ハーレーダビッドソンの100年以上の歴史
現在の象徴的なアメリカの企業を考えてみると、技術大企業のグーグル、アマゾン、フェイスブックなどを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、アメリカの初期のブランド、ハーレーダビッドソンはどうでしょうか?この象徴的なオートバイメーカーほど、アメリカンドリームを体現している企業はそうそうありません。
3メートルx4.6メートルの小さな小屋からはじまり、大恐慌を生き延びてオートバイ業界を独占するまで、ハーレーダビッドソンは100年以上に渡ってアメリカの強さとたくましさを証明してきました。今回は、100年の歴史あるオートバイメーカーが、どのようにしてアメリカの歴史で重要な役割を果たし続けてきたのかを見ていきましょう。
小屋で製作された初のハーレーダビッドソン
さて、実質同社の初の工場となる場所は、ダビッドソン家の裏庭の小屋でした。1903年、ウィリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンは、初の「リアルな」オートバイを製作します。
このオートバイは、ミルウォーキー・メルケルのデザインに基づいていますが、エンジンとフレームデザインはより大きな造りになっています。これが初めてのデザインですが、1年もせずにプロトタイプは改良されます。
静かな乗り物として知られていた?
どでかいブンブンするV型2気筒エンジンを搭載するかなり前には、ハーレーダビッドソンは他のオートバイに比べて静かであることを誇っていました。エンジンを静かにさせるため、何年もかけて改良を行ったのです。これは、1900年代初期、彼らがオートバイを「高級な洗練された移動手段にさせたい」と考えていたためです。
初期の広告では、立派な見た目の男性がバイクに乗っている姿を映し出しています。ハーレーダビッドソンには、「静かな白髪の紳士」というあだ名までついていました。これは、現在のイメージとは少し異なりますよね?
大恐慌を生き延びたメーカー
何らかの利益を出して1930年代を切り抜けた企業はほとんど存在しません。ハーレーダビッドソンも、初めは苦戦します。1929年の株価大暴落のあと、ハーレーダビッドソンはコストを削減して戦力を減らしますが、それでも十分ではありませんでした。
日本の三共製薬と提携をしてから、持ち直してきたハーレーダビッドソン。「今のハーレーダビッドソンがあるのは、国際市場と日本の工場のお陰だ」、と話す人も少なくありません。
象徴的なエンジンのアイディアは盗んだもの?!
ハーレーダビッドソンは、V型2気筒エンジンとよく関連付けられます。オートバイ乗りでない方のために説明すると、これは内燃機関用のVの形をした2つのシリンダーを搭載したエンジンです。ハーレーダビットソンは、1909年に初のV型2気筒エンジンのオートバイを世に送り出し、このエンジンタイプはそれ以降同ブランドで活躍しています。
しかし、V型2気筒を初めて投入したのはハーレーダビッドソンではありません。同社のライバル、インディアンモーターサイクルが、1904年にV型2気筒エンジンを発表しています。それより良いものを考えだすのではなく、ハーレーダビッドソンはそのままアイディアを頂くことにしたのです。
チョッパー文化はハーレーダビットソンが発端
チョッパースタイルのバイクは、第二次世界大戦から戻ってきて自分たちのオートバイを改造した退役軍人2人によって生み出されました。彼らは戦時中にダビッドソンを乗り回していて、スピードとパワーを求めていたのです。しかし、戦争から戻ってくると、通常版のオートバイではどちらか一つしか叶いません。
妥協案として、強力な通常版ハーレーダビッドソンを購入して、フェンダーを「切り落として(チョップ)」軽量化し、速度をあげました。「チョッパー」という名前は、これが由来となっています。
レーシングバイクとして有名に
ハーレーダビッドソンのオートバイは、初めて平均毎時160キロで走行することが出来たオートバイのひとつです。そのため、レーサーにも好まれていました。そのレーサーの中でも有名な人物のひとりが、オットー・ウォーカー。ハーレーダビッドソンがスポンサーをしていた彼は、速度記録を打ち破っています。
1921年、ウォーカーは毎時160キロ以上でレースに優勝し、人びとはこのバイクの能力の高さに気づいたのです。
