マーク・ハーモン式・キャリア&結婚生活の秘訣
特別捜査官のリロイ・ジェスロ・ギブスとしてご存知の方も多いかもしれませんが、マーク・ハーモンの本当の魅力は見た目以上のものです。40年以上に渡る俳優キャリアを持ち、過去16年はCBSの『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』に主演しているハーモンは、 パム・ドーバーと31年にわたって結婚生活を送っています。これは、「すべてのハリウッドの結婚が短命である」という逸話を打ち破る記録です。
ハーモンは、どのようにしてキャリアを築いてきたのでしょうか?また、どうやって結婚生活をこれほど長続きさせることができているのでしょうか?マーク・ハーモンの成功の秘訣を一緒に読み進めていきましょう。
有名だったハーモンの親
ハーモンは、3人兄弟の末っ子です。トム・ハーモンとエリス・ノックスの間に、1951年9月2日に産まれました。ハーモンの父親は、ロサンゼルス・ラムズのアメフト選手で、1940年にミシガン大学のハーフバックとしてハイズマン賞を受賞しています。
ハーマンの母親のエリスは、ファッションデザイナー兼女優で、『ジョー・パルーカ、チャンプ(原題)』の恋のお相手であるアン・ハウを演じました。ハーマンの両親の仕事を考えれば、ハーマンがどちらの道を辿っても驚きではないはずです。
関係が良くなかったハーモンと父親
ハーモンの幼少期、父親はスポーツキャスターとしても活躍しており、ロサンゼルス・ラムズの2シーズンを追っていました。トムは家族と離れて過ごすことが多く、これはハーモンとの関係に大きな影響を及ぼしています。
物理的な距離によって、ハーモンと父親の間は、常に緊張状態が保たれていたものの、2人はスポーツによって通じ合っていました。「父さんは厳しく僕を育てたんだ。ここで言う"厳しい"は、本気の厳しいだよ。すべてのために戦うように教育されてきたんだ」と、ハーモンは『ピープル』誌に語っています。
腕力も知力もあるハーモン
ハーモンと父親のスポーツへの関心を考えれば、マーク・ハーモンがアメフト選手として活躍したことは驚きではありません。オクラホマ大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校からアメフトプログラムのオファーを受け、最終的には後者を選択しました。
UCLAブルーインズのクオーターバックとして1972年から1973年まで活躍し、チームの17-5記録に貢献。その次の年、彼はラテン・オナーズでコミュニケーションの学位を取得して卒業しています。
アメフトから離れることを決意
大学卒業後、ハーモンはプロの道に進むようにかなりの額でオファーを受けます。しかし、ハーモン自身は別のことに挑戦したいと考えていました。当初、法律を学ぶことに興味を抱いていたハーモン。その当時は、「スポーツに詳しい弁護士にとっては、契約分野は活動の幅がある」と考えられていたのです。
しかし、法律への道がうまくいかないとなると、ハーモンは、広告業という選択肢を見出し、Ytdia Centralのマーチャン・ダイジング・ディレクターに就任します。しかし、ハーモンは、これは自分が求めるようなキャリアではないと気づいたのです。
頭の片隅にあったこと
自宅を購入できるほどの収入は得ていたものの、ハーモンは自身のビジネスキャリアに満足できていませんでした。「あるとき飛行機の中で、僕は幸せじゃないと気づいたんだ。スーツとネクタイの他のビジネスマンを見て、これは僕のしたいことじゃないなって思ったんだ」と、1977年、ハーモンは『テレグラフ』紙に話しています。
「俳優業、というのは、常に頭の片隅にあったんだ」と話すハーモン。しかし、それを受け入れたのは20代半ばを過ぎたくらいでした。
すでにカメラには慣れていたハーモン
ハリウッドの世界に近いところで育った人間として、マーク・ハーモンは自然と俳優のキャリアを追い求めるようになります。「中学の時にカメラに撮られることは慣れたかな。家族でシリアルのコマーシャルを家の庭で撮影してたんだ」と、『テレグラフ』紙に話しています。
ハーモンの初の全国ネットへの露出は、父親のトムと出演したケロッグのシリアルのCMです。トムは、同企業の広告塔を務めていました。
家族のコネで得たハーモンの最初の役
マーク・ハーモンが本当のハリウッドを味わったのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校時代。当時、ハーモンの姉のクリステンは、オジー・ネルソンとハリエット・ネルソンの息子である、リッキー・ネルソンと結婚していました。義理の兄を通じて、ハーモンは『オジーズ・ガールズ(原題)』の脇役を得ます。
