実際には起こっていなかった?有名な歴史上の出来事とは
これまでに、数々の歴史的な出来事について耳にしてきたし、勉強してきたことだろう。そして、多くの人はそれらが過去、実際に起こった事実だと思い込んでいる。だがしかし、多くの場合において、こうした出来事はまったくのでたらめであるか、事実に尾ひれだけでなく、背びれまでついて伝わっていることが多い。さて今回は、これまで多くの人が事実だと思い込んでいる歴史的な出来事についてご紹介する。こうした出来事が年月が経つにつれ、いかにひねりを加えられ、事実とはまったくかけ離れたものになっているかについてご覧いただこう。
ポール・リビアの真夜中の騎行
ポール・リビアがイギリス軍の動きを『自由の息子達(独立戦争以前の愛国急進派)』に伝えるべく、アメリカマサチューセッツの田舎道を駆けた話は、詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローが1860年頃に作った詩に端を発している。しかしながら、この詩はポール・リビアについての史実というわけではなく、南北戦争直前に分離していくアメリカに警告する意味合いを持ったものだった。
歴史学者らによると、ワーズワースは1775年4月18日の夜に起こった実際の出来事を簡略化して詩を作ったのだという。実際に提灯の暗号を受け取ったのはポール・リビアではない。リビアは暗号を伝達する側だった上、単独で馬に乗って「イギリス軍が来ている!」と、今や有名となっているセリフを叫んだわけでもない。
黒死病の根源はネズミではなかった
通説とは異なり、最近の研究によって、14世紀にヨーロッパの人口のおよそ3分の1を殺した壊滅的な疫病の原因は、ネズミだけではないということが明らかになっている。オスロ大学の科学者らは、パンデミックを引き起こした伝染源について実験を行っている。
この研究の結果、病気を運んだのはネズミというよりもむしろ人間であったことが明らかになっている。科学者らは、寄生虫を運んだネズミを使った実験モデルと、人間についたノミやシラミによって病気が広がったとする実験モデルを比較しているが、人間を介した実験モデルの方が黒死病の死亡率と一致しているのだ。
クリストファー・コロンブス、アメリカ大陸の発見
アメリカの子ども達は、「1492年、コロンブスはアジア大陸を目指して、ニーニャ号、ピンタ号、サンタ・マリア号で大西洋を渡った」と教わっている。
しかしながら、コロンブスは明らかにアメリカを最初に「発見した」人ではないばかりか、西半球に上陸した初めてのヨーロッパ人でもない。実際、コロンブスのおよそ500年前に北アメリカに上陸し、定住地を築いたのはヴァイキングのレイフ・エリクソンだと言われている。
ベン・フランクリン、電気を発見
ベン・フランクリンが雷雨の中で鍵をつけた凧を上げて、電気について閃いたという話は、どうやら事実ではなさそうだ。1つには、1752年にフランクリンが実験を実行するよりも前に、科学者らはすでに電気について認識しており、フランクリンが電気を発見したわけではない。
しかし、フランクリンが実際に試みたのは自分の仮説、つまり雷が電気を帯びているということを証明するためだった。さらには、フランクリンは危険だとされる雷雨の中の凧あげを実際に自分でしたわけでもなさそうだ。1752年、『ペンシルベニア・ガゼット』紙に実験をしたと寄稿しているが、自身が凧を揚げたという記載は見られない。
マーティン・ルーサー、『95か条の論題』を教会の門扉に貼り付ける
一般的には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がカトリック教会の問題点を教会の門扉に貼り付け、それが後のプロテスタント革命のきっかけとなったと見なされている。マルティン・ルターの『95か条の論題』(ルターが教会の門扉に貼り、16世紀の宗教改革の発端になったとされる)は事実だが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの場合、正確にはルターのように事は運ばなかったようだ。
