過去に起こった奇妙で不可思議な本当にあった話。思わず背筋が凍る話が多数・・

人生の中には、神話として片付けてしまいたくなるような信じられない話が存在します。しかし、世界にはみなさんが思っているよりもたくさんのおかしな偶然、勘違い、不可思議な出来事で溢れているのです。ご紹介するのは、過去に起こった奇妙な事件。時間が経つにつれてその多くに尾ひれがついてしまっていますが、話の中核が事実であることには変わりありません。今回は、現実かと疑ってつい人に話したくなるようなストーリーを見ていきましょう。すべて歴史上で実際に起こった出来事です。

アシスタント鉄道信号係として勤務したヒヒ

Jack working
Public domain, via Wikimedia Commons
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南アフリカにて、ケープタウン-ポート・エリザベス鉄道に勤務していたジェームズ・ワイド。ジェームズ・"ジャンパー"・ワイドのニックネームで親しまれていました。このニックネームは、鉄道車両の間を飛び回っていたことに由来します。しかし、一度車両から落下してしまい、両足が切断される事故に見舞われました。

障害を負ったワイドは、1881年にジャックという名前のチャクマヒヒを購入します。彼はジャックを訓練して、車いすを押させたり自身の監督の元列車の信号の操作をまかせたりしていました。

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9年間勤務したジャック

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Jack the baboon
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霊長類が鉄道の操作を手伝っているというニュースは広まり、彼のパフォーマンスを精査するための調査が実施されました。慎重な精査の結果、ジャックは仕事をこなすだけの能力ありと認められて、正式に鉄道会社によって雇用されます。

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ジャックのお給料は、1日20セントと1週間ごとにビールボトル半分。アシスタント信号係としての9年間、ジャックが間違いを犯したことはありません。残念ながら、1890年、ジャックは結核でこの世を後にしています。

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人々が踊り出したくなる「疫病」?

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Picture of people dancing
Bettmann/Getty Images
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セイント・ジョンズ・ダンス、踊りのペストとも呼ばれる「ダンシングマニア」は、14世紀から17世紀にヨーロッパで起こった現象です。時には何千にも及ぶ人たちが、疲労で昏倒するまで踊り続けました。

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現代のドイツに当たるアーヘンにて発生し、ヨーロッパ中に拡大。当時は何らかの疫病によって引き起こされたとされていましたが、現代の学者たちははっきりとした答えを出せていません。

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ダンシングマニアの仮説

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Photo12/Universal Images Group via Getty Images
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何百年もの間、ダンシングマニアは社会現象なのか、実際の病気の症状なのかと議論がされてきています。最も受け入れられている仮説のひとつによれば、踊り更けていた人は汚染された作物による麦角菌中毒をおこし、幻覚やひきつけを起こしていました。

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別の説では、当時のはびこっていた疫病や洪水のストレスを解消するために踊っていたとれています。宗教的カルト集団がダンシングマニアを組織し、人びとを肉体的・精神的に困憊させていたという説もあります。

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一風変わった1904年の夏のオリンピック

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Picture of Olympics
ullstein bild/ullstein bild via Getty Images
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ミズーリ州のセントルイスで開かれた1904年の夏のオリンピックは、ヨーロッパ以外で開催された初のオリンピックです。日露戦争に大きな影響を受けた同大会には、参加した651名の選手の内62名のみが北アメリカ以外からの出場者でした。

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また、参加したのは13カ国のみ。お陰でユニークな大会にはなったものの、マラソンで起こった事件は悪い意味で歴史に残ってしまいました。

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優勝者が車でヒッチハイク

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Picture of Fred Lorz
Wikipedia Commons
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マラソン競技中、14.5キロ地点では4位だったフレッド・ローツ。途中でひどいけいれんを起こして道に倒れて、通りかかった車にスタジアムまで送ってもらうこととなりました。

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しかし、16キロを過ぎたところで車が故障。この時までには、ローツはレースを続行できるほどに回復していました。ここからレースの残りの数キロを走り、1位でレースを終えます。本人は金メダルを受け取る気満々だったものの、途中で送ってくれたドライバーが事のあらましを暴露。「複雑なジョークだ」と本人は主張しましたが、結局ローツは永久追放を受けています。

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ロンドンで起こったビール津波

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Print Collector/Getty Images
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ロンドンビール洪水として知られるこの事件は、1814年10月にロンドンのモイクス醸造所で発生しました。何事もないとある日、醸造所の6.7メートルもあるビールの木製の大樽が突如破裂します。

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流れ出てくる液体の重さと圧力によって別のコンテナの弁が破損し、さらに大型の樽まで破損。その結果、154,000ガロンから388,000ガロンのビールが通りに流れ出る事態に発展します。

