歴史的瞬間を捉えた大物有名人のプライベート写真
これからご紹介する写真の数々は、”歴史上大物有名人のプライベート写真”を次々に捉えた奇跡の瞬間である。あのヒトラーのプライベート写真や、ダイアナ妃の意外な一面を捉えた写真など、教科書では決して見ることの出来ない場面ばかりだ。また、日本でも大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディー」の主人公フレディ・マーキュリーが、1980年にどうやってアンコールのステージに戻ったのか、その姿さえも確認できるのだ。写真を見続けるに従って、彼らもこの世界を生きていたことを、ひしひしと実感できる。
1940年代、アルバート・アインシュタインは黒人大学で教鞭を執った
1946年、アルバート・アインシュタインは、歴史上初めて大学の学位を授与する黒人大学であったペンシルベニア州のリンカーン大学に赴いた。誰もが認める天才は、アメリカのアフリカ系アメリカ人公民権運動に先んじ、人種差別を「白人病」だと非難した。
ここでアインシュタインは名誉学位を授与され、学生らに相対性理論について講義を行っている。残念ながら、この歴史的瞬間は主流の報道機関から見過ごされ、黒人と親しく交流した物理学者について大々的に報道されることはなかった。
キャリー・フィッシャー、個人的な面でレイア姫と共通点
どうやら、キャリー・フィッシャーはレイア姫に扮して、1983年アメリカの雑誌ローリング・ストーン誌の表紙の撮影をし、注目を集めたようだ。キャリーは当時、「スター・ウォーズ」シリーズにおける第3作品目「ジェダイの帰還」のプロモーションをしていたようだ。
インタビューに答えて、キャリーは自分自身の実生活と演じるキャラクターとの違いについて述べている。レイア姫の父親はダークサイドにひかれたため、母親はオーガナ王と婚姻を結ぶ。実生活では、キャリーの父親エディー・フィッシャーは、エリザベス・テイラーにひかれたため、キャリーの母親であったデビー・レイノルズを捨てている。
ティナ・ルイーズ、「ギリガン君SOS」で女優としてのキャリアが台無し?
ニューヨーク市に生まれたティナ・ルイーズは、わずか2歳の時に、子役でデビューする。10代になってからは演技、ダンス、歌を学ぶ一方、ミュージカルなどで、端役を多数演じる。「神の小さな土地」で映画デビューをして大ブレイクする。
しかし、これは始まりに過ぎず、その後ティナ・ルイーズは多数の映画やテレビドラマ「ギリガン君SOS」で人気を博した。このテレビドラマの後にも女優として成功していたが、「ギリガン君SOS」が自分のキャリアを台無しにしたとティナは述べている。その後、この作品に関連したイベントやショーには出たがらなかった。
ダイアナ妃とジョン・トラボルタの「サタデー・ナイト・フィーバー」
ジョン・トラボルタは、1985年ホワイトハウス主催のガラディナーにおいて、他ならぬダイアナ妃とダンスするという栄誉にあずかった。2人はジョン・トラボルタが主演した1977年の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の音楽に合わせて、玄関ホールを軽やかに踊った。そして、これはその夜の最も忘れられない瞬間となったのだ。
ダイアナ妃とチャールズ皇太子は、この訪問の際にホワイトハウスに宿泊し、ヴィクター・エデルスタインがデザインしたこのドレスを着用していた。そのため、このドレスは「トラボルタ・ドレス」と呼ばれるようになる。
ジェイミー・リー・カーティス、パーフェクトで主演
ミレニアル世代の多くは、ジェイミー・リー・カーティスと言えば、映画「フォーチュン・クッキー」や、もちろんヨーグルト「アクティバ」のCMでお馴染みだろう。だが、1970年代や1980年代にも、成功したものやそうでないものも含め、ジェイミーは色々な役を演じていた。
1985年、ジェイミーはジョン・トラボルタと映画「パーフェクト」で共演。ローリングストーン誌で、ロサンゼルスで独身の男女に人気を博したフィットネスクラブについて取り上げられた記事に基づいたストーリーだ。ジェイミーは、この写真のような新時代にふさわしいレオタードを身につけたインストラクター、ジェシー・ウィルソンを演じている。この映画は大失敗に終わり、映画評論サイト「ロッテン・トマト」のトマトメーターでは19%しか得られず、ゴールデンラズベリー賞(一般受けしなかった映画に贈られている賞)を受賞している。
離陸の準備はOK?