実際にマーティン・ルーサー牧師が教会の門扉に貼りだしたことを歴史的に証明するものはなく、この話も死後およそ30年経ってから語られ始めている。しかしながら、マーティン・ルーサーが熱心なカトリック教信者であったことを考えると、『95か条の論題』を大司教に郵送したとしても、それは教会ともめ事を起こそうとしていたわけではないということは明らかだ。
ローマが燃える間、ネロはフィドルを弾いていた
1世紀に起こったローマの大火とローマ皇帝はまったくの無関係だとは言えないが、それに対して何もしなかったのは事実だ。まず、火災が発生したときに皇帝ネロはローマにおらず、ローマからおよそ50キロメートルほど離れたアンティウムにいた。皇帝ネロは自身を芸術家だと考えていたが、ローマの大火の間もフィドル(バイオリン)を演奏していたというのは完全に間違っている。
当時ローマにそもそもフィドルなどなく、ローマが燃えているのを見ながら楽器を演奏したわけがない。ローマが燃える間、ネロはフィドルを弾いていたという言い回しは、危機の最中に指導者が何もしないことを指す表現だ。
アイザック・ニュートンとリンゴ
数学者のアイザック・ニュートンはリンゴが頭上に落ちたときに万有引力を思いついたのだ、という出まかせは、作り話以外の何物でもない。このリンゴの話は、1752年に友人の作家ウィリアム・ストュークリが書いたニュートンの伝記に初めて登場する話だ。
そこには、「ニュートンが座って物思いにふけっているとき、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」とある。歴史学者らは、ニュートンがリンゴが木から落ちる様子を見たことは否定できないが、ニュートンの頭上に落ちたということはなさそうだとしている。
セイラム魔女裁判での火あぶりの刑
セイラム魔女裁判はしばしば「火あぶりの刑」と同義だと扱われているが、実際にはそうではない。実際、17世紀のマサチューセッツ州セイラムでは、全員が魔女であることを否定しており、さらには火あぶりの刑に処せられた者はいなかった。
20名ほどが魔女として告発されたが、そのうち19名は絞首刑、残りの1名は拷問中に圧死した。魔女が火あぶりにされるという考えは、おそらく15~18世紀のヨーロッパで広く発生したモラル・パニックからきているのだろう。
「ケーキを食べればいいじゃない」
貧困と食料難にあえぐ民衆に対し、フランス王妃マリー・アントワネットが「ケーキを食べればいいじゃない」と発言したという話は面白いが、実際には彼女の言ではないことが判明している。身分の高い女性が一般人にはとうてい手が出ないごちそうを食べたらいいと答えたという逸話は、実はマリー・アントワネットが王妃になる以前に存在していたのだ。
この「ケーキを食べればいいじゃない」という言葉は、1767年にジャン=ジャック・ルソーが書いた自伝的な「告白」に出てくる。この本の中で、ルソーは「ある王女」が言ったとするのだが、当時マリー・アントワネットが幼かったことを考えても、彼女の言ではなさそうだ。
ファン・ゴッホ、耳を切り落としたことはない
フィンセント・ファン・ゴッホはその作品以外にも、自身の耳を切り落として恋人に送るという自虐的行為をしたことで知られているが、これは完全に事実というわけではない。というのも、実際に切り落としたのは耳たぶの一部だったのだ。
歴史学者らは、当時ゴッホは酷いうつ病を患っており、弟テオの婚約やポール・ゴーギャンとの不仲の結果、耳の一部を切り落とすという行為に出たのだろうとしている。原因がどうあれ、ゴッホは耳全体を切り落としたわけではない。
トンキン湾
トンキン湾事件は、アメリカを本格的にベトナム戦争に介入させ、破綻をもたらした事件だとされている。この事件は、1964年に北ベトナム軍がアメリカ側の駆逐艦に魚雷を発射したとされている。
しかしながら、アメリカ海軍施設(U.S. Naval Institute)が公表した機密解除文書によると、最初の威嚇射撃を行ったのはアメリカ側だとされている。さらに、2発の魚雷が発射されたとしていたものの、2発目は放たれていなかった。つまりは、米側が嵐の最中に敵と思われる艦艇に対して発砲し、誤認の可能性が指摘されたが、隠蔽されたのだった。
ゴダイヴァ夫人、裸で馬に乗る
