マリリン・モンローの知られざる写真

マリリン・モンローは、1926年に本名ノーマ・ジーン・ベーカーとして生まれました。いずれ世界でもっとも有名な女優の1人となる人物です。トレードマークの口すぼみや、プラチナ色の金髪、忙しない恋愛模様の浮き沈みまで、ファンは彼女に夢中だったのです。

メディアは彼女を追いかけ回したので、そこには、彼女と同じくらい有名になった数々の写真が存在します。ただ、この彼女のイメージと、全く違う一面を写した、今まであまり知られていない写真を見たことありますか?今から、マリリン・モンローの知られざる写真を見るとともに、このスターの悲劇の人生と時代の変化を見ていきましょう。

起源となるノーマ・ジーン

Photo credit: Sunset Boulevard/Corbis via Getty Images
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ハリウッドライフの輝きを浴びる前、そしてマリリン・モンローという単語が流行る前から、ノーマ・ジーン・ベーカーは存在していました。幼少期は、数々の里親の元を渡り歩き、わずか16歳で結婚しました。苦悩を抱えた若き女性にとって、モデルの仕事は、現実逃避をすることができたのでしょう。

1944年にノーマ・ジーンは、ファースト・モーション・ピクチャー・ユニットのカメラマンにモデルの仕事を紹介されました。戦費を賄う施策の一環とピンアップモデルとしてノーマが成功を収めるために、彼が手助けをしてくれたのです。この写真では、ビーチでビキニを着て、トップスターへと駆け上がるきっかけとなったトレードマークの笑顔をこの頃から見せています。

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一度は映画スタジオからの出禁も

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Photo credit: Baron/Getty Images
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1953年になる頃には、マリリンはまれに見る世界的レベルの成功を収めていました。数々の映画で主役を演じていましたが、そこに至るまでは決して平坦な道ではなかったのです。

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この写真が撮影された1954年頃、「頭の悪い金髪」と型にはめられた役しか与えられないことに、苛立ちを覚えはじめていたのです(ただ、実際は彼女自身が作り上げてしまったイメージなのですが)。彼女は、役の幅を広げるために、とあるオファーを断った為、FOXという映画スタジオから閉め出されてしまったのです。ただ、FOXは長くは彼女を閉め出さず、1955年には和解し、その後、すぐ彼女は復帰したのです。

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ジョー・ディマジオとのビーチタイム

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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マリリンは、地球上で最も、多くの人に追いかけ回された有名人のうちの一人です。メディアは、彼女の生活のいかなる部分も報道しました。これを彼女は楽しむこともあれば、極度に嫌がることもありました。そんな中、彼女とジョー・ディマジオとの結婚生活は、わずか1年しか続きませんでした。

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そして1961年、彼女が3度目の離婚をした後、マリリンとディマジオは、友達関係を復活させました。この写真は、レディングトン・ビーチのカバナで一緒にいる際に、撮影されたものです。ここは、ディマジオがニューヨーク・ヤンキースに所属している間、マリリンがバケーションで訪れていた場所です。そして、この翌年のマリリンの悲劇的な死から20年間以上、ディマジオは、マリリンのお墓に週に2回、お花を届け続けました。

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演技コーチのポーラ・ストラスバーグとの友情

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Photo credit: Ernst Haas/Getty Images
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マリリンには、多くの役者と同様に演技指導のコーチがいました。彼女の名は、自身も女優であったポーラ・ストラスバーグです。彼女は、演技する手法を作り上げたとするリー・ストラスバーグの妻です。ポーラは、マリリンが映画セットに行く際は付き添っていたのですが、彼女の共演者の多くは、これをよく思っていませんでした。

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この2人の写真は、マリリンの最後の出演作となる『荒馬と女』のセットで撮影されたものです。この時点で35歳となっていたマリリンは、映画評論家からはウケが悪くなっていました。彼女は、精神安定剤に深く依存しており、集中力が散漫になっていたのです。また、この映画の撮影終了後、メキシコでの短い会話をもって、マリリンは最後の夫であった作家のアーサー・ミラーとも離婚しました。