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あまり喜ばしく思わなかった道端の人々

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Picture of brewery
Hulton Archive/Getty Images
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道にビールが溢れかえっているという事態は楽しいように思われるかもしれませんが、実際の状況は異なります。かなりの液体が醸造所の壁を壊し、セント・ジャイルズ教区のスラム街が水浸しになりました。残念ながら8名が命を落としましたが、その死因はただ単に「不運による事故」として片付けられています。

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醸造所はこの事故によって倒産しかけましたが、ビールの払い戻しにより救われました。この事故のあとから、醸造業界では木槽を嫌煙するようになったようです。

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タイタニックとその姉妹船の沈没を生き抜いたヴァイオレット・ジェソップ

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Sinking of the Titanic
Universal History Archive/Getty Images
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タイタニック号の姉妹船のひとつであるオリンピックが別の船に激突したことから始まった、船の客室乗務員のヴァイオレット・ジェソップの悲劇。幸い、この事故による死亡者はいません。

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事件後、タイタニック号での仕事を手にしたジェソップですが、同船は1912年に沈没。歴史上最悪の沈没船事故となりました。さらに第1次世界大戦中に英国赤十字の乗務員としてブリタニック号に乗船していた際には、船が突如爆破し沈没。ジェソップは命からがら生き延びています。

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事故にひるまないジェソップ

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Picture of Jessop
Public domain, via Wikimedia Commons
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複数の船の沈没を生き抜いたジェソップは、その後ホワイト・スター・ライン、レッド・スター・ライン、ロイヤル・メール・ラインなどに勤務しました。ある日、サフォークのグレート・アッシュフィールドで退職生活を送っていた彼女の元に思いがけない電話が入ります。何と、当時赤ん坊だった時にタイタニック号でジェソップに命を救ってもらった、という人物です。

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彼女の伝記を執筆したジョン・マックストン・グラハムは「悪戯かもしれない」と思ったものの、ジェソップは次のように答えたそうです。「そんなことないわ、ジョン。あなた以外にこの話をしたことはないんですもの」。現在、ジェソップは「ミス・アンシンカブル(「沈まない」の意)として知られています。1971年、ジェソップは83歳で永眠。

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1度の手術の結果3名が死亡

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Picture of surgery
SSPL/Getty Images
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19世紀前半、英国で最も腕の立つ外科医とされていたロバート・リストン。しかし、とある手術中に大事件が発生します。脚の切断手術中にあまりにも素早く作業をしていたため、誤ってアシスタントの指2本を切り落としてしまったのです。

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アシスタントと患者は敗血症により死亡。3人目の被害者は、アシスタントと患者がリストンのナイフで切り裂かれたところを見てショック死した目撃者です。

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名高い外科医

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Picture of Liston
Sepia Times/Universal Images Group via Getty Images
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19世紀の革命的な外科医と考えられていたロバート・リストンは、麻酔が導入される前から活躍していました。つまり、患者の痛みと生存の可能性の向上のために急いで手術を行う必要があったのです。

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3分以下で脚の切断手術を行うことが出来るため、「ウエスト・エンドで最速のメス」と称されていました。彼の功績を讃え、「リストン・メダル」まで開設されています。

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第二次世界大戦の間にポーランド軍に入隊したクマ

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Picture of bear
Wikipedia Commons
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第二次世界大戦中にソ連から撤退する際、ポーランド第2軍団はイランのハマダーンの列車の駅でシリアヒグマの子熊を購入しました。

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兵士たちによってヴォイテクと名付けられたクマ。エサ代や移送費を賄うために、正式に二等兵として軍隊に入隊しました。軍人としてのキャリアの中で、ヴォイテクは最終的に伍長まで昇格します。

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軍の隊列に加わり弾薬を輸送

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Statue of the bear
JANEK SKARZYNSKI/AFP via Getty Images
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ヴォイテクはポーランド第2軍団と共にイタリアへ向かい、ここで第22大砲供給部隊に参加。下士官兵であったヴォイテクは、自分の給与明細、シリアルナンバーを持ち、他の兵士と共にテントや木箱の中で暮らしていました。

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通常なら4名の兵士を必要とする砲弾の輸送を担っていたヴォイテクは、一度も箱を落としたことがないそうです。戦後はエジンバラ動物園に寄贈されました。

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2度回避された核戦争

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Universal History Archive/Getty Images
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第二次世界大戦後、世界は核戦争の危機に直面していました。アメリカとソ連の冷戦中は、どちらが先に手を出すのかと、世界中が息をのみ先行きを見守っていました。

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実際に核爆弾が使用されたのは2回のみです。しかし、過去に2回、とある人物によって世界規模の核ホロコーストが回避されています。回避されなかった場合はどうなっていたかというのは、考えるだけでも恐ろしいですよね。