イギリスはコヴェントリーの伯爵レオフリックの妻、ゴダイヴァ夫人は、夫が情け容赦なく領民に税を課すことに同情していた。そして、夫レオフリックは、ゴダイヴァ夫人が街中を裸で馬に乗り歩けば、減税に応じると言ったとされている。
この物語の中には伯爵レオフリックと結婚し、平凡な人生を送ったゴディフという名の女性が登場している。これは事実ではなく、レオフリック側の寛大な減税などの措置を語り継ぐ上で作られた話だと考えられる。
フェルディナンド・マゼラン、世界を航海した最初の人
歴史の教科書などでフェルディナンド・マゼランは地球を初めて一周した人として記載されている。しかし、これも事実ではない。1519年、マゼランは世界一周すべく、乗組員らと大西洋を渡り、南アメリカ、太平洋と航海を続けた。
不幸にも、マゼランはフィリピンで原住民らに殺害される。そのため、マゼランの船が1522年にスペインに帰着し、世界一周を成し遂げたとき、マゼランはすでに死亡していたのだ。信じられないことに、260人の乗組員で出発したにもかかわらず、帰還したのはわずか18人だった。つまり、世界一周という偉業を初めて成し遂げたのは、この18人の男たちだ。
ロームルス、ローマを建国
ローマの建国者といえば、多くの人がロームルスとその弟レムスの名をあげるだろう。伝説によると、ロームルスとレムスはオオカミに育てられ、父親は軍神マールスだと言われている。
ロームルスとレムスが実在したにしろ、そうでないにしろ、歴史学者のテオドール・モムゼンはニューヨークタイムズ誌に対し、この伝説は「事実ではない」と語っている。当時この双子が存在していたことも、オオカミに育てられたということも、不可能だという。
3月15日に気をつけろ
ウィリアム・シェイクスピアの劇「ジュリアス・シーザー」では、シーザーの最期が描かれているが、どうやら事実よりもドラマチックになっているようだ。
たとえば、シーザーの「わが友人、ローマ市民、同胞諸君、耳を貸してくれ」、「開戦しろ」という言葉は実際に発せられておらず、「ブルータス、お前もか」という有名なセリフにしても、暗殺の混乱の最中にこうしたセリフをつぶやくことはなかっただろう。
キャス・エリオットのサンドイッチ
キャス・エリオットはフォークグループ「ママス&パパス」のリードボーカルとして知られ、グループ解散後にもソロアルバムを5枚リリースした上、多数のテレビ番組にも出演した。キャスは1974年7月29日に33歳の若さで死去したが、この死の原因について多くのうわさが飛び交った。
この中には、麻薬の過剰摂取、FBIによる暗殺などがあり、中でもよく知られているものとしては、ハムサンドイッチを喉に詰まらせたというものがある。だが実際には、長年の大きな体重の変動によって引き起こされた心筋梗塞によって死亡したと断定されている。
トーマス・エジソン、白熱電球の発見
トーマス・エジソンは白熱電球を発明したとされているが、実際には知られているよりも多くの人から助けを借りていた。エジソンは初めて映写機や蓄音機を発明したかもしれないが、白熱電球は違う。
初めて白熱電球を発明したのは、イギリスの化学者ジョセフ・スワンだが、耐久性に課題が残っていた。そこでエジソンは炭素フィラメントの代わりにより細いフィラメントを使うことでこの問題が解決できることをスワンに伝え、これによってスワンは耐久性のある白熱電球を作ることに成功したのだ。
ベンジャミン・フランクリン、国鳥を七面鳥にしたかった
ベンジャミン・フランクリンはアメリカの国鳥にハクトウワシではなく、七面鳥を使いたかったという説がある。しかしながら、娘に宛てた手紙に説明しているように、ハクトウワシが国鳥であることに対して、何らこだわりを持っていなかったようだ。
単に、手紙の封ろうにあるハクトウワシが七面鳥のように見えると述べただけだ。さらにはその手紙の中で、ハクトウワシは他の鳥から食べ物などを盗むためにあまり立派だとは言えず、その点七面鳥は無害だと書いているが、これもおそらく単なる冗談だろう。
ペルシア軍と戦った300人のスパルタ軍兵士
古代ギリシャの最も良く知られている伝説の1つに、紀元前480年にテルモピュライの戦いで、スパルタ王レオニダスと300人の兵士がペルシアの大軍と戦ったというものがある。