さて、これは珍しい光景だ。この写真は1959年に撮影されたものだが、ビルギッタ・リンドマンという名のスウェーデンのスチュワーデスとショーガールが写っている。ビルギッタは、まもなくスチュワーデスの制服のスカート丈が短くなるというニュースを受け、ショーガールのコスチュームを調べるために呼ばれたのだ。
ちょうど1年前、ビルギッタは53人のライバルを打ち破って、「ライフ」誌の表紙を飾って有名になった。これは機内エンターテインメントという言葉にまったく新しい意味を与えた。
ジャングルパムはドラッグレースに欠かせない存在だった
この女性はパム・ハーディ、ジャングルパムとして知られている。ジャングルパムは1970年代に伝説のドラッグレーサーと呼ばれたジム・リバーマンの素晴らしい助手として登場した。
ハーディがリバーマンに出会ったのは、1973年、ハーディがまだ高校生で、ペンシルベニア州のコンビニでバイトをしていた時だった。ハーディはリバーマンと共に国内を移動し、リバーマンがスタート前にバーンアウトをした後に、車をバックさせるのを手伝ったりした。ハーディは、1977年、リバーマンがレースに関係ない事故によって死亡した後、ドラッグレースを去っている。
高速道路のど真ん中でピクニックはいかが?
この写真は、1973年11月4日、オランダで撮影されたものだ。撮影者は、人けのない高速道路で、大人数のグループがピクニックをしている様子を捉えている。この高速道路に人けがないのは、オイルショックのせいで作りだされた「ノーマイカー・サンデー(日曜日に車両乗り入れ禁止)」のおかげだ。
この当時、ほとんどの国で石油価格が3ドルから12ドル以上まで急騰した。石油禁輸措置はオイルショックを引き起こし、これによって世界経済や政治は、短期・長期共に多大な影響を受けた。
ラクエル・ウェルチ、ディック・カベット・ショーで物議を醸すトーク?
コメディーの脚本家ディック・カベットは、1968年~1974年にわたって「ディック・カベット・ショー」という深夜のトーク番組で司会を務めた。この記憶に残るトーク番組では、キャサリン・ヘップバーンやルシル・ボールからデヴィッド・ボウイやオーソン・ウェルズまで、多岐にわたる大勢のゲストにインタビューした。
1970年の夏、カベットはこれまでで最も面白いエピソードを残している。その回ではラクエル・ウェルチとジャニス・ジョプリンを招いていた。ウェルチは賛否両論ある性転換を題材にしたコメディーについて話していたときに、ジョプリンが割って入り、その映画が「ころころ変わる」ため、ついていけないとした。ウェルチは気を悪くすることもなく、「この映画全体が変わることについてを取り上げているのよ」と応じた。こうした話題は未だにタブーのように扱われているが、この時ばかりは観客も思わず吹き出した。
ジョニー・キャッシュ、フォルサム刑務所にて、囚人が書いた歌をうたう
ジョニー・キャッシュは「フォルサム・プリズン・ブルース」がヒットした後に、囚人から届いた手紙を見て、アメリカの刑務所でコンサートを始めた。キャッシュがついにフォルサム州立刑務所を訪れたのは1968年のことだった。この時のライブの様子は、キャッシュの27作目のアルバム「アット・フォルサム・プリズン」に収録されている。
キャッシュはこの日、2セッション行っているが、1回目のセッションがうまくいかなかったときに2回目を行おうと考えていたようだ。それぞれのセッションの最後には、「グレイストーン・チャペル」を披露している。この曲は、フォルサム刑務所の受刑者グレン・シャーリーが書いたもので、この写真でキャッシュが握手している男性がそれだ。
この筋肉隆々の男たちは、当時互いに不満を持っていた
1980年代のいつだったか、アーノルド・シュワルツェネッガーとシルベスター・スタローンはヴェニス・ビーチのトレーニングで出会っている。2人の俳優は当時ライバル関係にあったかのように思われていたため、これは奇妙な偶然だった。
1985年、シュワルツェネッガーは「もしスタローンと同じ次元で自分のことを語られているのを聞いたとしたら、怒っていたことだろう」とさえ言っている。しかしながら、現在ではどうやら和解しているようだ。映画に共演までしている。
