ヘルズ・エンジェルス:誤解されたオートバイクラブの真実
ヘルズ・エンジェルスは、世界最大のオートバイクライブのひとつです。元軍人がつながり合って同士感を得られるように設立されたものが、世界的な団体へと成長していきましした。近年では、ヘルズ・エンジェルスはラスベガスなどでの様々な事件にも関わりを持っています。
1960年代のカウンターカルチャーにおける重要な存在から、メンバー同士の抗争まで、今回は現在のヘルズ・エンジェルズを見ていきましょう。
はじまり
一般的に、ヘルズ・エンジェルスはカリフォルニアのフォンタナにて1948年3月17日に公式に発足したとされています。設立者は、ビショップ家と様々な戦後のオートバイクラブから集まったその他複数の第二次世界大戦の退役軍人たちです。
様々なニュースや犯罪の報道がされていますが、軍の余剰によりオートバイがお手頃な価格で手に入るようになったこと、戦後生活によって若者が停滞しているように感じ軍人の同士感を懐かしく思っていたことが、ヘルズ・エンジェルスの発足の理由だと本人たちは主張しています。
飛行隊のニックネームからインスパイアを受けた名前
ヘルズ・エンジェルスという名前は、設立メンバーの一人であるアーヴィッド・オルセンが提案。オルセンは、第二次世界大戦中、中国にて「ヘルズ・エンジェルス」という名前の飛行隊に所属していました。
「ヘルズ・エンジェルス」という名前は、第一次世界大戦中、第二次世界大戦中に、怖そうな名前を飛行隊につけるというアメリカの軍隊の伝統から生まれた名前のひとつです。
カリフォルニア中に広まった支部
はじめの頃、クラブはかなりの勢いでカリフォルニア中に広まりました。オークランド支部の設立者であるラルフ・"サニー”・バーガーによれば、カリフォルニア州の初期の支部は、サンフランシスコ、オークランド、ガーデナ、フォンタナ、その他のあまり有名ではないエリア数か所にて、設立されました。
当時、支部は自分達のみのことだけを気にかけており、他の支部が存在していたことは知りもしませんでした。最終的に、1950年、異なるグループが集まって、大規模な団体を設立し、内部の規範や入会の条件などのシステムを導入するために協力します。
カウンターカルチャーの礎石だったヘルズ・エンジェルス
1960年代、ヘルズ・エンジェルスは、特にカリフォルニアにおいて、カウンターカルチャームーブメントの中心となりました。サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区で頭角を現し、地元の音楽イベントや社交イベントに頻繁に姿を現すようになります。
ケン・キージー、メリー・プランクスターズ、アレン・ギンズバーグ、ジェリー・ガルシア、グレイトフル・デッド、ローリング・ストーンズなどの音楽やアートにおけるカウンターカルチャーの主要なリーダーたちとの関係性があるメンバーも多数いました。
悪い評判は御免
ヘルズ・エンジェルスやほかの複数のオートバイクラブは、自分達を「ワン・パーセンターのオートバイクラブ」と呼んでいます。「1%のトラブルメーカーのお陰で99%のバイカーの評判が悪くなる」とよく言われていたことから、この名前が呼び名がつけられました。
この名前には、バイカーギャング、特にヘルズ・エンジェルスを取り巻くネガティブなステレオタイプから、自分達を区別する目的がありました。しかし、実際はたくさんのメンバーが、殺人や麻薬取引などで実刑判決を受けています。
世界的に成長
当初、ヘルズ・エンジェルスはカリフォルニアのみに基礎をおいていたものの、1961年に国際的に広がります。同年、カリフォルニア外の最初の支部がニュージーランドのオークランドで発足。これをきっかけに次々と支部が発足し、世界中に広がっていきました。
1969年、初のヨーロッパ支部がロンドンに発足。現在、ヨーロッパだけでも275支部があります。1970年代から現在の間に、オーストラリア、ブラジル、南アフリカ、東ヨーロッパなどに支部が開かれました。新しいエリアにも広がっています。
ヘルズ・エンジェルスの制服
ヘルズ・エンジェルスは、分かりやすい方法で自分たちがメンバーであることを示します。ほぼ常にレザーまたはデニムの「カット」を身につけています。「カット」とは、オートバイ用ベストのスラングです。カットには、様々なパッチが付いています。例えば、背中の部分に「ヘルズ・エンジェルス」の名前と下の部分に所属支部のパッチが付いているといったようにです。
フルメンバーである場合、赤と白の羽の「デス・ヘッド」のロゴ、「HAMC (ヘルズ・エンジェルス・モーターサイクル・クラブ)」、数字の「81」が付いています。81は、HとAを示します。Hはアルファベット順で8番目、Aはアルファベット順で1番目のためです。クラブに所属していく中で、メンバー様々なパッチを獲得することができます。
