告げ、ジーンに盗んできた銃の一つを手渡しました。その後、彼らはタイに向かって西の方に進んで行きましたが、すぐに道に迷ってしまったのです。
デングラーとデュアン vs. ジャングル
素足で、病気で、血まみれで、疲れ切っていた二人は、それでもジャングルを駆け抜けて行きました。そんな中、二人は古いテニスシューズを見つけ、足の裏の痛みから少し解放されたのです。そして、ついに彼らはメコン川に繋がる川を見つけたのです。少なくとも、 そこまで辿り着けば、タイの国境になり安全になります。彼らは、いかだを作り、追手から隠れながら川を進んでいきました。朝、気付くと彼らは衰弱し、泥とヒルで覆われてしまっていたのです。
あまり歓迎されない出会い
川で夜を過ごした2人は、疲れ果て、水の中をなんとかクロールして川の土手に辿り着くのがやっとでした。彼らが水面を見下ろすことの出来る岸辺に着いた時、目の前に村が広がっていた。しかし、ここでまた新たな問題に直面するのです。村の住人たちは、冷めた目でデュアンとデングラーを見ました。二人は、助けを求めましたが、村人に囲まれてしまいました。そして、村人の一人が、デュアンの足を酷く切りつけ、また刃物を振ったかと思うと、彼の首を斬ったのです。
最後の力を振り絞って
デングラーは手を伸ばして、デュアンの足から唯一のラバーソールを掴んで生きるか死ぬかの思いで必死に走りました。彼は、熊に襲われている幻覚を見ているかのようだったと言います。その後も彼は、ジャングルの中で、何度も危険に晒され、幻覚に悩まされ、死の危機に常に直面しながら、歩くことを続けたのでした。彼は、この時が人生で起きた苦難の中で、一番辛かった事として、思い出すと言っています。1966年7月20日、デュアンの死から5日後、デングラーはアメリカ軍の飛行機の音が頭上からしているのを聞くのです。
ついに救出される
彼は最後の力を振り絞って、アメリカ軍の飛行機に向けて、一生懸命手を振りました。しかし、飛行機に乗っていたディートリック大佐は、何かの見間違いかもしれないと、一瞬その場を後にしたのです。しかし、しばらくして、やはりそのままにしておけないと、ディートリック大佐は自分の本能を信じて、引き返し、結果的にデングラーを救うことになったのです。デングラーは、逃げた7人のうちの、唯一の生存者でした。
安全は確保されたが、深い傷を負ったまま
その後、彼はベトナムのダナン病院に運ばれ、CIAから様々な尋問を受けることになりました。一方で、彼の仲間の航空隊は、彼を温かく向かい入れ、保護してくれました。しかし、彼は保護された後も、恐怖に苦しみ、枕に囲まれていないと、安心して眠りに着くことができませんでした。彼は時間が経つにつれて、身体的損傷からは回復しましたが、残酷な経験から得た心の傷は癒えることがありませんでした。彼は、その後、1年海軍として過ごした後に退職し、民間試験を受けてパイロットとなりました。
前へ向かって
1977年、 トランスワールド・エアラインズから退職した後、彼はラオスに再び戻りました。そして、そこで有名人のパセット・ラオスに出会ったのです。彼は、脱出したキャンプにデングラーを連れて行き、彼とデュアンがどのように逃げたのか思い返させました。2人は、キャンプ場からかなり遠く離れているように感じていましたが、実際には約1マイル半しか離れていなかったことを知り、驚きました。
デングラーは、飛行機を愛し続け、死ぬまでパイロットを全うしました。2000年には、彼はイーグルスの集会プログラムに参加し、彼の脱出物語を若い軍人に語り継いで言ったのです。
その後の人生と彼の死
デングラーは、人生の余生は、サンフランシスコの丘で過ごしました。彼は、3回結婚し、最終的に医者には、神経障害のALSであると診断されました。2001年2月7日、彼は車椅子で自分の家から消防署に駆け込み、その場で自分のことを射って自殺しました。彼は、アーリントン国立墓地で、軍人としての名誉と称され、埋葬されました。そして、そこでF14の飛行機が、彼のお墓の上を飛び交い、米国への凄まじい脱出劇と、自由を掴み取ったことに敬意を表したのです。