その時は、アメフト一筋だったものの、数年後、俳優業を本気ではじめてみることとなります。
演技クラスを受講したハーモン
家族が業界とのつながりがあるにも関わらず、ハーモンは、夜の演技クラスを受講し、昼間は大工や営業の仕事をして、自分で道を切り開いていきました。
「母さんと父さんに「100%俳優で行くよ」、と言ったら、応援はしてくれたよ。ただ、僕の頭がおかしいと思ったみたいだったね」、と、ハーモンはCBSの『サンデー・モーニング』で語っています。
主役を任されたハーモン
ハーモンの演技のキャリアは、『エマージェンシー!』、『特捜隊アダム12』、『女刑事ペパー』などへの小さなゲスト出演からスタートしました。『エマージェンシー!』への出演は、『905ワイルド』というエピソードで、LAの動物管理官に関するパイロット版でした。
結果は芳しくなかったものの、プロデューサーのジャック・ウェッブが、『サム(原題)』の主演に彼をキャスティングします。1978年に放送されたこのシリーズは、 ロサンゼルス市警察とその警察犬相棒の話でしたが、わずか6話で幕を閉じました。
ハーモンの初めてのエミー賞ノミネートは1977年
チョイ役だったり、不人気ドラマの主演しか務めていなかったものの、マーク・ハーモンの運はまだ尽きていませんでした。1977年のTV映画の『エレノア・アンド・フランクリン:ホワイト・ハウス・イヤーズ(原題)』で、ハーモンはロバート・ダンラップを演じています。
この素晴らしい演技で、ハーマンはエミー賞の助演男優賞にノミネートされたのです。しかし、彼の本当のブレークは、これよりずっと先です。
安定した役柄を得るように
1980年、ハーモンはモーガン・フェアチャイルドと並んで『フラミンゴ・ロード』に出演します。ハーモンが演じたのは、結婚で金持ち一家の一員になった野心家の政治家、フィールディング・カーライルです。しかし、このシリーズは、2シーズンで終わってしまいました。
この時点で、ハーモンは残念なテレビ番組にキャスティングされる運命にあるように思われるかもしれません。しかし、幸運にもそこで終わってしまうわけではなかったのです。『フラミンゴ・ロード』終了後、ハーモンは『セント・エルスウェア(原題)』にキャスティングされました。
ロバート・コールドウェル博士としてブレイク
マーク・ハーモンの最初のブレイクは、1983年のNBCの『セント・エルスウェア(原題)』です。第2シーズンの初めから、ロバート・コールドウェル博士として加わりました。ロバート・コールドウェル博士は、女たらしとして病院内で有名な整形外科医です。
ハーモンの役は、ファンから愛され、シーズン4でコールドウェルがHIVの診断を受けた際はファンがショックを受けたほどです。この役は、HIVを発症した、テレビ業界初の異性愛者のキャラクターでした。
番組の去り方に満足
コールドウェル博士は、『セント・エルスウェア(原題)』ファンの間でも人気のキャラクターでした。しかし、ハーモンは、この役にもっと多くを求めていたと認めています。時期尚早に番組を去ったのは、それが理由です。
『エイズというアイディアには、ワクワクしたよ。自分から"辞めたい"とは一度も言ってないんだ。ドラマチックでタイムリーな話の流れを受け入れてドラマを去るか、さらに3シーズンほど病院の廊下を歩いて他の医者にあいさつし続けるかの2択だったんだ。だから、ドラマチックなシーンを選んだってわけさ』と、ハーモンは語っています。
最もセクシーな男に選ばれたことがあるハーモン
コールドウェル博士の心が折れるような『セント・エルスウェア』での最後にも関わらず、出演した3シーズンによって、特に女性からドラマを超えて人気になりました。同ドラマでのハーモンのチャーミングな役柄のお陰で、1986年、『ピープル』誌の史上2人目の「最もセクシーな男」に選ばれます。
「女性たちが集まって、おっぱいを見せてきて、どう思うかなんて聞いてくるんだ。自分達で勝手にやったんだよ」と、ハーモンは『ピープル』誌に語っています。
プライベートでは一人に尽くす
「世界一セクシーな男」とされても、ハーモンは女性をとっかえひっかえしていたわけではありません。「僕は本質的に一人の女性に尽くすタイプなんだ。今みたいに、1人でいても特に平気だよ」と、1986年に『ピープル』誌に語っています。
この称号を得る前、ハーモンは『フラミンゴ・ロード』の共演者で、1978年のミニシリーズ『遥かなる西部』の撮影で出会ったクリスティーナ・レインズと、4年間に渡り交際していました。その後、『ダイナスティ』のヘザー・ロックリアと短い間付き合っています。
パム・ドーバーとの出会い