ヘルズ・エンジェルスになる方法
ヘルズ・エンジェルス・モーターサイクル・クラブのメンバーになることは、容易なことではありません。これは、数年かかるプロセスで、そこまでたどりつけない場合もたくさんあります。
はじめに、ちゃんとしたオートバイの免許証があり、750 CC以上のハーレーダビッドソンを所有していて、クラブに合った人格を持っていなくてはいけません。児童虐待の罪に問われたこと、警察や刑務官の職に応募したことがないことが条件です。他の条件に関しては、一般には公開されていません。
ハングアラウンド
正式なメンバーに認定されると、「ハングアラウンド」になることができます。これはプロセスの最初の段階です。候補者は、クラブのミーティングに招待されたり、屋外でクラブメンバーに会ったりすることができます。
ハングアラウンドになることで、他のメンバーに会い、コネを増やし、ヘルズ・エンジェルスのメンバーとしてライフスタイルを味わう機会を得ます。
次はプロスペクト
しばらくして、ハングアラウンドがまだ興味を示している場合、アソシエートになるよう誘われるかもしれません。この間、アソシエートはイベントに参加したり、メンバーと時間を過ごしたりして、クラブに自分の価値を証明します。アソシエートとして数年を終えると、次にプロスペクトになります。
プロスペクトはメンバーのみのミーティングに参加することができますが、クラブの決め事に関する投票権はありません。プロスペクトは、クラブのフルメンバーとして本当に迎えたいかを決めるため、メンバーによって試練に課されることがあります。プロペクトは、州や支部のパッチが入ったカットを着ることが許されています。
全会一致の投票が必要なフルパッチメンバー
プロセスの最後のステップは、フルメンバーからの投票です。これを実現させるためには、プロスペクトは支部のメンバーから全会一致で投票されなくてはいけません。さらに投票の前には、プロスペクトは各エリアの支部ヘ向かい、クラブへの献身を示すために自己紹介をして回る必要があります。
自分自身の支部から投票されたのち、プロスペクトはヘルズ・エンジェルスのロッカーと、「デス・ヘッド」のロゴを与えられます (入団セレモニーにて贈呈)。フルメンバーとしての称号を獲得すると、「パッチ済み」と呼ばれます。
「フィルシー・フュー (Filthy Few)」と「デクィアロ (Dequiallo)」のパッチ
トニー・トンプソンによる著書、『ギャング達』の中で、特別な性質を持ったメンバーに与えられる他のパッチがあるとトンプソンは説明しています。ナチススタイルのSS型の稲妻マークの「フィルシー・フュー (Filthy Few)」もその一つ。これは、クラブのために殺人を犯したまたは犯す意思のあるメンバーに与えられるパッチだとされています。
「デクィアロ (Dequiallo)」と呼ばれるパッチも存在します。この特定のパッチは、逮捕されている時に警察に暴力で立ち向かったメンバーが着用しています。他にも、クラブへの献身を示し、達成した偉業を讃える特別なパッチが存在します。
ハンター・S・トンプソンとヘルズ・エンジェルス
ゴンゾー・ジャーナリストのハンター・S・トンプソンは、元々ヘルズ・エンジェルスの力を借りてキャリアをスタートさせたと言っても過言ではありません。彼の著書、『ヘルズ・エンジェルズ―地獄の天使たち 異様で恐ろしいサガ』のため、彼はクラブともに1年を過ごしています。
しかし、トンプソンはのちにクラブと仲たがいをしてしまいます。メンバーから自分の奥さんが殴られるのを止めようとして、結局自分がボコボコにされる羽目になりました。さらに、個人的な利益のためにクラブを利用したと非難され、売り上げの一部の共有をクラブから要求されます。本は大ヒットとなったものの、トンプソンが売り上げをクラブと共有することはありませんでした。
オルタモントコンサート事件
1969年、オルタモント・フリーコンサートにて、ヘルズ・エンジェルスはイベントの警備員として雇われました。誰がクラブを雇ったのかに関しては未だ議論がなされていますが、一般とミュージシャンたちがよく思っていなかったことは周知の事実です。
乱暴なコンサートの観客をボコボコにしたことに加え、メレディス・ハンターという男性が銃を持ちだす深刻な事件まで発生。ハンターはすぐにヘルズ・エンジェルスのメンバーに攻撃されます。結局、パッサロというメンバーによって、地面の抑え込まれたまま刺し殺されたハンター。パッサロは殺人罪で警察につかまりますが、ハンターが銃を持っている映像の確認が取れると、正当防衛として無罪となりました。
ヘルズ・エンジェルスは人種差別主義者か?