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地下鉄に乗車

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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1955年の3月は、FOXと1950年から更新されない契約書の問題についての争いを終えたばかりでした。同じようなステータスの女優と比べ、彼女のギャラは低く、自由も多くはなかったのです。FOXとの争いが全て収まると、多くが軌道に乗り始めました。少なくとも、彼女の"キャリア"は。

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この写真が撮影される6ヶ月前、ニューヨークの地下鉄レキシントン・アベニューで、あの有名なスカートが空気孔によって舞い上がるショットが公に出ました。その写真は、各誌のトップニュースとなりましたが、このポーズに憤慨したジョー・ディマジオとは、離婚のきっかけともなったのです。

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自宅での珍しいショット

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Photo credit: Hulton Archive/Getty Images
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1950年代中頃、雑誌の表紙から最新映画告知の広告塔まで、マリリンの顔はいたるところで見ることができました。完璧なメイクと衣装が常に施され、 普段着のマリリンの写真を見ることができる機会は滅多にありませんでした。

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1955年に撮影されたこの写真は、セクシーな写真の普段とは違う一面を写しています。チェック柄のパンツと緩めのセーターをまとい、自宅の窓際で裸足で立っています。この写真は、普段マリリンが公に見せない一面を垣間見ることができたのです。彼女は、確かにモデル業のキャリアの頂点にいましたが、その前に普通の1人の女性だったのです。

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アーサー・ミラーとの結婚

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Photo credit: Hulton Archive/Getty Images
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1956年に、マリリンはもう一度結婚に賭けてみようと思い、頭脳派の脚本家であるアーサー・ミラーと結婚。メディアは、「不釣り合いな組み合わせ」として2人の結婚を嘲笑しました。とある雑誌の見出しには「卵頭が砂時計と結婚」と書かれていました。

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この写真は2人が結婚した年に撮られ、幸せそうに飛行機に乗り込む姿が写されています。マリリンは、ミラーとの結婚生活中に幾度もの流産を経験。結婚してから2ヶ月後、『王子と踊り子』の撮影中に、彼女は共演者のローレンス・オリヴィエと馬が合わず、結果として精神安定剤の使用頻度が増えました。

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韓国の米軍兵隊にエンターテイメントを

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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1954年に、ジョー・ディマジオとの9ヶ月の結婚生活解消前に、 彼女は韓国でのソロツアーを決行。これは韓国の米軍基地を巡るめまぐるしい4日間のツアーで、10万人もの兵士のために10回もショーを行ったのです。

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興奮した兵士たちの、カメラのフラッシュから目を覆っていますが、その後、彼女はこう語っているのです。「あのツアーは、私にとって最高の出来事だった。あの時ほど心から自分がスターだと感じたことはなかったわ。目を下ろすと、兵士たちが私を見て笑顔になる瞬間は、本当に素晴らしかった。」マリリンは、ツアーで『Bye, Bye Baby』や『Do It Again』などのヒット曲を歌いました。

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『ラヴ・ハッピー』の撮影

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Photo credit: John Kobal Foundation/Getty Images
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マリリンの有名は写真は、トレードマークの真っ赤な口紅ですぼんだ口と、カールを巻いた金髪ボブカットがに象徴的に写されています。しかし、ピンアップモデルから映画女優へと転換する頃は、まったく違う外見になったのです。

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この写真は、1950年にちょっとした役で出演した『ラヴ・ハッピー』の撮影セットで撮られたものです。マリリンが話しかけているのは、コメディ映画スターのグルーチョ・マルクス。彼女はこの年、6本もの映画に出演しましたが、FOX映画スタジオと契約を結び、キャリアが飛躍していくのは、この翌年からでした。