「僕が結婚する時は、世間が"そんなのあり得ない"なんていうようなものにしたいんだ。僕は女を漁るようなことには興味はなくてね」と、最もセクシーな男受賞の際に『ピープル』誌に語っているハーモン。同年、偶然にも、ハーモンはパーティーでパム・ドーバーに出会います。
ドーバーは、70年代後半に演技にシフトした元モデルです。彼女は、ミンディ・マコネル役としてロビン・ウィリアムズと共演した、『モーク・アンド・ミンディ(原題)』でブレイクしました。
子育てのために女優業を諦めたパム
『モーク・アンド・ミンディ』が1982年に放送を終了したのち、ドーバーは『マイ・シスター・サム(原題)』などの人気シットコムにも出演しました。同作の中で、ドーバーはサマンサ・ラッセル役を演じています。 『マイ・シスター・サム』は長続きしませんでしたが、ドーバー自身も、人生の中で別の方向へ向かい始めていました。
1987年、ドーバーとマーク・ハーモンは結婚。息子のショーンとタイがすぐ生まれたため、ドーバーは家族に集中すべくキャリアを諦めています。
法廷沙汰
マーク・ハーモンは修羅場とは無縁の俳優ですが、結婚直後、甥のサムをめぐって、泥沼の親権裁判になりました。ハーモンは、姉のクリスが親として不適任であるとして、1987年、自身の甥の親権をめぐり控訴したのです。
その2年前、飛行機事故でニッキー・ネルソンが亡くなり、クリスはドラッグに溺れるようになりました。しかし、家庭内で緊張状態が高まったため、 ハーモンは結局この申し立てを取り下げています。
映画への出演が増えていったハーモン
さて、ハーモンには映画への出演も増えていきました。思い出深い1987年のコメディ『サマースクール』には、お気楽な体育の先生、フレディ・ショープとして出演しています。ハーモンは、奥さんの反対を押し切って、この役を受けています。同映画の監督であるカール・ライナーと仕事をしたかったためです。
「僕にとって大きな変化だったんだ。"ライナーが僕にできるって思ってる?!"ってね。僕にとっては意味のあることだったんだよ。でも、パムが"この映画はやらないで"って言ったんだ。僕たち2人が、常に同じことに興味があるとは限らない。でも、僕たち夫婦にとってはそれが健全なんだ」と、ハーマンは『ピープル』誌に語っています。
自分の優先順位に気づいたハーモン
90年代までマーク・ハーモンは映画に出演し続けました。しかしすぐに、このキャリアが原因で、家族と過ごす時間が減っていることに気づきます。
「僕はニューギニア島にいて、たいして良くもない映画(『ゴールド・レイダース』)を作ってたんだ。そんな時長男が歩き始めてね。人生の大事な瞬間を逃すのに、必要な仕事なんて、この世に存在しないだろ?」と、ハーマンは『クローサー・ウィークリー』に語っています。そこから、家のそばに入れるようにとテレビドラマにシフトしました。
ハーモンが本物のヒーローだったとき
1996年、マーク・ハーモンは10代の少年の命を救って、一面を飾りました。ハーモンのロスの自宅の外でジープが衝突して、炎に包まれます。運転手は、外に抜け出すことが出来たものの、16歳の少年が助手席から抜け出すことが出来ずにいました。
ハーモンは、大型ハンマーで助手席の窓を割り、16歳の少年を車から引きずりだしたのです。事件の数10年後にハーマンが主演することになるドラマのワンシーンのようですよね。
『ザ・ホワイトハウス』に仲間入りしたハーモン
90年代のハーモンのキャリアは、その数十年前に比べれば、ワクワクするようなものではありませんでした。しかし、2002年、すべてが変わります。その年、彼は大ヒットNBC政治系ドラマの『ザ・ホワイトハウス』にキャスティングされました。ハーモンは、シークレットサービスのサイモン・ドノヴァンを演じます。
第3シリーズのおけるハーモンの4エピソードに及ぶストーリーでは、強盗に殺されてしまう前まで、親しくなったホワイトハウス報道官のC.J.クレッグを警護しています。
前もって計画されていた死
ハーモンは、『ザ・ホワイトハウス』でキャラクターがすぐ殺されたことを気にしていませんでした。彼によれば、アーロン・ソーキンやアリソン・ジャネイと仕事が出来ただけでも光栄だったのです。しかし、彼が殺されることになったのは、ジャネイとの化学反応が原因のようです。
「第1週目、アリソンが僕のところに来て言ったんだ。"あなたのキャラクター、きっと殺されるわよ"って。だから僕は、"殺されるってどういうこと?"って聞いたんだ。そしたら、"私たち、仲が良すぎるもの。絶対殺されるわよ"って言われたんだけど、本当に正しかったよね!」と、ハーモンは『The A.V. Club』に語っています。
2度目のエミー賞
『ザ・ホワイトハウス』のファンは、すぐにハーモンの虜になりました。そのため、ドノヴァンの死は、かなりショックだったようです。しかし、この役でエミー賞のドラマシリーズ最優秀ゲスト俳優部門で2度目のノミネートを受けました。1度目からちょうど25年後のことです。