だが、スパルタ王がわずか300人の兵士しか連れていなかったというのは誇張で、実際には周辺のギリシャの都市国家から4,000人兵士がいたという。さらには、わずか300人ではなく、1,500人以上の兵士が最後まで残って戦ったと推測されている。
1929年株式市場の暴落後、銀行家らは投身自殺をした
1929年10月24日、アメリカの株式市場は大暴落し、「暗黒の木曜日」と呼ばれている。これによって世界恐慌が始まり、大暴落発表後にウォール街のブローカーらが建物から投身自殺をし始めたと考えられている。
しかし、これは正確ではない。というのも、建物から投身自殺した人はおらず、自殺率もさほど上昇したわけではない。
ベッツィー・ロス、初めて星条旗を作成
星条旗を初めて作成したのはベッツィー・ロスだと言われているが、作り話に過ぎないようだ。当時、ロスが星条旗を縫製したことは間違いないだろうが、初めて星条旗を作ったのが彼女だという説は、およそ100年後に、ロスの孫がペンシルベニア史学会に対して主張したものだ。
しかし、当時の新聞紙や、書簡などにもロスについて記載したものはなく、彼女がアメリカ独立戦争中に初めて星条旗を作成したという証拠はない。ロスの孫が自分の家系を有名にするために主張しただけだという可能性もある。
ジョージ・ワシントンと桜の木
ジョージ・ワシントンと桜の木の話は、ジョージがまだ少年の頃に父親から手斧をもらったことによる。その手斧を使って桜の木を切り落としたジョージだが、父親に何が起こったのかを聞かれ、かの有名なセリフ「嘘はつけない」と言い、正直に告白したという。
これは事実ではないが、1806年、作家メーソン・ロック・ウィームズがワシントンの伝記を著したときに、アメリカ合衆国の初代大統領は美徳の人だということを示すために挿入した話だ。
聖書に出てくる禁断の果実はリンゴ
エデンの園で暮らすアダムとイブの話について、見聞きしたことのある人が多いのではなかろうか。触ることも許されていなかった禁断の果実を食べたためにエデンの園から追放された、というものだ。
面白いことに、大衆文化において、この果実はリンゴだと描かれている。しかしながら、初期のユダヤ教指導者らはこの果実とはおそらくイチジクだったのではなかろうかとしている。というのも、聖書の中で2人はイチジクの葉で服を作っていると書かれているからだ。
アメリカはロシアに侵入したことはない
冷戦時代、アメリカとロシアは実際に武力衝突はしなかったものの、だからといってアメリカがロシアとロシア国内で戦ったことがないというわけではない。実際、1918年に時の大統領ウッドロウ・ウィルソンは軍隊を多くロシアに送っている。
ロシアに送り込まれたのは、ロシアを再びドイツとの戦争に引き入れようとする第一次世界大戦の同盟国から集められた軍隊だった。ロシア派遣中の2年間に174人のアメリカ人兵士が死亡し、これが後にアメリカとロシア間の緊張を引き起こすこととなった。
ユリシーズ・S・グラント、ロバート・E・リーの降伏の剣を受け取らなかった
アメリカ南北戦争の話として最も有名なものの1つに、1865年4月9日、バージニア州アポマトックス・コートハウスでロバート・E・リーがユリシーズ・S・グラントに降伏したというものがある。リーが北軍のグラントに降伏したとき、北軍の総司令官は降伏の証としての剣を受け取らなかったとされている。
1885年、グラントはこの話は誇張されたものだと告白している。さらにリーに最大限の敬意を払って対応したとし、南北戦争が終わったこと、そしてそれに勝利したことが単純に嬉しかったと語っている。
聖クリストファーの存在
聖クリストファーは、旅人や運動選手、船乗りなどの守護聖人だ。聖クリストファーはよく知られており、信じる者はそのお守りを身につけているが、実際には実在した人物ではない。
LAタイムズ誌によると、多くの学者らは聖クリストファーが存在していないと考えているか、またはたとえ実在したとしても、聖クリストファーにまつわる話の多くは神話に過ぎないと考えている。ひょっとすると、キリスト教殉職者の1人にすぎなかったという可能性もある。
大英帝国がいかにスペインの無敵艦隊を破ったのか