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ヘアモデルの成功例

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Photo credit: Donaldson Collection/Michael Ochs Archives/Getty Images
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1944年、芸能界でのキャリアが始まる前、マリリン・モンローこと、ノーマ・ジーンはレディオプレーン社の工場で働いていました。そこで、カメラマンのデビット・コノバーは、工場にいる女性陣の写真を撮ってくるよう送り込まれました。その時から、ノーマはコノバーのモデルを務めるようになりました。モデル活動に対し、ノーマの夫や義理の家族は反対しました。

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その後、ブルー・ブック・モデル・エージェンシーと契約書を交わすと、この広告のように、ノーマ・ジーンは多くの広告に姿を見せるようになりました。整髪料キャンペーンのためにポーズするノーマは、実に若々しく無邪気に見えます。この後まもなく、彼女は髪の毛を金髪にして、ピンアップモデルとして仕事を始めます。

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ヨガポーズを披露

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Photo credit: John Kobal Foundation/Getty Images
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マリリンの、モデルとしての仕事は多岐に渡りましたが、ライフスタイル関連のものや、男性誌の広告がほとんどでした。たとえば、この『Peep and Squint』で使用された写真です。1948年にシリーズ化して撮影されたもので、様々な体操ポーズを披露しています。

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当時22歳であった新生金髪マリリンは、着々とスターへの階段を登り始めていました。ただ、彼女が追い求めていたスターの勲章が、この後、結果的に彼女を裏切ることになるとは、当時は決して知る由もありませんでした。体操ポーズの写真は、黒の背景がマリリンを際立たせます。しかしながら、これらの写真は、1950年代、マリリンのもっと有名な写真の中に埋もれてしまうのです。

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心が折れても、笑顔

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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1957年にマリリンは妊娠しました。この妊娠は、夫のアーサー・ミラーとの間の2回目の妊娠でした。1回目は、妊娠数週間で流産してしまった為、2回目の妊娠がわかった時、2人はこの上なく喜びました。

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ただ同年、8月1日にマリリンは激痛を覚え病院へ運び込まれたのです。その時、マリリンは子宮外妊娠であり、緊急手術による中絶の必要があると知りました。大丈夫と言わんばかりに、マリリンはバッチリメイクをして、見守る人々に手を振り、そして自分で歩いてエレベーターに乗ることに非常に固執したようです。

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俳優との隠しきれない不倫

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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1960年に公開された『恋をしましょう』は、マリリンが出演した映画の中でも終盤の映画のひとつです。この酷評された映画で、彼女は、フラン人俳優のイブ・モンタンと共演。そこで、2人は情熱的な不倫関係に陥り、結果としてマリリンは妊娠したというのです。

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この写真は、マリリンがディレクターのジョージ・キューカーと笑顔でポーズしているもの。彼女が、誕生日プレゼントとして共演者からもらった真珠のネックレスを、キューカーが首に着けてあげていますが、イブが横で見守っています。マリリンの友人であり隣人のフレダ・フルによれば、彼女の最後の映画となる『荒馬と女』の撮影セットで、彼女はまたもや流産したというのです。この不倫関係は、メディアで大きく取り上げられました。映画スタジオは、このスキャンダルが、映画が話題になる成功のきっかけと繋がると期待されていましたが、残念ながらそうはなりませんでした。

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ノーマ・ジーンと母親

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Photo credit: Silver Screen Collection/Hulton Archive/Getty Images
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マリリンの幼少期は、決して平坦なものではありませんでした。彼女の母はグラディス・パール・ベーカーでしたが、父親の存在は知られていません。母親の2人目の夫の苗字のベーカーが、彼女の人生では多く使用されました。

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グラディスは自分で子育てをできる状況下になかったため、幼いノーマ・ジーンは、自分の世話を自分でできるようになるまで、里親の元に託されました。この写真はグラディスが精神崩壊を起こす前の、マリリンとのビーチでの楽しいひとときを撮影したものです。グラディスは病院や施設の入退院を繰り返し、結果としてマリリンは孤児院や里親の家で全ての幼少期を過ごすこととなるのです。