一番の顧客は警察
創業間もなくから、アメリカ中の警察からカスタムバイクの注文が殺到します。警察にとってのオートバイは、動き回って犯罪を止めるために、素早く機動性の利く簡単な手段であることが重要です。いうまでもなく、これはコスト的にも効率が良くなります。
1907年、ハーレーダビッドソンはアメリカの40%以上の警察所にバイクを提供していました。今日でも、アメリカの警察ではハーレーダビッドソンのオートバイが多く使われています。
ハーレーダビッドソンの「音」には理由がある
オートバイ好きの多くは、ハーレーダビッドソンのエンジン音を遠くからでも聞き分けられます。同社の初期のオートバイのいくつかには、複数のスパークプラグが搭載されています。これらのスパークがハーレーダビッドソンの45度モーターと合わさって、皆さんご存知の独特のしわがれた音を出します。「ポテトサウンド」というあだ名でも、親しまれています。
ハーレーダビッドソンのオートバイの音は独特で、同社は商標登録を考えたこともあるそうです。
どれほどの騒音なのか
ハーレーダビッドソンの独特のエンジン音の理由がわかったところで、どれだけの騒音なのか、知りたくないですか?排気口からでるこの音は、およそ80デシベルです。わかりやすく言うと、車はハイスピードで50デシベル、チェーンソーは120デシベルです。
ハーレーの所有者がマフラーを取り外すと、音は100デシベルに到達することもあります!そこまでのレベルに到達すると、耳を保護していない場合、15分で聴力を完全に失うことになります。
売り上げの5%は洋服のラインから
今日、ハーレーダビッドソンはたくさんのオートバイを販売しています。2016年だけでも、新品262,000台を販売しました。もちろん高額なバイクが60億ドルの利益のほとんどを占めていますが、驚きの5%の利益は洋服のラインから来ています。
これはそれほどの量には聞こえないかもしれませんが、ハーレーダビッドソンTシャツ、ジャケット、レザーブーツだけで、年間2億8500万ドル以上の売り上げを出している計算になります。
第1次世界大戦で利用
ハーレーダビッドソンのオートバイは、第一次世界大戦で初めて利用されたバイクではありませんが、ベストなものではあると言えます。はじめてオートバイを導入したのは英国ですが、彼らが使用したトライアンフ・モデルHは、安定もしなければ長もちもしませんでした。
1917年にアメリカが戦争に参加した際、アメリカはハーレーダビッドソンを世界へ知らしめることになります。アメリカの軍隊は、戦争のためだけに15,000台の新品のハーレーダビットソンを注文しました。
日本でバイクを製造したことも
象徴的なアメリカの企業として知られているハーレーダビッドソンですが、安い労働力と生産という罠にはまったこともあります。現在、インド、ブラジル、タイなどに工場を持っていますが、1935年には日本にも工場がありました。
日本の工場は、別のオートバイメーカーの三共とのライセンス契約でした。日本の市場向けに、ハーレーダビッドソンのオートバイを製造する権利を同社に渡したのです。
3番目と4番目のパートナーの存在
会社を回していたのは、いつもウィリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンだけだったわけではありません。短期間、アーサーの兄弟であるウォルター・ダビッドソンとウィリアム・ダビッドソンが加入します。ウォルターは、ミルウォーキーの鉄道工場の工場長であったため、初期のオートバイの部品を安価に作ることが可能でした。
幸いにも、ダビッドソンが2人増えたからと言って、名前を変更する必要はありません。「ハーレーダビッドソンダビッドソンダビッドソン」なんて、言いづらいですもんね。
自転車部門も存在したハーレーダビッドソン
ハーレーダビッドソンの初期の主な目標は、「ペダルの必要ないバイクを作る」ということであったものの、自転車市場にも手を付けていました。1916年、同社はオートバイとペダル自転車のどちらも売り出す決意をします。
コストの問題からカットされるまで、6年間に渡り自転車を製造しました。しかし、自転車のパーツはオハイオ州のデイトンで製造され、組み立てのためにミルウォーキーまで運ばれていたため、オートバイを製造するより自転車を製造するほうが高くついていたのです!