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世界を救った2人の人物

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Dirck Halstead/Getty Images
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1度目の危機が起きたのは、キューバ危機の真っただ中。ソ連の提督であるヴァリシ・アークヒポヴ(Valisi Arkhipov)は、キューバの近くを潜伏していた潜水艦に乗船していました。無線の信号を受信することが出来なかった彼らは、開戦したのか、攻撃を始めるべきなのか判断することが出来ません。核爆弾を使用するかどうかを決めるため、3名の官僚で決議を取ることになりました。全会一致を必要とする議論に「ノー」の投票をしたのがアークヒポヴです。

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2度目の危機は、1983年にソ連のスタニスラフ・イェフグラーフォヴィチ・ペトロフ中佐によって回避されました。彼がソ連のミサイル検知システムの誤報を特定し、核戦争を防いだのです。軍事命令に背いたペトロフ中佐ですが、結果正しかったのは彼であることが証明されました。

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2度の核爆弾を生き延びた男性

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1945年8月6日と9日、アメリカは第二次世界大戦を終えるために日本の広島と長崎に核爆弾を投下します。この時点では核爆弾の使用は初めてで、その効果は壊滅的なものでした。

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町全体が破壊されただけでなく、死者は9000名にも及び、生き残った人々もその子孫もひどい後遺症に悩まされました。しかし、1度ならず2度も核爆弾を生き延びた人物が存在します。

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生存者、山口彊

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Picture of Tsutomu Yamaguchi
Jemal Countess/WireImage
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2009年、日本政府は山口彊という人物がどちらの原爆にも生き延びたことを正式に発表しました。8月6日に出張で広島を訪れていた彼は爆弾の投下を目撃し、どうにか逃げ切ります。

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8月9日に自宅のある長崎に戻ると2度目の災難に見舞われたものの、どうにか生き延びることが出来たのです。恐ろしい悪運を持つ彼ですが、93歳までご存命でした。

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世界で6番目に大きな軍隊を所有していたペプシ

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Picture of navy
Berliner Verlag/Archiv/picture alliance via Getty Images
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モスコでの「アメリカン・ナショナル・エキシビジョン」中、副大統領のリチャード・ニクソンがソ連のリーダーのニキータ・フルシチョフと熱い議論を起こし、最終的にニクソンがフルシチョフにペプシコーラをプレゼントするという一幕がありました。ペプシが気に入ったフルシチョフは、ペプシ製品をロシアで販売したいと考えます。

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ソ連の通貨は世界であまり認められていないため、ソ連はウォッカとペプシの交換を提案。しかし十分なウォッカを集めることが出来ず、1989年に軍艦との交換に同意します。

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長くは持たなかったペプシ軍艦

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Picture of Pepsi sign
Peter Turnley/Corbis/VCG via Getty Images
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取引後、ペプシは30億ドル(3000億円)相当のペプシ製品と引き換えに、潜水艦17隻、フリゲート1隻、駆逐艦1隻を手にします。取引が完了すると、ソフトドリンクメーカーのペプシは世界で6番目に大きな海軍となりました。

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これを受けて、ペプシの社長はアメリカ国家安全保障局の顧問にこんな冗談をかましています。「君たちより短い期間で我々はソ連を武装解除させているぞ!」当然のごとく、ペプシはすぐにアメリカに軍艦を売却しました。ちなみに、ペプシは現在でもロシア国内で根強い人気を誇っています。

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サンドイッチが原因で第一次世界大戦に発展?

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GPicture of Ferdinand and his wife
Bettmann/Getty Images
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1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステと奥さんのゾフィーは、サラエボ訪問中にボスニア系セルビア人の国家主義者によって暗殺されます。1908年にオーストリア=ハンガリー帝国に併合された共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの軍事演習視察中の出来事でした。

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併合に激怒した国家主義者たちは、訪問中のフェルディナントの殺害計画を企てます。これが結果的に成功してしまい、フェルディナントの死は4年にも渡る第一次世界大戦の引き金となりました。しかし、この事件はサンドイッチがなければ回避できていたかもしれないのです。

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たまたま遭遇

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Picture of 19-year-old Gavrilo Princip
Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
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元々の暗殺計画には、爆発物の使用が予定されていました。爆弾はフェルディナントの後続車にあたったため、大公自身は逃げおおせることが出来たのです。この失敗に腹を立てた19歳の国家主義者のガヴリロ・プリンツィプは、事件後にサンドイッチを買いに近くのカフェに向かいます。

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すると、現場から逃げていたフェルディナント大公の馬車がプリンツィプが訪れていたカフェの目の前に止まったのです。プリンツィプは至近距離からフェルディナント大公とゾフィーに向かって発砲し2人は死亡。世界は第一次世界大戦へと突入しました。

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世界最短の戦争は1時間以内で終了

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Picture of destroyed building
Wikipedia Commons
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世界最短の戦争は1896年の8月27日に勃発したイギリス・ザンジバル戦争で、38~45分ほどで決着がつきました。親イギリスのスルタンであったハマド・ビン・スワイニが1896年8月25日に死去し、ハリド・ビン・バルガシュが後を継いだことから戦いに発展します。