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ディテールに細心の注意を

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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名声に踊らされたことが原因で、様々な困難を抱えることになったと思われがちなマリリンですが、それは彼女の物語の一部にすぎません。確かに金髪のおバカキャラをうまく演じたかもしれませんが、マリリンは自分のイメージを巧妙に形成した、抜け目のないビジネスウーマンでした。

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この写真は、1955年の3月に撮影されたものです。マディソン・スクエア・ガーデンでの特別なチャリティイベントで、衣装を着てピンク色のゾウに乗るための準備をしているところです。見てわかる通り、マリリンは細かなところまで、バッチリとキメるために努力を惜しみませんでした。ミュージカルで、細いコルセットに体を押し込んだりと、彼女にとって服の心地よさは、綺麗な見た目の二の次でした。

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初婚の相手はジェームス・ドハティ

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Photo credit: Silver Screen Collection/Hulton Archive/Getty Images
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無邪気なノーマ・ジーンにとって、1940年代初期から中期は多くのでこぼこがあった時期でした。彼女の里親であるグレースとドック・ゴダードはウェスト・ヴァージニア州に移住することになっていましたが、青少年保護条例により、まだ未成年であったノーマ・ジーンを州外に連れていくことはできませんでした。そんな時、マリリンは孤児院に戻るのではなく、隣人のジェームス・ドハティと結婚することにしたのです。

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彼女は高校を中退して、主婦になる決心をしました。1943年に撮影されたこの写真では、夫と友人と肩を並べています。しかしながら、1946年には、ノーマは20世紀最大級のスターとなるべく、離婚することとなったのです。

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フランク・シナトラとの恋愛

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Photo credit: David Livingston/Getty Images
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1954年に、世界的スターの2人が出会うこととなったのです。フランク・シナトラは当時、女優のアヴァ・ガードナーと結婚していましたが、1961年にはマリリンと交際をスタートさせたのです。この写真には、2人がくつろぐ午後の一コマが見て取れますが、実際いつ撮られた写真なのかは不明です。

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フランクの腹心の友であるジリー・リッツォによると、フランクはマリリンに結婚を申し入れたのだとか。彼はマリリンの精神状態と依存的な薬の使用を心配し、彼女のことを守ってあげたいと思ったのです。しかし、マリリンはそのプロポーズは断り、そして、その後まもなく死亡したのです。ジョー・ディマジオは、フランクが葬儀に参加することを拒否しました。

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離婚という災難

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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各所で掲載されたマリリンの写真は、彼女の煌びやかな一面を見せていました。ただ残念なことに、彼女が困難に直面している写真のほうが、価値があるとされました。この写真には、記者会見を去る際のマリリンが顔を隠す場面が写されています。これは当時の夫のジョー・ディマジオと離婚を発表したハネムーン・カテッジの外で撮影されたものです。

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マリリンが登場する前から、ディマジオは涙を浮かべていました。彼が唯一発した言葉は、「離婚の原因が、キャリアから生じた食い違いで間違い無い」と肯定する言葉だけでした。マリリンは記者会見後に『七年目の浮気』の撮影に向かう予定でしたが、「今日は、演技に身が入らないであろう」と、その日は家へと帰らされたのです。

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退院の際の姿

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Photo credit: Bettmann/Getty Images
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多くの有名人のように、マリリンは体調が悪い時でもゆっくりさせてもらえませんでした。子宮内膜症により、多くの人より入院することが多く、この症状により、彼女は常に痛みに悩まされ、子供を授かることができないという問題を抱えていたのです。この写真は1954年に、退院する際に撮影されたものですが、なんとも親しみやすい一部分が写されています。

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退院する際は、多くの人が酷い見た目かと思います。マリリンは、整えられていない髪の毛とノーメイクの状態で現れ、取材陣から隠れようと、毛皮のコートで顔を隠そうとしています。看護師はカメラのほうを見ていますが、ごちゃごちゃと囲うメディアの間を、自然の美しさを醸し出すマリリンがうまく誘導したのです。