ハーレーを戦争で使用するようインスパイアしたのはパンチョ・ビリャ?
第一次世界大戦でアメリカの戦士によってハーレーダビッドソンが使用されていたことはすでにお話ししましたが、これらを使用することになった理由は他にもあります。すでに戦いでの有用性が証明されていたのです!1916年、銃を持った革命家のパンチョ・ビリャは、インディアン・モーターサイクルを利用してニューメキシコ中でアメリカに攻撃を仕掛けます。
ウッドロウ・ウィルソンは5,000名の兵士を国境に送り込み、素早く移動するためにオートバイを利用する警察にインスパイアを受けます。パンチョ・ビリャに対してハーレーダビッドソンが有効であるとわかると、軍隊はさらにバイクを注文して、これに武器を搭載するようになります。
「ホグ(hog)」と呼ばれる理由
ハーレーダビッドソンが、「ブタ」を意味する「ホグ(hog)」と呼ばれているのを耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。その理由はご存知ですか?「ハーレー・オーナーズ・グループ(Harley Owners Group)」の頭文字ではなく、由来はレーシング時代にさかのぼります。ハーレーダビッドソンのレーシングチームのメンバーのひとりであるレイ・ワイシャールが、ペットとしてブタを飼っていたのです。
これがチームの非公式のマスコットとなり、試合に勝つたびに、マスコットをバイクにのせてヴィクトリーラップを行っていました。
緑のハーレーは悪運
ブラック、グレー、オレンジは、人気で象徴的なハーレーダビッドソンカラーです。おそらく、オリーブグリーンは見かけませんよね?ハーレー乗りにとって、オリーブグリーンが悪運であると考えられている迷信がいくつかあります。一つ目は、初期のレーシング時代に、ハーレーダビッドソンのオートバイは、緑色のバイクのイギリス人レーサーに負けることが多かったためです。
戦争から戻ってきたハーレーダビッドソンは緑色にペイントされていてひどい状態で、乗っている途中に壊れてしまうことが多いということも理由です。本当の理由が何であれ、ご自身のハーレーは緑にペイントしない方が良さそうです。
予想とは異なる初めての映画出演
多くの人は、1969年に公開された『イージー・ライダー』をハーレーダビッドソンの典型的な映画だと考えています。しかし、ハーレーのオートバイが映画に登場したのは、それよりもずっと前の話です。マーロン・ブランドとリー・マーヴィンが出演した1953年公開の古いハリウッドの名作、『乱暴者』では、ハーレーダビッドソンが中心となっています。
同作には、ブランドが銃を所持した暴走族の頭のならず者として出演。ブランドは映画の中でトライアンフ・サンダーバードに乗っていますが、共演者のリー・マーヴィンはハーレーダビッドソンのハイドラ・グライドに乗っています。暴走族の映画ジャンルは、この映画から始まったとされています。
ハーレーベルに気づいたことはありますか?