1588年、大英帝国はスペインの無敵艦隊を破ったが、戦術や圧倒的な火力をうまく使いこなしたわけではなかった。実際には、状況が良かっただけだ。
スペインの無敵艦隊129隻のうち、イギリスが破壊したのはわずか6隻のみだった。もっと多くの船を沈められたかもしれなかったが、十分な火薬を持たなかったのだ。しかしながら、イギリス側の船50隻の到着が間に合ったこと、さらには潮の流れも早く、悪天候だったこともあり、スペインの無敵艦隊がうまく機能できなかったのだ。
アラモの戦いでの死傷者数
アラモで何が起こったのかについて知っている人も多いかもしれないが、実際にはここで起こったと考えられていることの多くが誇張されていたことが明らかになっている。中には生きのびたのはわずか数名だったとする話もあるものの、実際には20人以上の生存者がいたことも分かっている。
さらに、女性や子ども達だけではなく、戦った男たちも死を逃れている。アラモの戦いでメキシコ人が600人死亡したとする見解もあるが、実際には60人ほどだった。ウィリアム・ズーバーという名の男性がこのアラモの戦いにまつわる話を書いているが、ズーバー自身はその場にいなかったのだから、どこまでが本当か分からない。
初期のサンクスギビング
一般的に信じられているのとは反対に、「サンクスギビング(感謝祭)」という名称は植民地時代ではなく、後の1863年、エイブラハム・リンカーンがもっと人々に感謝の気持ちを身につけてほしいと考えて命名された。さらに、サンクスギビングといえば七面鳥が出てくるが、七面鳥が定番料理であったという事実もない。七面鳥ではなく、当時はガチョウや白鳥、鹿肉といったものが並んでいた。
当時のマサチューセッツ州ではジャガイモを食べる習慣がなく、さらにはクランベリーを砂糖と調理する方法についても誰も知らなかったため、今や定番となっているクランベリーソースやジャガイモ料理もなかった。
アルベルト・アインシュタイン、幼少期は算数が苦手
アルベルト・アインシュタインは幼少期に算数が苦手だったいう逸話は、たとえ初めに何かが得意でなくても、今後もずっとそれが続くというわけではない、という教訓のために作られた話でしかない。ワシントン・ポスト紙によると、幼少期には出来が悪かったという噂は、年月を経るにつれ、誇張されていったようだ。
アインシュタインは年齢の割には信じられないほど知能が高かったのだが、若い頃にチューリッヒ連邦工科大学の入試に落ちている。だがこれは、アインシュタインがほとんど勉強していなかったフランス語の点数が低かったことによる。
ワイルドウェスト、荒れ地に荒くれ者がいっぱい
歴史だけでなく、大衆文化においても、ワイルドウェストは誰も住みたくない荒地であったように描かれている。無法者、殺し屋がたむろする酒場があちこちにあり、クリント・イーストウッドは西部をとても危険な場所として作り上げた。しかし、実際にはそうではない。
実際、1800年代のワイルドウェストに住む人々は、にらみつけてくる奴らと決闘するよりもむしろ、畜牛や採掘に勤しんでおり、とても平和な地域だった。確かに殺人などがまったくなかったというわけではないが、当時のワイルドウェストで殺人による死亡率は年間わずか0.1%ほどだったという。
中世の格闘試合は危険
中世ヨーロッパにおいて、騎士を集める方法に格闘試合というものがあった。こうした格闘試合は危険で、時には死者を出したこともあったと言われているが、これは必ずしも本当ではない。ゲームには剣を使った打ち合いや、馬上槍試合などがあったというが、実際には家族で楽しめるスポーツイベント的なものであったようだ。
人気のゲームとしては蹄鉄を投げる競技や、ボーリング、テニスなどまであったようだが、どれも死傷者を出すようなものではない。参加者にとって危険だと地域の統治者らが判断すれば、そのイベントは中止になることもあったようだ。
ベティ・クロッカー、美味しいデザートづくりの名人
ベティ・クロッカーと言えばデザートを思い浮かべる。特に、オーブンなどを使って焼き菓子を作るときなどには、材料の入ったパッケージにその名前を目にすることが多い。それはまるで材料から焼成に至るまで、ベティが助けてくれているかのようだ。唯一気になるのは、これまでに、ベティ・クロッカーという焼き菓子職人が実在した形跡がないということだ。