フレディ・マーキュリー、再登場の演出がすごすぎて、自身のヒゲからファンの注意をそらすことに成功
「君もカッコいいかもしれないが、フレディ・マーキュリーがダースベイダーに乗っている姿には到底かなわない」とは、この伝説的写真をレディット(アメリカのソーシャルニュースサイト)で公開した人のコメントだ。異議を唱える人はいないだろう。
フレディ・マーキュリーは、よくパフォーマンスが派手なこと(オーバー・ザ・トップ)で知られていた。そのため、1980年の「ザ・ゲーム」ツアーでは、アンコールに応じて、ダースベイダーの肩に乗って(派手であることを意味する英語、オーバー・ザ・トップと肩に乗ることのオーバー・ザ・トップをかけている)姿を現したのだった。当時マーキュリーは口ひげを生やし始めていたのだが、これを嫌がった熱狂的ファンらは、ステージにカミソリを投げ込んだ。
ルイ・アームストロング、ジャズの力で共産主義と戦う
1961年に撮影されたこの写真には、スフィンクスの前で妻のために演奏するルイ・アームストロングの姿がある。アームストロングは妻と、いわゆる「ジャズ外交」の一環で「ジャズ大使」としてエジプトに来ていた。
アメリカは、ジャズを冷戦に対する兵器として使えると信じていた。そのため、著名なジャズミュージシャンを世界中の国々に送り出し、共産主義の独裁政権で脅かされている国々で民主主義と自由が広がることを望んでいた。
ヘザー・ロックリア、1981年のこの写真に呆然!
ヘザー・ロックリアは、テレビドラマ「ダイナスティ」で初めて主要な役を手に入れた。その美しさと才能で、ロックリアは1981年~1989年の間、サミー・ジョー・カーリントンとして視聴者を魅了した。「メルローズ・プレイス」でスターとなり、連続4回もゴールデングローブ賞のテレビシリーズ最優秀女優賞にノミネートされている。
ロックリアは80年代、90年代のハリウッドにおいて、必要不可欠な存在であったが、2000年代以降はあまり人気の出なかったプロジェクトに主演している。2018年、自殺をほのめかしていたロックリアは、精神鑑定のため入院している。
「テレビ局スターの戦い」で有名人が争う姿が見れた
この写真では、「スリーズ・カンパニー」の女優ジョイス・デウィットが、1978年の「テレビ局スターの戦い」でABC社の代表として出場していた女性2人と笑顔を見せている。このテレビシリーズはABC社で放送されたが、ライバル局CBSやNBCのスターも出演した。
ボーリングやサイクリングから、カヤックやバレーボールまで、視聴者は各テレビ局のスターが様々なスポーツで戦うのを見ることができた。デウィットの他には、ロビン・ウィリアムスやビリー・クリスタルといった有名人が出演した。ゴージャスなリンダ・カーターも出演した!
リンダ・カーター、「テレビ局スターの戦い」で注目を集める
「テレビ局スターの戦い」のセットで撮影されたこの写真では、リンダ・カーターがスイミングの後にチームメートと写っている。この番組は1976年に封切られ、1988年まで続いた。また、2017年にABC社が復活させている。
「ワンダーウーマン」シリーズで知られるカーターは、ファラ・フォーセット、ハル・リンデン、リチャード・ハッチなどらと共にABCチームにいた。ABC社は様々な競技でCBSやNBCと戦った。所定の競技終了後に、最も得点が低かったチームが敗退し、残りのチーム同士が綱引きで最後まで戦い抜く。ABC社は1976年に勝利している。
ジャングルパムもジムと同じくらい目立っていた
ジャングルパムは、レース場での楽しみ方を知っていたが、だからといってジャングルジムを効果的にサポートしていなかったわけではない。ジムが頻繁に派手なバーンアウトや大胆なパフォーマンスを披露すれば、パムは必ずそこにいて、車の準備をしたり、車を後退させたりするのを手伝った。
古いビデオには、ジャングルパムの大胆な動きが写っていた。ジムがコースに戻るよう手伝っているときに、とんでもなく体をひねったり、回ったりしているのだ。そしてそれも美しく!