ハーレーダビッドソンのオートバイに近づく機会があったら、後ろから垂れ下がるステキな金属製のベルを見たことがあるかもしれません。この小さなベルは、迷信的なハーレーダビッドソン乗りの間で人気です。恐ろしい道路の精霊を追い払うという意味がある、守り神のベルだそうです。
このハーレーダビッドソンの迷信では、自分でベルを購入した場合、道路で幸運を引き寄せると信じられています。他人にプレゼントとしてもらった場合、その幸運は2倍になります。
最も古いハーレーダビッドソンクラブの設立は1928年
初のハーレーダビッドソン乗りのクラブが発足したのは偶然です。1928年、有名なチェコ人のレーサー、B.チュレックが結婚し、結婚式に仲間のハーレーダビッドソン乗り全員を招待しました。この結婚式を楽しんだ彼らは、もっと定期的に集まることに決めたのです。
数か月後、初のハーレーダビッドソンクラブが正式に誕生。プラハに設立されます。このクラブは現在でも活動していて、丁度90周年を迎えました。
汚された評判とひどいニックネーム
1950年代と1960年代、ハーレーダビッドソンは同社が作り上げてきた高い評判を少しずつ失っていきました。アメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー (AMF)に買収された後、労働力と生産ラインをカットするように強いられ、これによってストライキや低品質のオートバイの生産につながりました。
その結果、ライダーたちは別のメーカー、特にホンダに乗り換えて、ハーレーダビッドソンを馬鹿にするようになります。揶揄するニックネームの中には、ハーレーダビッドソンの名前と否定的な言葉をかけて、「ハードリー・エイブルソン(「ほぼ無能」)」、「ハードリー・ドライバブル(「乗れたもんじゃない」)」、「ホグリー・ファーガソン(「ブタ」と不人気の苗字をかけて)」などがあります。幸い、元々のオーナーが会社を買い戻して、立て直すことに成功しています。
大恐慌時代から生まれた三輪自動車
ハーレーダビッドソンは、大恐慌を生き延びるための手段として、三輪自動車を生産しました。小さな三輪自動車は、サービカーと呼ばれています。元々は、配送車として人気だったためです。この三輪自動車の売り上げがあったからこそ、ハーレーダビッドソンは1930年代を生き延びることができました。
今日、三輪自動車は正真正銘のコレクターズ・アイテムです。1970年代に生産をストップしており、ものによっては12,000ドルほどします。
ハーレーだけを使用していたイーベル・クニーベル
アメリカの最も有名なスタントマンが、アメリカで最も素晴らしいオートバイメーカーの手に自分の命を委ねていたことには納得がいきます。イーベル・クニーベルは、自分で組み立てたバイクを除けば、自分のスタントにほぼハーレーだけを使用していました。
クニーベルは、ハーレーダビッドソンにとってまさに夢のような人でした。生きる広告だったためです。1975年、ハーレーダビッドソンのXR-750に乗って14台のグレイハウンドのバスを飛び越えたクニーベルは、最も長いジャンプの記録を更新し、さらにハーレーダビッドソンの名を高めました。
信頼性に欠ける
最大のオートバイメーカーであっても、ハーレーダビッドソンはそれほど安定しているとは言えません。実際、信頼性においては、下から数えてBMWよりはマシの2位。ハーレーダビッドソン自体は、頻繁にエンジンに手を加えたり、デザインを変えていたりするため、この結果には気づいているようです。
頻繁な故障やリコールで同社のレーティングは下がりそうなものですが、それでも75%のハーレーダビッドソンのライダーが「再びハーレーダビッドソンのバイクを購入する」と回答しています。
環境のことも考えているハーレーダビッドソン
車やオートバイのメーカーは、環境保護においては上位とは言えません。しかし、ハーレーダビッドソンはそれに反して、アメリカの環境保護局の規定を守っています。2000年初期に気候変動の証拠が明るみに出ると、ハーレーダビッドソンは自社のオートバイに「環境認可」を与えることを決定しました。
どういう意味かというと、バイクのパーツがアメリカの環境保護局の規定に沿っていない場合、不具合を起こした際には無料で交換するという仕組みです。
ハーレーダビッドソンに関するテレビドラマ
2016年、ディスカバリーチャンネルが、『ハーレー&ダビッドソンズ(原題:Harley and the Davidsons)』を放送します。これは、アーサーがエンジンをイジっていた同社の初期の時代から、最初の工場や世界のオートバイ業界の独占までをドラマ化したものです。
このドラマは少し大げさかもしれませんが、ハーレーダビッドソン自体はこのドラマを認めており、すべての基準においてそこそこ正確とコメントしています。どんな良い企業にも内輪もめというものは存在しますが、彼らはオートバイへの愛でつなぎ留められていました。
ハーレーフェストに参加しませんか?