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明るい時代の明るい笑顔

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Photo credit: Baron/Getty Images
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この明るい緑色のドレスを着たマリリンの写真は、前のスライドの時よりもはるかに幸せな時期に撮られたものです。この写真は1954年、カリフォルニア州のパームスプリングスで撮影されました。

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マリリンはパームスプリングスが大好きで、頻繁に訪問していました。そこでの彼女のお気に入りのホテル、リビエラ・パームスプリングスは、今でも営業中です。懐が豊かな来訪者であれば、100万ドルでホテル全体を一泊貸し切ることができるのだとか!

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読書が趣味だったマリリン

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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マリリンは大の読書家で、常に本を読んでいました。エバーラスティング・スターという彼女のオンライン・ファンクラブの一つが、彼女の写真やオークション商品、そしてインタビュー記事を確認し、なんと彼女は、個人コレクションとして400冊もの本を持っていたことが判明しました。彼女のお気に入りには、『On the Road』、『Paris Blues』、『Tortilla Flat』、『The Fall』、そして『Sister Carrie』などだったそうです。

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この珍しい隠し撮り写真には、1955年3月にニューヨーク州ニューヨーク市のアンバサダー・ホテルにて、パジャマで寝転がっているマリリンが写されています。彼女が読んでいる本は、マイケル・チェーホフ著『On the Technique of Acting』という本のようです。

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今日も人々を魅きつける

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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マリリンは、その舞台裏で、多くの人生の困難を乗り越えて来たにも関わらず、今でも多くの人々を魅了している有名人の一人です。彼女のもっとも有名な言葉のひとつに、「自己肯定感と生き延びること」に関しての記載があります。

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「名声がある人は、自分のことが書かれた文書や、他の人が自分のことをどう思っているかを読むことがあるけれど、本当に大事なのは、自分自身が自分のことをどう思っているか。生き延びて、今日降りかかってくるであろう何かと立ち向かうために。」この1955年の写真では、ニューヨークのビルの屋上から人々を見下ろし考え込むマリリンの姿が写されています。

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大人っぽい雰囲気

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Photo credit: Baron/Getty Images
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マリリンモンローは多くの雰囲気を併せ持っていた女性です。シャイで控えめな一面も、自信に満ちて大人っぽい一面も。どの写真からも、その彼女独特の雰囲気を感じ取ることができます。「私は自分勝手で、イライラしがちで、ちょっと不安定。私は間違いを犯すこともあるし、落ち着きがなくて、時には扱いにくいこともある。でも、もし私のどん底の状態が好みでないなら、ベストな私の状態を見るのに、あなたは値しないわ。」これは、彼女が発した有名なことばの一つです。

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この写真では、背中が開いた赤いドレスを大人っぽい雰囲気で着こなしています。この先の写真では、もう少しお茶目な部分を垣間見ることができるのです。早速次のページから見ていきましょう。

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お茶目な一面

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Photo credit: L J Willinger/Getty Images
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一般的には、マリリンのこんなお茶目な一面を見ることは、ほとんどありません!ブロンドヘアの人達の方が、テンションが高いというのは、(少なくともブロンドヘアの人達が、気分が上がれば)あながち間違っていないようですね。この珍しい写真は、映画の撮影の合間に、ハリウッドの自宅の近くのビーチで撮影されたものです。

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彼女はこうも語ったことがあります。「冗談を言うのは好きだけれど、ふざけたやつだと思われるような見た目だけは避けたいわ。」ただこの面白い写真から分かるように、たまにはおちゃらけた一面を見せることを煙たく思うことはなかったようです。

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人生と年を取ることの価値観

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Photo credit: Mondadori Portfolio via Getty Images
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マリリンの壮絶な人生と早すぎる死は、今となってはよく知られている為、年を取ることに関してマリリンが語った次の言葉には少しぞっとさせられます。「整形はせず、年を取りたいわ…。自分が作ってきた顔に、忠誠を誓うだけの勇気が欲しい。年を取ることを避けて、若いうちに死ぬほうが楽と思うこともたまにあるけれど、それだと、人生を全うしないわけじゃない?自分を完全に知ることはできないわ。」