リンダ・カーター、「刑事スタスキー&ハッチ」に特別出演
1975年4月に放映された「刑事スタスキー&ハッチ」はすぐにヒットした。これは南カリフォルニア刑事2人がベイ・シティーを歩き回る様子を描いたアクションテレビシリーズだった。
リンダ・カーターは、この当時すでにスターに上りつめており、「ラスベガスの絞殺魔」という特別回にゲスト出演している。カーターは、この回でヴィッキーという女性を演じており、コーラスガールを次々に絞殺する連続殺人犯を探す2人を助けている。
リンダ・ロンシュタット、80年代に「ロックの女王」として有名になる
グラミー賞を11回も受賞したリンダ・ロンシュタットは20世紀が誇る偉大なミュージシャンの1人だった。1960年代にミュージシャンとして活動を始めたが、「初めての女性ロックシンガー」として知られるようになったのは、それからおよそ10年後のことだった。
ロンシュタットは風にさらわれた恋など、30枚のアルバムをリリースした。1976年にリリースしたアルバムは、ロンシュタットの3回連続100万枚を超えるヒットアルバムとなった。これは、女性初の快挙だった。
チャールズ・ブロンソン、ジル・アイアランドと15本もの映画に共演
この写真は、アメリカ人俳優のチャールズ・ブロンソンと妻でイギリス人女優のジル・アイアランドが、1971年にカリフォルニアのサンタモニカの道を歩いているところを、おしゃれな2人として撮られたものだ。よく、公私混同するべきではないなどと言われているが、この有名人カップルは気にもとめていないようだ。2人は夫婦で15本もの映画に出演している。アイアランドは「チャールズ・ブロンソンの映画に多く出ているけれど、それは他の女優さんが彼と一緒に仕事をしたがらないからよ。」と冗談を言っている。
2人は1968年に結婚をして以来、1990年に乳がんでアイアランドが死去するまで仲睦まじかったようだ。
ヒンデンブルクの大惨事
1937年5月6日に撮影されたこの写真は、たとえ一番ではなかったとしても、よく知られている世紀の航空災害を写した1枚だ。36名の乗客と61名の乗務員を乗せたLZ129「ヒンデンブルク」は、ドイツ発アメリカ行き大西洋横断飛行の最後にニュージャージー州マンチェスター・タウンシップで墜落した。飛行機の爆発事故により、35名が死亡している。
ヒンデンブルクは最終的に着陸時に破壊された。この災害により、地上整備員も手助けする際に命を落としている。
シェール、1974年に時代の先駆け
シェールは1974年のメットガラでこの象徴的なドレスを着用した。この年のメットガラのテーマは「ロマンチックでグラマラスなハリウッドデザイン」。この頃までにソロとしても活躍を始めていた一方で、ソニー・ボノとの最初の結婚生活は破綻寸前であった。
今日、有名人らは想像力をかきたてるようにシースルーのドレスを着用することが多いため、この写真のシェールのドレスも何ら新しいものとは思えないかもしれない。しかし1974年当時、こうしたドレスなどこれまでにはなかった。このシェールの革新的なスタイルは人々に大きなインパクトを与え、今日のシェールを作ったレッドカーペットの伝説を生んだ。
スケートボーダーのエレン・オニール、ハング・テンを決める
エレン・オニールはスケートボード界では、偉大なフリースタイラーの1人として知られた人物だ。オニールはスケートボード世界大会で優勝し、1970年代後半にかけて、世界フリースタイルのタイトルを保持した。
オニールは、サンディエゴに生まれ、育った。サンディエゴといえば、写真でオニールがショートパンツを履いているように、1970年代にスケートボード文化が全盛期を迎えていた。ティーンエイジャーとして、スケートをはじめてからわずか1年後にスポンサーがついてくれるようになる。
1973年レッド・ツェッペリンの北アメリカツアーで、白いハトが舞う
1973年、レッド・ツェッペリンのコンサート中に、1羽の白いハトがロバート・プラントの手のひらに飛んでくるハプニングがあった。それはまさにファンらにとっては夢のような瞬間だっただろうが、インターネット上で多くの人は、これが演出だったとしている。
いずれにせよ、レッド・ツェッペリンは人気の絶頂を迎え、1973年の北アメリカツアーで最高の観客動員数を記録する。マディソン・スクエア・ガーデンでは、チケット完売のショーを3回行い、フロリダ州タンパでは5.6万人を超えるファンを動員、ビートルズの記録を更新している。
クラリス・デイヴィス、1951年アフリカ系アメリカ人として初めてのホームカミング・クイーンに