ヘルズ・エンジェルスは人種分離団体ではないと主張していますが、メンバーを見るだけでその主張を疑いたくなりますよね。2000年のインタビューにて、サニー・バーガーは次のように述べています。「クラブ全体としては、人種差別主義者ではない。ただ、黒人を入れまいとするのに十分な数だけの人種差別主義メンバーはいるだろう」
さらに、「白人ならヘルズ・エンジェルスに、黒人ならドラゴンズに」、というのはよく言われることです。ただ、ドラゴンズのリーダーであるトビー・レビングストンは、「サニーは古い友人で、2つのクラブはうまくやっている」と話しています。
支部同士がぶつかり合いレノックスビルの虐殺に
ヘルズ・エンジェルスの支部の一部は、顔を合わせることすらできないほど険悪です。1985年、ヘルズ・エンジェルス・ノース・ラバル・ケベックの5人のメンバーが、モントリオール、ケベック、ノバスコシア支部のメンバーによって殺害されました。
被害者は責任ある上層部のメンバーだったとされています。彼らはレノックスビルのクラブハウスに呼び出され、殴られたあと射殺され、遺体はセント・ローレンス川に廃棄されました。5名のメンバーが終身刑を言い渡されていましたが、2013年に全員釈放されています。事件はレノックスビルの虐殺として語り継がれることとなりました。
同クラブが元になっている『サンズ・オブ・アナーキー』
カート・サッターによるテレビドラマの『サンズ・オブ・アナーキー』は、ヘルズ・エンジェルスが元になっています。多くの出来事や重要なポイントは、すべて歴史の中でヘルズ・エンジェルスが経験してきたことです。
デイビッド・ラヴラーヴァ、チャック・ジト、ラスティ・クーンズ、サニー・バーガーなど、本物のヘルズ・エンジェルスメンバーも出演しています。カートは、信憑性と正確さを追求するために、ラヴラーヴァを技術アドバイザーとしても迎えています。さらにラヴラーヴァは、ドラマの重要な役どころ、「ハッピー」を演じています。
サニー・バーガーこそヘルズ・エンジェルス
サニー・バーガーは、自分こそヘルズ・エンジェルスの顔で権威であることを証明してきました。どの支部にも支部ごとのリーダーがいて、個々で機能していますが、サニー・バーガーのことは誰もが尊敬しています。彼は、オークランド支部のオリジナル設立メンバーです。
78歳で現役でバイクを乗りこなしているサニーは、最もメンバー歴が長く、人生のほとんどを塀の外で過ごしています。1988年にライバルギャングのクラブハウスを爆破させようとして4年間服役したものの、それ以外は比較的トラブルとは無縁。その評判から、サニーは様々な映画やテレビ番組に出演し、自分自身の人生とクラブに関する本も出版しています。
モーリス・”ママ”・ブーシェー
クラブのいい面を代表するヘルズ・エンジェルスの顔と言えばサニー・バーガーですが、モーリス・"ママ”・ブーシェーは真逆です。クラブの歴史の中でも最も悪名高き元リーダー。8年間に及ぶケベック・バイカー戦争時代のモントリオール支部のリーダーで、殺人と麻薬取引の罪で3つの終身刑判決を受けています。
ヘルズ・エンジェルスになる前、彼は白人至上主義のバイカーギャングのSSに所属していました。さらに、レノックスビルの虐殺の首謀者でもあるモーリスは、最も冷血なメンバーのひとりと言えるでしょう。
訴訟経験のあるヘルズ・エンジェルス
オートバイに乗るただのオトコの集まり以上の団体に進化したヘルズ・エンジェルスは、それなりの訴訟も起こしています。2007年、ヘルズ・エンジェルスは許可なしに『団塊ボーイズ』でヘルズ・エンジェルスのロゴを使用したとしてディズニーを提訴。
さらに2010年には、翼の生えた「デス・ヘッド」シンボルの誤用でアレキサンダー・マックイーン、同シンボルをモチーフにしたリングの販売でサックス・フィフスとZappos.comを訴えています。2012年、クラブは「デス・ヘッド」のロゴがプリントされているとヘルズ・エンジェルスが主張するヨーヨーの販売でトイザらスを提訴しました。今ご紹介したのは、クラブが訴えた企業のごく一部。ヘルズ・エンジェルスは、自分達のブランドをかなり深刻にとらえているようですね。
ジョージ・クリスティー:ベンチュラ支部リーダー