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バルガシュによる継承は、「スルタンになる者はまず英国領事館の商人を受ける必要がある」という1886年に締結した条約に即していませんでした。そのため、イギリスは1時間に及ぶ砲撃攻撃を行ったというわけです。

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自分達の要求を通したイギリス

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Photo12/UIG/Getty Images
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戦いの結果、イギリス軍は500名を殺害。イギリス軍は1名が負傷したのみで済みました。短時間による軍事的敗退を受けたハリド・ビン・バルガシュはドイツ領事館に逃げ込み、そこからドイツ領東アフリカに亡命します。

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他の問題が噴出してくる前に、イギリスは自分達が推していたハムド・ビン・ムハメドをスルタンに選出。傀儡政権を作り出しました。この小さくも冷酷な対立により、主権国家体制としてのザンジバル・スルターン国は終わりを迎え、イギリスの管理の幕開けとなりました。

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オーストラリアに持ち込まれた24匹のウサギが100億匹に

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Bettmann/Getty Images
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現在オーストラリアで外来種に指定されているウサギは、150年以上に渡ってオーストラリアの生態系を破壊し続けています。ウサギの生息数に関する問題の原因と言えるのが、トーマス・オースティンという1人の男性。

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1859年、オースティンは繁殖のために24匹のウサギを輸入しオーストラリアに導入しました。無害に思えるこの行動でしたが、1920年代までにはウサギの頭数は100億匹を超えてしまいます。

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すぐに問題に

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Brendon Thorne/Getty Images
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オースティンがウサギをオーストラリアの地に放ってからというもの、ウサギは数を増やし続け国中に広がり、200万エーカーの土地を破壊しました。ウサギの放牧によって草木が破壊され、周りの生態系は多大な被害をこうむります。

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19世紀にはできるだけ土地を守ろうとフェンスを設置。1950年代までにはオーストラリア政府によってさらなる強硬措置が施され、生物学的な方法でウサギの頭数を操作しています。

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剣、長弓、バグパイプを伴い第二次世界大戦に参加したイギリス軍の士官

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Churchill playing the bagpipes
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"マッド・ジャック"・チャーチルことジョン・チャーチルは、第二次世界大戦中のイギリス軍の士官です。共に戦った兵士からは変わり者扱いを受けていたチャーチルは、長弓、スコットランドのブロードソード、バグパイプを持って戦いに向かっていました。

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戦いの前には、バグパイプを演奏して士気を高めます。彼にはモットーがありました。「剣を持たずに戦いに出る士官などあり得ない」。軍隊に所属中は、彼はその勇敢さを讃えられています。

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軍を去った後は穏やかな生活

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Sunday People/Mirrorpix/Mirrorpix via Getty Images
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キャリアの後半、チャーチルは指揮官としてオーストラリアの陸上・空中軍事学校に勤務。サーフィンをたしなみ、セバーン川の海嘯をサーフィングした初のサーファーとなりました。さらに、自分のサーフボードのデザインも手掛けていたそうです。

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1959年に軍を去ったチャーチルは、無線操縦の軍艦と並び石炭だき船でテムズ川の航海を楽しみました。自分のブリーフケースを汽車の窓から投げたという謎の行動も有名な話です。1996年、89歳でこの世を去りました。

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アーネスト・ヘミングウェイの弟が自国を設立

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Postage for New Atlantis
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1964年、竹でできた巨大な荷船を引っ張ってジャマイカの沖合までやってきたレスター・ヘミングウェイ。ヘミングウェイはこれを小国家と宣言し、半独立・半アメリカ合衆国であるとしました。1856年に制定されたグアノ島法により、アメリカ国民はグアノが堆積している所有者が確定しない島の所有権を宣言することが出来ると主張したのです。

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この国家を「ニュー・アトランティス」と名付けたヘミングウェイは、憲法を創案して住所を登録。残念ですが、2年後には島は嵐で破壊されてしまいます。島は海洋研究の本部として機能させる計画だったそうです。

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レスター・ヘミングウェイも作家

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Bettmann Archive/Getty Images
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アーネスト・ヘミングウェイと彼の功績は多くの人に知れ渡っていますが、弟のレスター・ヘミングウェイはあまり有名ではありません。ニュー・アトランティス発足だけでなく、レスターは本6冊を出版しています。彼の第二次世界大戦中の経験を記した『サウンド・オブ・ザ・テンペスト』がそのひとつです。

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のちに、レスター・ヘミングウェイは兄の伝記、『わが兄、アーネスト・ヘミングウェイ(原題: My brother, Ernest Hemingway)』を執筆。これが評価されて経済的な成功を収めました。