これは元々ウォッシュバーン・クロスビー社のキャンペーン用にマージョリー・ハステッドが生み出した商品で、響きが良く、何となくおばあちゃんのような名前だということから、ベティ・クロッカーと名付けられた。その後、ベティはさまざまなメディアで取り上げられ、多くの人に知られる象徴的な商品となる。そう、メディアで取り上げられたからといって、その名前の人が実在するわけではない。
トロイア戦争について
物語から劇などの文化にいたるまで、トロイア(トロイとも)戦争にまつわる作品は多々ある。しかし、この出来事はギリシャ神話に基づくもので、史実ではないということを忘れてはいないだろうか。戦争にまつわる話は何世代にもわたって語り継がれ、フィクションの物語になるまで誇張されていく。
歴史学者らは、トロイア戦争の話は語り継がれていったために、今日のように話好きな人によって作られたものだろうという認識で一致している。あの悪評高いトロイアの木馬からトロイアに侵入した1,168隻の艦隊に至るまで、ほとんどの詳細がフィクションだ。
ブロントサウルスは実在する恐竜
原始家族フリントストーンはブロントサウルスを飼っていたのだから、実在した恐竜だろうって?それはある意味、間違いだ。古生物学者オスニエル・C・マーシュによって発見された骨が「新種」ブロントサウルスのものだとした論文は間違っていると指摘されている。「化石戦争」として知られる時代、マーシュは新種を見つけ、ライバルのエドワード・ドリンカー・コープよりも優位に立ちたかったのだ。
ライバルを出し抜きたいがために、マーシュは骨を誤認し、これまでに見つかっていない新種、ブロントサウルスのものだと主張したのだが、実際にはその骨はアパトサウルスのものであった。幸い、2015年、研究者らはブロントサウルスとアパトサウルスを別々の恐竜として分類するのに十分な証拠があると結論づけている。
ジョージ・ワシントン、木製の義歯
小学校で読む多くの本や授業で、ジョージ・ワシントンの義歯は木製だったなど、色々と奇妙な話が展開されることがある。アメリカでは誰もが見聞きしたことがあるはずだ!確かに元大統領は歯に問題を抱えていたが、ワシントンの義歯はいずれも木製ではなかった。
ワシントンの歯の型を取るために、様々な種類の金属や動物の骨など、あらゆるものが使われたが、お抱えの「歯科矯正医」は木型を使ったことはなかった。ジョージ・ワシントンにまつわる歴史建造物であるマウントバーノンには、人間や牛、ロバ、馬の歯が使われたワシントンの義歯が一般公開されている。
アーサー王、アングロサクソン人の侵攻を退ける
これまでにアーサー王と円卓の騎士たちの勇猛さを描いた本や神話、テレビ番組は数多く存在している。歴史によると、5~6世紀ごろ、人々から敬愛されたアーサー王はキャメロット城を拠点とし、アングロサクソン人の侵攻を退けたとされている。
こうした戦いについても歴史書に記載されているが、この歴史書自体がおよそ100年後に書かれたものだと歴史学者らは指摘している。つまり、アーサー王の伝説は誇張されたものであり、400~800年までの古文書の中にもアーサー王の名前は触れられておらず、キャメロット城の王は架空の人物だったのではないかと考えられている。
ドクター・スースの格言「気にする人は重要ではないし、重要な人はそれを気にしない」
児童文学作家であり、類まれな言語学者でもあったドクター・スースは、いくつもの韻を踏んだ言葉や抒情的な表現を生み出したと考えられている。よく知られている言い回しの中に「気にする人は重要ではないし、(あなたにとって)重要な人はそれを気にしない」というものがある。この表現はあたかもドクター・スースの代表作の1つ「きみの行く道」という本の中で出てきそうなものだが、実際にはこれはドクター・スースが書いた言葉ではない。
実際、この言い回しをしたのは、アメリカの投資家バーナード・バルークだ。バルークは国民の厳しい目にさらされたときの真正性の重要さについて議論していた。この時にバルークの意味したことは、私たちが目にするドクター・スースの本で書かれているものとはまったく異なっている。