ジョージ・クリスティーは、ヘルズ・エンジェルスのカリフォルニア、ベンチュラ支部の元リーダーです。リーダー時代、クラブ史上最も長く在位したリーダーとして君臨していました。2001年クラブを去りますが、その去り際は疑惑の残るものでした。一部では、警察に協力しておりクラブ上の立場が悪くなったためと言われています。
2013年、火炎瓶の投げ込み、ベンチュラにあるタトゥーショップの強要罪で、ジョージは1年の懲役1年の判決を受けます。その後、歴史チャンネルの『バイクに乗ったギャング集団「ヘルズ・エンジェルス」』とコラボをし、今後は初の著書を出版予定です。
ベンチュラからの拒絶
2003年、ヘルズ・エンジェルスのリーダーであるジョージ・クリスティーは、ベンチュラ郡フェアへの入場を拒否されています。しかし、これは初めてのことではありません。前年の2002年、ヘルズ・エンジェルスのユニフォームとタトゥーを禁止したフェアのポリシーを破ろうとして、同様にアクセスを拒否されています。
ジョージは次のように話しています。「ヘルズ・エンジェルスは自分達のためのものでもあるが、実際はそれ以上だ。俺は軽々しく参加してるわけではないし、週末だけする趣味でもない。俺は、24時間ヘルズ・エンジェルスなんだ。俺はこれに人生を捧げてきた。俺にとっちゃ宗教みたいなもんだよ」
敬意を払われない
2年連続入場を拒否されたジョージですが、フェアの担当者はクラブのユニフォームさえ身につけなければフェアへの入場を許す、と発表しました。それに対し、クラブは即「差別」を訴えます。
ヘルズ・エンジェルスのメンバーは、自分達が法を守る市民であり、ギャングと間違われては困る、と考えています。ジョージは、ヘルズ・エンジェルスがストリートギャングだという証拠がないとした裁判官の2002年の判決を引き合いに出して、この主張を強調しています。
和平を示したいジョージ
よっぽどフェアに行きたかったのでしょうか。参加数日前に、ジョージは事前にフェアの担当者に連絡を入れています。その後、控えめに家族だけを伴って現れました。
「ベンチュラ警察内で意見があったんだ。暴力のような予期せぬ問題が起こるんじゃないかって。俺はそうは思わないし、家族だけを連れて行くことでそれを証明しようとしたんだよ。こういうちゃんとしたふるまいをする奴なら、許してやってもいいと思うだろ?」
オット・フリードリ:ヘルズ・エンジェルスの発足者
オット・フリードリは、「ピスト・オフ・バスタード・オブ・ブルーミントン・モーターサイクル・クラブ (イラつき野郎のブルーミントン・モーターサイクル・クラブの意)」のオリジナルメンバーのひとりです。同クラブを去った後、1948年に発足者のひとりとしてヘルズ・エンジェルスメンバーになります。サンバーナーディーノの支部長を務めつつ、国内総リーダーとしても活躍しました。
サニー・バーガーがクラブの国内総リーダーに就任したのは、オットが刑務所行きになってからのことです。釈放後、オットは穏便にヘルズ・エンジェルスと決別し、ブラックシープ・モーターサイクル・ミニストリーに参加しています。
テリー・ザ・トランプ:カリフォルニアのオークランド
テリー・ザ・トランプは、カリフォルニアのオークランド支部の古いメンバーです。映画『ヘルズ・エンジェルス69』でフューチャーされ、トンプソンの『ヘルズ・エンジェルズ―地獄の天使たち 異様で恐ろしいサガ』の中でもたびたび名前が挙がっています。
クラブに参加している間、自らの名前を知らしめて、サニー・バーガー時代に伝説のメンバーとなりました。しかし、ドラッグの大量摂取によって、1970年に30歳で永眠。今でもヘルズ・エンジェルスの鏡としてたびたび名前が挙がっているメンバーです。
イブ・”アパッチ”・トルードー:カナダ、ケベック
「マッド・バンパー」ことイブ・トルードーラは、ケベック州のラベルにあるカナダのヘルズ・エンジェルスの元メンバーです。イブはコカイン中毒によって被害妄想を起こし、メンバーに殺されそうだと思い込むようになります。そのため。最終的に警察の諜報員になりました。
終身刑の刑期短縮 (さらに7年の仮釈放の可能性) の引き換えに、イブは1973年9月から1985年7月の間に43名を殺害したことを認めます。1994年に仮釈放で釈放された際には新しい名前を与えられますが、2004年に幼い少年に性的暴行を加え再逮捕され、さらに懲役4年の判決を受けました。その後ガンの診断を受け、別の刑務所に身柄を転送されています。
ミック・ジャガーを殺そうとした?