1951年ホームカミング・クイーンに選ばれたとき、クラリス・デイヴィスはイリノイ大学教養学部の4年生だった。デイヴィスはアフリカ系アメリカ人として、初めて主要大学のホームカミング・クイーンに選ばれた。
これはイリノイ大学がホームカミングゲームにてアイオワを下した、観客でいっぱいのスタジアム前を通っている写真だ。デイヴィスは翌年1952年に卒業している。
サディスト的な変身ピエロに扮することは、ときに大変…
…この写真は、ティム・カリーが1990年版の「イット」の衣装を身につけたまま、冷たい雨の中、一服しているところだ。カリーはキャラクターに扮していたのだが、あまりにもうますぎて、子役らを怯えさせた。
「子役らに同情するよ」と、かつてカリーは、子どもの手をひいて軒下に連れて行こうとした時の様子を回想しながら述べている。「子役の子は立ち止まって、『ティム、怖いよ』と言ったんだ。そこで、『あっ、ごめんよ。でもそれこそが僕の役なんだよ。』って答えるしかなかったよ。」
ケネディら、マイ・スペースができる前に、鏡を使って自撮り
現代の子どもらは、自撮りをすることでよく批判にさらされている。しかし、ご覧の通り、歴史は繰り返している。ジャッキー・ケネディはそれが流行る前に、すでに自撮りを行っている。ほら、若かりし頃のジョン・F・ケネディと、ジャッキーの義姉にあたるエセル・ケネディとポーズを撮っている。
歴史学者のマイケル・ベシュロスは、2014年、ツイッターでこの写真をシェアし、60年前のものであるとコメントした。もしこれが本当だとすると、この写真撮影時には、まだジョン・F・ケネディが上院議員で、暗殺のおよそ10年ほど前の出来事だ。
死ぬ前のジェームズ・ディーンを最後に撮影したとして知られている写真
これは1955年9月30日、ロサンゼルス北部のガソリンスタンドで撮影された写真だ。「リトル・バスタード」と名付けた、シルバーのポルシェ550スパイダーに給油し、出ることがかなわなかったロードレースに備えている。
この写真の撮影直後、ディーンはレースに向かう途中にほぼ正面から衝突して死亡したことから、「リトル・バスタード」は呪われていると言われている。ディーンは当時わずか24歳で、最後の映画となった「ジャイアンツ」の撮影を終了したところだった。
1966年、トップギタリストの2人が出会い、人生が変わった瞬間
1960年代、多くの人はジミ・ヘンドリックスの演奏を聴くまでの間、エリック・クラプトンがギターの神だと信じて疑わなかった。クラプトン本人も、アメリカでファンを増やせなかったヘンドリックスがロンドンで演奏するのを聴いて感銘を受けている。
1966年に2人は初めて顔を合わせた。クラプトンは「ヘンドリックスは、考えられるすべてのスタイルで演奏したんだ。それも、派手なやり方などではなく。もちろん、ヘンドリックスはちょっとした技を見せたけど、ちっとも得意げで嫌な感じではなかったんだ。そして演奏を終了したけれど…演奏を聴いて、僕の人生は変わったよ。」
グウェン・ステファニー、有名人になる前のサインをもらうファンとしての姿
2014年、グウェン・ステファニーは、自身が若い頃にスティングにサインをもらっている写真をシェアした。これはグウェンが14歳で、自身に言わせると「ぽっちゃり」としていた1983年のことだったという。
当時、スティングはまだソロ活動をしておらず、ロックバンド「ポリス」のリーダーだった。1983年までに、ポリスは6部門でグラミー賞を受賞しており、最後のアルバム「シンクロニシティー」は、最優秀アルバム賞を含む、その他5つの部門でノミネートされていた。
ナタリー・ウッド、子役から女優に
おそらく1965年頃のこの写真のように、ナタリー・ウッドはよくプールの傍にいたのだろう。ウッドは子役として人気スターとなった後、1955年、ジェームズ・ディーンと「理由なき反抗」で共演し、見事に女優へと変身を遂げた。
1961年には、映画化された「ウエストサイド物語」でマリア役を務めた。この写真が撮影された頃、つまり26歳までに、ウッドは3度もアカデミー賞にノミネートされていた。この記録は、2014年にジェニファー・ローレンスが記録を塗り替えるまで、50年間も続いた。
思春期のメタリカ、1982年に最初の公演を行う
1982年、ヘヴィメタルバンド「メタリカ」のメンバーらが、まだ10代のときの写真だ。この年、メタリカはカリフォルニアのアナハイムにあるラジオ・シティーで最初の公演を行った。このとき、メタリカが演奏した曲の中でもオリジナルは「ヒット・ザ・ライツ」と「ジャンプ・イン・ザ・ファイヤー」のわずか2曲だった。