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もし、彼女がまだ生きていれば2016年の6月1日で90歳になっていました。世界中の多くの人が、思い出や写真をシェアして、彼女へ追悼の意を表しました。

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マリリンの財産

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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マリリンは、自分の財産(合計160万ドル)の最も大きな割合を演技コーチであったリー・ストラスバーグに遺しました。リーと妻のポーラは、彼女ととても親密になり、彼女自身も、2人のことを両親代わりとして思うようになっていたのです。この写真は、撮影の合間に撮られたマリリンとポーラです。ポーラが死去してから、リーはアンナという女性と再婚。1982年にリーが亡くなると、アンナは財産を受け継ぎましたが、彼女はほとんどをオークションで売ってしましました。

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マリリンは、財産の一部を自身の精神分析医であったマリアン・クリスにも遺しました。クリスは、アンナよりも財産を大事にし、ロンドンにあるアンナ・フロイトセンターに受け継ぎました。このセンターは、精神的な問題を抱える子供たちを助けるために設立されたもので、この支援にはきっとマリリンも賛成したことでしょう。

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衝撃的なドレス

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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前述した通り、アンナ・ストラスバーグは、夫がマリリン・モンローから受け継いだ財産のほとんどを売りさばいてしまいました。これには、マリリンがジョン・F・ケネディ大統領に「ハッピー・バースデー」を歌った際に来ていたシルバーのドレスも含まれていました。

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このドレスは480万ドルで落札され、オークションでもっとも高い値が付けられました。『Ripley's Believe It Or Not』という、世界の仰天ニュースを紹介する番組の副社長は、「このドレスこそ、ポップ・カルチャーをもっとも象徴する物だろう」と語っています。

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人気の商品となったマリリンの遺品

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Photo credit: Gene Lester/Getty Images
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先ほどのシークイン・ドレス以外に、マリリンの多くの所有物は、何年もの間、オークションで落札されていました。eBayには、マリリンの所有物に特化したセクションまで設けられています。

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49万ドルで売れた1956年製のFordのサンダーバードや、宝石、洋服、ラブレター、レシピ、そして化粧品さえも。マリリンの遺品の多くは、高値がつくのです。

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アーサー・ミラーのためにユダヤ教に改宗

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Photo credit: Express Newspapers/Archive Photos/Getty Image
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アーサー・ミラーと結婚した1956年に、マリリンはユダヤ教に改宗しました。彼はポーランド系ユダヤ人の血筋でした。コネチカット州ニューヘーブンにあるミシュカン・イスラエル宗会のラビであるロバート・ゴールドバーグ氏がマリリンの改宗を行い、彼は2人の結婚式の司祭も勤めてくれたのです。1956年に隠し撮りされたこの写真では、マリリンとアーサーが写されています。

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マリリンが亡くなってから、ゴールドバーグはこのように書いています。「マリリンは学歴のある人ではありませんでしたが、学びたいという強い欲を持っていました。ユダヤ教の論理的な部分、倫理的かつ予言的な理想、そして家族中心の生活の考え方に魅せられていました。」2018年10月には、マリリンの祈祷書が$4600スタートで、オークションにかけられたことが発表されました。

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動物を愛するあまり、牛を家に連れ込もうとしたことも

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Photo credit: Ernst Haas/Getty Images
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マリリンを知っていた人は、皆彼女が動物好きだと語っています。特に犬が好きで、人生のうちに何匹も飼っています。その中には、ティッピーという名の白黒模様の犬、マグシーというコリー犬、ヒューゴというバセット・ハウンド犬が含まれています。

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マリリンの1人目の夫との結婚生活中のこと、雨に濡れてしまうからと、彼女が牛を家の中に連れてことようとしたところを、夫が止めるという場面がありました。この写真では、マリリンが小さな犬と戯れています。1960年に『荒馬と女』をネバダ砂漠で撮影している際に取られたもののようです。