どうやら、ミック・ジャガーは何かとヘルズ・エンジェルスと関りがあるようです。ドラッグや元カノなど、色々乗り越えてきたミック。BBCラジオが真実を報道して初めて明らかになった、彼にまつわる知られざる事件があります。ローリング・ストーンズのボーカルの暗殺計画が実行されそうになったのは、人気絶頂の70年代のことでした。
ミック・ジャガーに攻撃を仕掛けたのは、ヘルズ・エンジェルス。元FBIエージェントによれば、「ハンプトンズにある別荘でミック・ジャガーを片付ける」という暗殺計画だったようです。
ヒミツの計画
計画は、気づかれないように海からこっそりミック・ジャガーに忍び寄る、というもの。ヘルズ・エンジェルスはタフなグループかもしれませんが、さすがに暗殺に熟達している可能性はかなり低そうですよね。
庭から敷地内に侵入して、正面の警備員を避けるため、海からの攻撃を計画したようです」と、FBIの変わった歴史を紹介するBBCのラジオ4のプレゼンター、トム・マンゴールドが明かしています。
予期せぬ展開
1分1秒がクレイジーなこちらの事件。ヘルズ・エンジェルスたちはボートに乗り込み、準備を進めます。しかし、結局嵐に襲われて海の藻屑となってしまったそうです。
「グループは全ての道具を用意してボートに乗り込みました」と、マンゴールドは説明します。「しかし、ボートが嵐に襲われて、乗組員全員が海に投げ出されてしまったのです」。ミック・ジャガーには、自然を自在に操る力があるのでしょうか?
しっぽを掴んだFBI
FBIの創設者は、ヘルズ・エンジェルスは犯罪者グループだと考えています。そのため、とある作戦を考え出したのです。その作戦というのが、自らのエージェントをギャングの各支部へ潜入捜査に送り込むこと。これにはかなりのリスクが伴います。ミック・ジャガーの暗殺計画に関する情報を得たのは、この潜入捜査官のひとりでした。
トム・マンゴールドによれば、「FBIが計画を知ったのは、計画がとん挫してからしばらく経ってのことでした」。
コソコソ動くことで得た情報
FBIが事実を知ったのは計画とん挫後でしたが、それでも貴重な情報でした。FBIがヘルズ・エンジェルスを追い続ける理由ができたからです。
「どうやら、このエージェントが計画と失敗について知らされたのは、実際に事が起こってしばらくしてからだったようです。ただ、正確にいつ計画が実行されたのかに関しては明らかになっていません」(トム・マンゴールド)
FBIがしたこと
「実際に犯罪がおかされたわけではないため、FBIは手出しすることができません。そういうものなんです」(トム・マンゴールド)
ミック・ジャガー自身は、自分の命が狙われていたことすら知らないと考えられています。この話が表向きにならないことには理由があります。まだはっきりしないことが多く正直報道することがない、というのが現実です。何かとヒミツの多いヘルズ・エンジェルスの閉ざされたドアの内側で起こった行動に関しては、報道のしようがありません。
ザ・ロック・マシーンとのトラブル
同じことをする2つのグループの間に、ライバル心のようなものが生まれることは自然な流れですよね。全く同じとまでは行きませんが、ザ・ロック・マシーンとヘルズ・エンジェルスの間にはたくさんの共通点があります。そんな2つのグループは、一時期戦争状態にありました。
「ザ・ロック・マシーンは、1986年から2002年の間のヘルズ・エンジェルスにとっての有名なライバル」と『ザ・リッチエスト』では報道しています。「ケベックバイカー戦争は、このライバル心がきっかけです。権力争いは4年間にも及び、2つのクラブは禁止薬物の流通やテリトリーの権利に関してもめていました」
ヘルズ・エンジェルスに関する本
ハンター・S・トンプソンと彼が出版した本に関しては、すでに軽く触れました。それでは、もう少しこの本の内容を見ていきましょう。1966年に本を執筆されたものの、ヘルズ・エンジェルスをうまく描き出したとは言えない内容でした。
「残念ながら、本の中ではヘルズ・エンジェルスたちが感情的にも知的にも空っぽというイメージで描かれていました。これが理由で、この有名作家とクラブの関係が悪化します。エンジェルズたちは、研究のために密着することを許したにも関わらず、ハンターが自分達のことを悪く言っていることに腹を立てていたのです」(『ザ・リッチエスト』)
ヘルズ・エンジェルスとつるむ女性たち