1981年後半、ラーズ・ウルリッヒが、地元の新聞にヘヴィメタルバンドメンバー募集の掲載をする。この募集記事に応える形で加わったのが、ギタリストのジェイムズ・ヘットフィールドだった。
ブリジット・バルドー、18歳
この顔に見覚えがあるだろうか?これは他でもない、ブリジット・バルドーだ。この写真は、1953年、素晴らしいフランス女優のブリジットがわずか18歳のときに、カンヌ映画祭で撮影された。
このカンヌ映画祭は、ブリジットにとっては初めての大きなイベントだったが、この当時はまだそこまで有名ではなかった。この写真の頃は、まだ髪の毛の色もダークブラウンのままだ。およそ1年後に、ブリジットは、後に彼女の象徴ともされる金髪の巻き毛にし、ダークブラウンの絶世の美女は、金髪の絶世の美女となったのだ。
これまでに見たこともない女王陛下のお姿
王室としての生活とは、厳しいしきたりに従い、常にきちんとした身なりでいるということだ。そのため、エリザベス女王が機関銃を持っているところを見るのはちょっと衝撃的だ。この写真は1993年、女王陛下が、イギリス軍で主に使用されている大型機関銃L85を撃っているところだ。
エリザベス女王は淑女として常にふるまわれるが、軍隊の機能に精通していないわけではない。女王は、第二次世界大戦中には、婦人の補助地方義勇軍に参加していたのだ。
気絶してしまったイギリス軍兵士
イギリス軍令は厳しいことでも知られているが、どのようにして倒れてしまわないようにしなければならないかについてのルールがあることはご存知だろうか?そう、もしイギリス軍の兵士であるならば、膝を少し曲げて、倒れてしまわないようにしなければならない。こうすることで、血液の循環を助け、気絶しないようにするのだ。
残念ながら、この写真の兵士は軍令に従わなかったようだ。これは1970年に撮影された、エリザベス女王が来られる前に、気絶してしまった兵士(名前は明かされていない)の様子だ。
アドルフ・ヒトラーのレア写真
アドルフ・ヒトラーの貴重な写真だが、狂信的指導者のヒトラーがナチ党のアルベルト・フォルスターの妻、ガートルード・ディーツと共にお茶を楽しんでいる様子だ。
当時、ヒトラーはエヴァ・ブラウンという名の女性と秘密の関係にあったとされる。この女性との関係は、第二次世界大戦終了時に、ヒトラーの地下壕で共に自殺するまで隠されていた。ヒトラーとエヴァは自殺する40時間前に結婚したという。
ノースアメリカン社XB-70ヴァルキリーの試作品
この貴重な写真は、ノースアメリカン社が開発したXB-70ヴァルキリーの試作品だ。6基のエンジンが搭載され、核ミサイルが搭載可能な戦略爆撃機として開発された。マッハ3以上の超音速で長距離を移動できるこの爆撃機は、1950年代当時には、現代科学の驚異だとされた。
やがて、米空軍が航空機の生産を中止し、当機B-70計画も1961年に完全に打ち切られる。XB-70Aとして2機新しい試作品が作成されたものの、1機は他の戦闘機との編隊飛行中に接触事故で墜落している。残った1機は米空軍基地の空軍博物館に展示されている。
開けてくれ!
この写真を見ると、不安な気持ちになる?そう、そのはずだ!この写真の経緯などは明らかにされていないが、どうやら、バラオ級潜水艦の一隻、クイーンフィッシュの様子を撮影したもののようだ。この潜水艦は1943年7月27日に起工され、11月に進水している。クイーンフィッシュは、翌年、4,700トンのタンカー、千代田丸に魚雷を命中させ、沈没させている。
クイーンフィッシュは、その後1963年3月1日に正式に退役するまでのおよそ20年間、役目をまっとうした。その後、原子力潜水艦のソードフィッシュに標的艦として沈められた。
映画撮影中のマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リー
偉人について語ろう!この写真は憧れの的、マーロン・ブランドとイギリス女優のヴィヴィアン・リーが「欲望という名の電車」のセットで、一服しているところだ。映画は1951年に公開されたが、当時の最も代表的な映画作品の1つとなり、「ステラ!」のシーンは特に有名だ。
撮影当時、ブランドは映画に出始めたばかりであった一方、リーはすでにアカデミー賞を受賞した人気女優だった。この映画での素晴らしい演技が評価され、「欲望という名の電車」によってブランドは世界的な大スターへ駆けあがる。