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ダイナマイトボディが語る美容の秘訣

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Photo credit: Archive Photos/Getty Images
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美貌で有名な人であれば、秘密のセルフケア法をいくつも持っているでしょうが、マリリンは自分のセルフケア法に関しては、決して包み隠さずに話していました。その中でも、最も大事なポイントの一つは、日焼けを避けることだと言っていました。「カリフォルニアでは日焼けする事が流行っているけれども、私は日焼けした肌が魅力的だとは思わないわ。健康的だとも思わない。私は個人的に、全身金髪で覆われたい気持ちでいるから、濃い小麦色の肌には反対しているの。」

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この写真は1951年に撮影されたもので、美しくて有名な脚に日焼けローションを塗っています。

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今でもTVコマーシャルに登場するマリリン

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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マリリンと彼女のイメージ画像は、長年の間、多くの商品を売るために使われていました。化粧品、香水、男性用の靴、ガーデン用のパラソルなど…彼女のイメージ画像は、そこらじゅうで見ることができました!この広告は、1955年の3月24日に撮影された、シャネルNo. 5用の広告の写真です。

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そして、最新技術のおかげで、彼女は未だにコマーシャルに登場し続けているのです。最近のディオールの広告では、シャーリーズ・セロンと一緒に動いて笑うマリリンの姿が。また、グレース・ケリーとマレーネ・ディートリヒという亡くなってた2人のスターもこの広告に登場しています。

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スタイルの維持

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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綺麗なカーブを描く体型で知られていたマリリンは、体型を維持するために独自のエクササイズ法を開発しました。『Pageant』誌の1952年9月号が、彼女のエクササイズ方法を掲載。毎日、「胸を引き締める運動」を行うというのです。これには、床に寝っ転がり、2キロの重りを持ち上げるトレーニングが含まれていると、マリリンは語ります。

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「この動きを15回、ゆっくりと行います。そのあと、床から45度の位置で腕を止めて、疲れ果てるまで重りを持った状態で円を描くように腕を回すのです。ラジオでやっているような、リズムに合わせて回数は数えません。そのようなコントロールされたエクササイズは、私にはできませんから。」彼女はこの他にも、面白い食生活をしていたそうなのです。早速、見ていきましょう。

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映画スターの食生活

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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マリリンは、面白い食生活をしていたと有名なようですが、彼女にはそれがベストな習慣だったようです。「私の食生活は、本当におかしいと言われたこともあるけれど、私は決してそうは思わないわ。朝、シャワーを浴びる前に、コンロでミルクを温め、自分のホテルの部屋に置いておくの。」

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彼女はこうも続けました。「そして、ミルクが温まったら、中に生卵を2つ、フォークでかき混ぜ入れて、着替えをしながら飲むのよ。そして栄養を補充するために、マルチビタミン剤も飲んでいるわ。仕事で忙しい女性にとって、これより栄養価の高い朝ごはんを、お医者さんが提案してくれるとは思えないわ。」この写真では、1954年に韓国でツアーを行った際に、兵士2人と一緒に食事をするマリリンが写されています。

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アーサー・ミラーの自伝

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Photo credit: Harold Clements/Daily Express/Hulton Archive/Getty Images
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マリリンの元結婚相手の1人である脚本家のアーサー・ミラーは、1987年に執筆した自伝『Timebends: A Life』内で、マリリンの人生と死に言及しています。そして、2005年に死去したミラーは、自伝でこう語っています。「生き長らえるためには、もっと冷笑的になるか、もしくは世離れをする必要があっただろう。ところが、彼女は街角で洋服を引っ張ってくる観衆に向けて、詩を詠む、詩人のような人であった。」また、彼はマリリンの存在が、性的対象としてしか見られていなかったことに悲しみを示しました。