ヘルズ・エンジェルスのライフスタイルに憧れる女性たちもいます。ヘルズ・エンジェルスの歴史の中で、たくさんの女性がバイクの後部座席に乗り込みカメラに中指を立ててきました。その多くが「support your local 81 (地元のヘルズ・エンジェルスを支援しよう)」とかかれたヘルズ・エンジェルスのカットを着こんでいます。
彼らのバイクに乗り込むのは、彼女達だけではありません。ヘルズ・エンジェルスのスリルが大好きな奥様達もたくさんいます。
危険なライフスタイル
ヘルズ・エンジェルスのバイクに乗る多くの女性は、男性陣と同じくらい身を捧げています。女性自身がバイクを乗り回すことは珍しいですが、女性はヘルズ・エンジェルスのコミュニティーに参加することができます。
こういった冒険心のある女性たちはリスクを冒すことも恐れません。クラブに対する「コミットメント」を見せます。クラブに関わる多くの女性が、メンバーの彼女または奥さんです。ヘルズ・エンジェルスカップルが別れる時は、かなりの修羅場になりそうですね…。
ヘルズ・エンジェルスが集まるとどうなるのか
ヘルズ・エンジェルスは、大人数でのロードトリップのために集まることがあります。ポーランドで行われた2016年のワールドランインベントでは、1,000名以上のヘルズ・エンジェルスメンバーがヨーロッパ各国から集まり参加しました。
ヘルズ・エンジェルスは、世界中で公式イベントを開いています。地元の警察の神経を逆なでするようなイベントですが、意外にもきちんと整備されています。亡くなったメンバーに対するメモリアルライドや、トイ・ランなどの子どもや大義のためのライドも開催されます。
クラブハウス
暴力と犯罪の評判のため、ヘルズ・エンジェルスのクラブハウスは世界中の警察から目をつけられています。こちらのビルは、トロントのイースタン・アベニューにあるヘルズ・エンジェルスの元クラブハウスです。
政府はクラブを追い出して、この建物を売りに出しました。その売却金は、犯罪関連の法案を支援するために役立てられています。次は、ドイツで起こったヘルズ・エンジェルスのクラブハウスへの襲撃!
ドイツのクラブハウスで起こった100名体制の警察の襲撃
ドイツのケルンのヘルズ・エンジェルスのクラブハウスへの襲撃を警察が決めた際、かなり周到な準備が行われました。2017年5月、武器を装備したドイツの警察官100名がクラブハウスへ乗り込み、破城槌や鉄製の檻で応戦します。
警察は武器を回収し、12名のメンバーを逮捕。この襲撃は、ヘルズ・エンジェルスと別のギャングのバンディドス間の暴力がエスカレートしたため実行されました。
ヘルズ・エンジェルス式の大みそかの祝い方
あけましておめでとうございます!写真に写っているのは、1983年の始まりを祝ってキスをかわす、ヨハネスブルグのヘルズ・エンジェルス支部のメンバー達です。ヘルズ・エンジェルスのメンバーの一人が、南アフリカのヒルブロウで行われたパーティーでの他のメンバーの行動にびっくりしている様子が映し出されています。
グループが運営するウェブサイトによれば、南アフリカにはケープタウンとジョージタウンを含めヘルズ・エンジェルスの支部が8つあります。次は、ベトナム戦争に反応したヘルズ・エンジェルス。
ベトナム戦争への抗議者への攻撃
アメリカ国内にも国外にも大きな影響を及ぼしたベトナム戦争。1965年、カリフォルニアのバークレーとオークランドの境界線の付近で、ベトナム戦争の抗議デモが開かれます。抗議者がオークランド側に入ってくる事を阻止するために、ヘルズ・エンジェルスのメンバー35名はバリケードに近づいてくる抗議者に攻撃を仕掛けました。
戦いが続き、バークレーの警察のひとりが足を骨折。この事件の後に逮捕されたメンバーは2人のみです。
バークレーでの攻撃に関する反応
ヘルズ・エンジェルスのメンバーがベトナム戦争の抗議者に攻撃を仕掛けてから1か月後、グループは記者会見を開きました。サニー・バーガーは、ヘルズ・エンジェルスとしては抗議者が新たに行おうしているデモの計画には賛同できないと発表します。
サニーは次のように語っています。「抗議者が俺たちに暴力を仕掛けるように挑発することを恐れたんだ」。写真に写っているの左から、タイニー・ウォルターズ、ロン・ジェイコブソン、スキップ・ワークマン、サニー・バーガー、トム・トーマスです。
ヘルズ・エンジェルスよ、永遠に
1983年、『ヘルズ・エンジェルス・フォーエバー』と題されたドキュメンタリーが公開されました。故ロビン・ウィリアムズと奥さんのヴァレリーがプレミアを記念したパーティーに参加しています。