5年に1度、ハーレーダビッドソンは「ライド・ホーム」と呼ばれるイベントを開催します。ハーレー乗りの間では、このイベントを「ハーレーフェスト」と呼んでいます。同社の本社があるミルウォーキーを訪れる、オートバイ乗りにとっての巡礼のようなものです。
2018年のライド・ホームは、アメリカ国内の4つの場所からスタートしました。サンディエゴ、シアトル、ポートランド、ローダデールです。最終的に、数千人のバイカーたちがミルウォーキーに集結しました。ハーレーフェストは、実際に目にするまでなかなか信じられない光景かもしれません。
ハーレーダビッドソン博物館
アメリカで成長した企業の歴史を楽しむためには、熱心なハーレーダビッドソン好きである必要はありません。ハーレーダビッドソンは、一般の人に完全公開されている博物館を所有・運営する数少ないメーカーのひとつです。
博物館はもちろんミルウォーキー所在で、大人も子供も楽しめる体験型のアクティビティーがいっぱいです。古いオートバイにまたがったり、V型2気筒エンジンの製造方法を紹介するエンジンルームを訪れたりすることができます。
会社が短期間買収
1969年、ハーレーダビッドソンは売り上げにおいて、大恐慌よりもさらに悲惨な壁にぶち当たります。財政的に困窮して、会社を売却することを検討していました。幸いにも、アメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー (AMF)が同社を買収しますが、これはハーレーを救うための買収ではありませんでした。
実際、AMFは主にボウリングボールを製造しています。まもなく、オートバイの売り上げはさらに落ちていきました。売り上げのさらなる下落を受けて、13名の元ハーレーダビッドソンの幹部たちが何とか資金をかき集め、会社を買いなおします。
エンジンでポルシェとコラボ
1970年代中期、まだAMF傘下にあったハーレーダビッドソンは、ミッドウェイトのスポーツバイクを製造することを決めます。この結果生まれたのが、ハーレーダビッドソンNOVA。コンパクトで液冷V型4気筒エンジンというユニークなバイクでした。
このエンジンは、ハーレーダビッドソンと自動車界の大手企業、ポルシェがパートナーシップを組んで生まれました。残念ながら、当時この完成した製品が日の目を見ることはありませんでした。AMFが元々のハーレーダビッドソンの投資者に会社を再売却したために、ポルシェエンジンプロジェクトは見送りとなったのです。
ドライブシャフトのオートバイ
第2次世界大戦の間、アメリカの軍隊はBMW R71に相当するオートバイを作るよう、ハーレーダビッドソンに依頼します。
ハーレーダビッドソンはそれにすぐ応じて、BMWのオートバイの基本的なデザインをコピーし、「XA」と呼ばれるドライブシャフトのオートバイを開発しました。このバイクは1,000台製造されたものの、アメリカの部隊は主にジープを使用していたため、実際に完全に導入されることはありませんでした。
創始者は米国労働省の名誉の殿堂入り
2004年、ウィリアム・ハーレー、アーサー・ダビッドソン、ウォルター・ダビッドソン、ウィリアム・ダビッドソンは、名誉の殿堂入りを果たします。賢い資源の運用と、企業の立ち上げ・維持への献身が高く評価されました。
長い年月の中で、彼らはたくさんの困難な状況に直面してきました。その数々の危機を乗り越えて、ビジネスにおけるレジリエンスとスキルを証明してきたのです。また、彼らはその強固なビジネスモデルと素晴らしい従業員の扱いでも有名です。
ロゴの歴史
オートバイに乗らない多くの人は、ハーレーダビッドソンの盾とバーのロゴをご存知ないかもしれません。ロゴは会社の誕生から7年後の1910年になってから生まれたものの、これは同社における重要な要素の一つです。
誰が元々のデザインを作ったのかということはあまり知られていませんが、これはハーレーダビッドソンのマーケティング戦略として機能しています。ただ、同社には過去にいくつか別のデザインも存在しています。
キングコングバイク
1950年代、ハーレーダビッドソンの熱心な信者、ライダー、メカニックであるフェリックス・プレドコは、FL 74 OHV Twinに斬新な改造を施します。彼は、2つのナックルヘッドエンジンと、2つのトランスミッションを備えたハーレーを作り上げたのです。