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『バーレスクのマリリン・モンロー』

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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キャリアを通じて、マリリンはストリッパーとして働くことで、キャリアを切り開いたという噂を何度も叩きつけられましたが、彼女は常に否定してきました。これは、マリリンにそっくりであったディクシー・エヴァンスという女性がハリウッドにいたため、広まった噂なのです。彼女はロサンゼルスのマヤン・シアターのストリッパーで、よくマリリンと間違われていました。

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2人はあまりにも似ていたので、エヴァンスは『バーレスクのマリリン・モンロー』と名乗り、マリリンのスタイルと仕草を真似たステージ上の人格を作り上げたのです。この写真は、1955年3月に撮影されたマリリン本人です。

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税金に関するスピーチの際に、マリリンに関するジョークを飛ばしたレーガン大統領

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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1986年のホワイトハウスでの税制改革に関する記者会見において、レーガン大統領はマリリンの逸話に触れました。「この税制改革を進めるにあたり、議院の深く入り組んだ過程を通そうと、私自身もたまに不安を感じることがありました。」

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「私は何人かの人に言ったのです。晩年のマリリン・モンローが、アルベルト・アインシュタインにもし会ったら、アインシュタインの腕を掴んで『結婚しましょう』と言うだろう。しかし、アインシュタインは彼女を見て、『でも、マリリンさん、もし子供たちが私の見た目を受け継ぎ、あなたの知能を受け継いだらどうするのです?』と答えた様子を。」この写真は、1954年に撮影された、珍しくマリリンが大笑いしている隠し撮り写真です。

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別れても仲良しだった2人

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Photo credit: Bettmann / Contributor
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荒れた9ヶ月の結婚生活が1954年に離婚という形で終わっても、マリリンと元夫のジョー・ディマジオはその後も、とても仲が良かったのです。

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この写真は、2人が離婚した翌年に撮影されたものですが、身構えることなくディマジオと一緒にいる自然体のマリリンが写されています。舌を出してカメラにちょっとしたサービスをするディマジオと、ビーチのカバナでくつろいでいる元カップルの2人が写っています。マリリンのちょっとしたバケーションの最中に、ニューヨーク・ヤンキースの春のトレーニング・コーチとしてここに来ていたようです。

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『お熱いのがお好き』の撮影困難秘話

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Photo credit: Silver Screen Collection/Getty Images
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『お熱いのがお好き』の撮影が困難だった話は、「伝説的」として語り継がれています。マリリンは、映像作家のビリー・ワイルダーとよく喧嘩をしてたようですが、そもそも彼女は、仕事しづらい人として知られていました。彼女は、セリフをなかなか覚えられず、何度も撮り直しを要求し、時には、わざとNGを出すこともあったのだとか。

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本当のところ、共演者にとってはかなりストレスだったようで、トニー・カーティスはマリリンとのキスシーンに関して、マリリンとキスするより「ヒトラーとキスしたほうがマシだ」と語ったようです。この隠し撮りされた写真では、モンローと、左側でドレスを来ているトニー、そしてカメラに背を向けているワイルダーが、仲が良さそうに写っていますが…。

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幻となったマリリンの未来

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Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
Photo credit: Ed Feingersh/Michael Ochs Archives/Getty Images
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マリリンが36歳で亡くなったことは衝撃的であり、「マリリンが死なずにいたら、この先、何を成し遂げていただろう」と、皆が思いました。歴史的な作家でフェミニスト活動の中心人物であるグロリア・スタイネムは、1988年に出版した『Marilyn: Norma Jean』でこのようにまとめました。「生徒、弁護士、先生、アーティスト、母親、祖母、動物保護活動家、牧場主、主婦、スポーツ選手、子供の救済家。ノーマ・ジーンにとって、ここで挙げた未来はきっとどれも可能性があったと思います。

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「また、ノーマ・ジーンであり、マリリンであった彼女が、演技派女優、そして賢いコメディアンになり、60代になった今も仕事をし続ける。きっとそんな姿も想像がつくでしょう。」