イベントには、チャック・ジト (写真右) 、ヘルズ・エンジェルスのニューヨーク支部の副リーダーなども参加しました。『ニューヨークタイムズ』では、同映画を次のように評しています。「自己陶酔的かつ被害妄想で自意識過剰なホームムービー」
ヘルズ・エンジェルスの結婚式
元々『マンチェスター・デイリー・エキスプレス』に掲載されたこちらの写真では、パートナーのマリー・クラークソンと結婚した直後のヘルズ・エンジェルスのメンバー、ジョン・フェルニホーを写し出しています。イギリス人の新郎は17歳、新婦は16歳でした。2人の結婚式は、地元の市役所で1971年の10月に行われています。
最近のヘルズ・エンジェルスの結婚式は、暴力沙汰にもなっています。2008年のラスベガスでの結婚式では、暴力沙汰で13名が逮捕される事態になりました。お次は、ヘルズ・エンジェルスの50周年記念。
50周年記念
1998年3月17日、ヘルズ・エンジェルスの結成から50周年を迎えました。この日を祝うために、世界中の支部がパーティーを開いています。こちらの写真では、ベンチュラ郡裁判所の前に集まる地元メンバーと別の支部のメンバーが写っています。
ベンチュラ支部の当時のリーダーであるジョージ・クリスティー・ジュニアは、クラブハウスで行われた式典に参加するように10代の麻薬組織のメンバーを招待。未成年の少年は、自分の15歳の誕生日までクラブハウスでお祝いしています。
ストーナー・ロッジ
ヘルズ・エンジェルスのリラクゼーションと言えば?1986年であれば、行先はストーナー・ロッジで決まりです。このロッジは、コロラド州のサン・ワン山脈に所在します。1986年の8月には、サニー・バーガーのパーティーもここで開かれています。およそ200名のヘルズ・エンジェルスのメンバーが家族と共に参加しました。
このロッジは、2016年に1,390万ドルで市場に出されました。写真は、パーティーのために集まるヘルズ・エンジェルスメンバー達です。
イメージの見直し
1978年、ヘルズ・エンジェルスのマンハッタン支部が、自分達のイメージの改善を試みます。グループが行ったのはパーティーの主催。1978年2月28日、盛大な宴がスラッシュナイトクラブで行われました。
エンジェルス達は、女性参加者と共に報道陣を招待。この写真は元々、「新しいイメージがコレ」のキャプションを添えて『ニューヨーク・ポスト』に掲載されたものです。さて、それではヘルズ・エンジェルスがLSDを導入した際にはどんな反応があったのでしょうか?
メリー・プランクスターズはヘルズ・エンジェルスを歓迎
1965年8月7日土曜日、カウンターカルチャー作家でLSD好きのケン・キージーが、カリフォルニアにある農場、ラ・ホンダでパーティーを開催しました。メリー・プランクスターズとして知られている普段の知識人の友人に加えて、ケンはヘルズ・エンジェルスを招待します。「メリー・プランクスターズはヘルズ・エンジェルスを歓迎」と書かれたバナーが入口に掲げられていました。
いくつかの証言によれば、このパーティー中にケンがエンジェルスにLDSを紹介しています。こちらの写真は、「アシッド・テスト・グラジュエーション」と命名されたケンの別のパーティーで踊るエンジェルスが映し出されています。
ヘルズ・エンジェルスの葬儀
「ジェントルマン・ジェリー」の名で知られていたジェリー・トビンは、有名かつ人気のロンドン支部のメンバーでした。2008年、地元のアウトローズグループのメンバーに銃殺されます。ブルドッグ・バッシュ・バイカーズ・フェスティバルに参加した直後のことでした。
彼の葬儀には、バイクに乗った1000名のヘルズ・エンジェルスが21キロの列をなして彼の棺に続きました。ジェリーを殺したアウトローズのメンバーは、全員終身刑となっています。努力むなしく、ヘルズ・エンジェルスがただのバイククラブであることはなかなか認めてもらえないようです。
ただのクラブ以上
ただのクラブでありそれ以上のものでない、ということを証明しようとする本人たちの努力もむなしく、彼らの主張に信憑性がないことを裏付けするものがあとからあとから出てきます。アメリカ中にドラッグと風俗を広めようとしているとしか思えません。
『ザ・リッチエスト』では、「カナダにおける90%のドラッグと風俗がヘルズ・エンジェルス関連である」と報道しています。普通のバイククラブというよりは、ギャング活動のように聞こえますよね?