さらに、このバイクには、2つの座席、4つのパイプ、2つのハンドルバーがついています。バイクの長さは驚きの4メートルで、「キングコング」のタイトルがつけられました。組み立てには4,000時間を費やし、現在はミルウォーキーのハーレーダビッドソン博物館で目にすることができます。
発見された盗まれたバイク
2006年に、不思議なことが起こりました。とある男性が自分の盗まれたハーレーダビッドソンに関して虚偽の発言をしたとして有罪になります。盗難届けを出して、「家の敷地内にあったものが突然なくなった」と証言していたのです。この際、盗まれたバイクとその支払いのためのローンが、保険でカバーされました。
しかしその6年後、この男性の裏庭で埋められたハーレーが見つかったのです。家は別の持ち主に売られ、新しい家の所有者が業者にガーデニングを依頼したところ、バイクが発見されました。フレンドリーに見えるからと言って、必ずしも信頼できるわけではないといういい例です。
たった20年で世界最大のオートバイメーカーに
1920年までに、ハーレーは67各国に2,000以上のディーラーを持つ世界最大のオートバイメーカーに成長しました。レーシングチームの「レッキング・クルー」が、世界の注目を浴びて、1910年までにはレース界を独占するようになります。これによって、ハーレーダビッドソンは市場でもトップに踊り出ることとなったのです。
ハーレーダビッドソンは、アメリカで50%以上の市場シェアを持ち、今でも多くの人にとって「キング」であるかもしれません。しかし、現在生産高トップでその称号を手にしているのはホンダです。
盗まれにくいオートバイ
2011年に発表された報告によると、5つのブランドの中で、ハーレーダビッドソンは最も盗まれにくいということが証明されています。最も盗まれるのは、1949年創業のホンダ。質が高いという評判を考えれば、納得の結果です。
同じ意味で、ハーレーの高いメンテナンスコストと低い信頼性を考えれば、泥棒達に人気がないこともうなずけます。駐車場から出られないようなオートバイを盗む意味はないですもんね。
元々はレーシングバイクではなかった
1900年初期にはレーシングバイクとしての評判が高かったものの、ハーレーダビッドソンはレース用にデザインされたわけではありません。アーサー・ダビットソンは、レーシングバイクの販売に全く興味がありませんでした。しかし、勝利が生み出すお金に目を付けたのです。優勝レースによって、ハーレーダビッドソンはの知名度が上がり、売り上げが増加しました。
ハーレーのレースバイクは、早く進むようにデザインされており、ブレーキがありません。残念ですが、レース用の余分がないデザインは人気だったものの、これによって事故につながることもあります。モータードームには、「マーダードーム(殺し屋ドーム)」というあだ名がつけられたほどです。
7つの種類があるハーレー
オートバイ購入する人は、それぞれ欲しいものが異なると思います。どんな顧客も満足させるために、ハーレーダビッドソンには7つの異なる種類が存在します。大まかに言って、これらの7つのタイプは6つのカテゴリーに分類されます。ソフテイル、ヘリテイジ、ツーリング、スポーツスター、ダイナ、V-ROD、ポルシェです。
ポルシェがハーレーをデザインしたことをすでにご存知ですよね。オプションとして現在でも購入が可能です。現在購入できないものはダイナ。しかし、真のコレクター達はどうにか入手方法を見つけているようです。
ボーリングボールとの関連
ハーレーダビッドソンは、1969年ビジネスに困窮しており、大きな変化を起こす必要がありました。諦めて解体しようとしていたところ受けたオファーは、断ることは出来ません。こうして、ハーレーダビッドソンはアメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー(AMF)に買収されました。
AMFはハーレーダビッドソンを救う気など、全くありませんでした。同社は、ボウリング用品などのレジャー商品で有名です。売り上げが落ち続ける中、AMFは解体を検討していました。しかし、AMFがハーレーダビッドソンを買収したことを受け、13名の元ハーレーダビッドソンの幹部たちが何とか資金をかき集め、会社を買いなおしに成功しています。