トロントの元知事の関わり
地位の高い政治家が怪しい活動に関連しているとなれば、いずれニュースになります。トロントの元知事であるロブ・フォードがヘルズ・エンジェルスのメンバーと写真撮影をしているところが目撃されると、人びとは彼らの関係性を疑うようになりました。
元知事は、以前からコカインを吸っているところや、人種差別的な発言をしているところを目撃されています。ヘルズ・エンジェルスとの写真が漏れると彼は関係性を否定しましたが、市民はまるで信じていません。
秘密を洩らしたジョージ・クリスティー
ヘルズ・エンジェルス史上最も長くリーダーとして君臨したジョージ・クリスティーは、『バイクに乗ったギャング集団「ヘルズ・エンジェルス」』の中で、同グループに関して赤裸々に語っています。クラブに関するたくさんのヒミツを暴露し、ギャングではないということを強調しました。
「俺は6エピソードの中でずっと言い続けているが、ヘルズ・エンジェルスは犯罪組織じゃない。ただ他の組織と同じで、組織内に犯罪者が多少いるってだけだ」、と強調しています。
ジョージの考え
ヘルズ・エンジェルスが本質と異なるグループとして混同されることに嫌気が差したため、真実を語ることを決意したジョージ。さらに、第三者ではなくメンバーである自身の口から語ることが重要だと考えていました。
「俺の立場から俺の言葉で物語を語ることが大事だと思ったんだ。警察からの視点とは違うから面白いだろ。物語ってのはこうやって語られるんだ。ユニークなもんなんだよ」(ジョージ・クリスティー)
標的にされることを恐れている?
深刻な「落とし前」なしに、ギャングを抜けることは難しいでしょう。ただ、ヘルズ・エンジェルスはギャングではないはずです。それでも、自分達に関して公に話す相手に対しては報復することで知られています。
ジョージは次のように話しています。「俺にとっては問題ではないかな。異議を唱えるやつもいるけど。グループのリーダーを35年もやってて、それなりの評判を作って辞めるってなったら、まぁ、気に入らないってやつが少しはいるもんだよ」
離婚のよう
これに共感できる人もいるのではないでしょうか。ジョージは、クラブに身を追われることを心配しているわけではありません。ただ、クラブを去ることは、たくさんの人が共感できるであろう「アレ」を思い起こさせるのです。
「やめた時、離婚みたいだなって思ったよ。はじめみんな友好的にいたがるんだ。俺の決断に不満だったけど、理解してくれたよ。でも、全てが進んでいくにつれ、状況が悪化してくるんだ。受け入れるのは辛かったよ」
ジョージが惹かれた物とは?
人が何かに思いっきり入れ込んでいる時には、理由があります。人によっては、ヘルズ・エンジェルスに参加することで兄弟愛のようなものを感じていたのではないでしょうか。ジョージにとっては、ヘルズ・エンジェルスは行動規範のようなものでした。
「多くの人が考えることとは裏腹に、行動規範のようなものだって感じてたんだ。俺が信頼できるヤツラなんだ。俺が何か告白したり、話したりしたら、その情報を俺の逆手に利用することなんて絶対しないって、分かってるんだよ」
きちんとした評判が欲しいだけ
ジョージは、自分が発信することで様々な議論がされるようになって、ヘルズ・エンジェルスをよく知らない人にもっと知ってもらうきっかけになる、と考えています。みんながみんな、メディアの偏った報道による誤った認識を持った人達ばかりではないはずです。
「俺が視聴者に理解してもらいたいのは、ヘルズ・エンジェルスとその主要な機能をみんなが誤解してるってことだ」とジョージは話しています。彼の思いが視聴者に届くといいですね。
なぜやめたのか?
長い間力のある地位にいた人にとって、身を引くというのは難しいことなのではないでしょうか。もはや新しい世界に入って行くような面持ちのはずです。数十年に渡りリーダーを務めてきたジョージですが、なぜクラブを去ることにしたのでしょうか?
「俺らがならまいと反抗してきたような人間になったように感じたんだ。俺が辞めた時のミーティングでも、メンバーには話したよ。一回、沿岸にあるクラブ全部とひと悶着起こしてる時があって、2011年までにはアメリカ中のアウトローなバイククラブと警察ともめてたんだよね」
本を出版予定
自分の名前を悪く言われて悪い期待ばかりを持たれると、物事を正しておきたくなりますよね?誤った情報が私生活に影響を及ぼしている場合はなおさらです。これこそ、ジョージが本の執筆を決意した理由です。
「突然、会ったこともないヤツ、クラブのメンバーでもないヤツ、緩いメンバーかファンかなんかみたいなヤツラがよってきて、あれやこれや非難してくるんだ。だから、誤解を解こうって思ったんだよ」