ハーモンがエミー賞を受賞することはありませんでしたが、『ザ・ホワイトハウス』での役は記憶に残るものとなりました。
準備を整えていたハーモン
『ザ・ホワイトハウス』への出演で、多くの人が彼の存在を知ることとなりました。その一人が、ドナルド・P・ベリサリオ。彼は、当時次のプロジェクトに受けて動き出していたのです。それが、人気のアメリカ海軍法務部ドラマ『犯罪捜査官ネイビーファイル』のスピンオフ作品。
「ハーモンの中に、とても抑制の取れた存在と、静かな強さを見たんだ。それこそ、僕が求めていたものだった。マークの持つ体育会系のメンタリティー。どれだけ辛くても、どうにか乗り越えちゃうんだよね」と、ベリサリオは『エンターテインメント・ウィークリー』に語っています。
ギブス役で『犯罪捜査官ネイビーファイル』デビュー
2003年、『犯罪捜査官ネイビーファイル』で2つのエピソードに出演したハーモン。シーズン8の『アイス・クイーン』エピソードの中で、特別捜査官のリロイ・ジェスロ・ギブスとして登場します。これはNCIS特別捜査官の役です。
このエピソードは、『犯罪捜査官ネイビーファイル』のスピンオフである、『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』への付箋となっています。このスピンオフは、オリジナルよりも長続きし、現在も放送中。ベリサリオは、マーク・ハーモンのキャスティングは正しかったと確信したはずです。
名声と富にはスキャンダルが付き物
2003年に『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』が放送を開始して、ハーモンはリロイ・ジェスロ・ギブスを演じています。ドラマがどれだけ人気になって、どれだけ自分のプライベート生活に影響を及ぼすか、ハーモンには見当もついていませんでした。「第1シーズンはそこそこで終わったよ…人々が自分達に注目を浴びせるほどでないくらいの、中間ぐらいの良さでね」とハーモンは語っています。
しかし、それも長くは続かず、すぐに『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』は人気ドラマとなり、ハーモンの知名度も上がりました。キャリアと家族を築き上げたところに、『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』がどのようにして彼のすべてを変えてしまったのでしょうか。
ハーモンが感謝しているキャストチーム
今日まで、ハーモンはリロイ・ジェスロ・ギブスとして『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』を率いています。つまり、ドラマは15年以上も続いていて、まだまだこれらかも続くということです。ドラマがこれだけ成功を収めたのは驚きですが、ハーモンはこれもキャストのお陰であると考えています。
「これはキャラクターによって成り立ってるドラマなんだ。それは僕にとって一番合ってるかな。チームが一緒になって、一緒に問題を解決したりしなかったり。問題が解決しないこともあるんだ」と、ハーモンは話しています。
自分の上司の首を切ったハーモン
彼を支援するキャストやクルーのお陰で『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』は成功を収めていますが、舞台裏ではすべてがスムーズとはいかなかったようです。ハーモンは、次第にベリサリオの「めちゃめちゃなマネージメントスタイル」に嫌気が指してきた、と報道されています。
「マークは毎日働いてたんだ。1日16時間。台本はギリギリに出来上がりFAXで送られてくる。マークはそんな扱いに嫌気が指してきてたんだ」と、当時、情報誌『TVガイド』に話しています。最終的に、ベリサリオは『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』の現場責任者の地位を辞任することになりました。
まだ終われないハーモン
ギブスを演じることに加え、『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』のエグゼクティブプロデューサーにも就任したハーモン。ほぼ20年に渡り同じ役を演じ続けることに飽きたのでは、と思う方もいるかもしれません。しかし、彼の場合、すぐにこの役をやめることは考えていなかったようです。
「脚本家が僕の部屋に来て、"何を書いたらいいかわからないよ"なんていうような日がもし来たとしたら、お互いの顔を見て、それこそやめるときだと思うんだ。でも、僕たちはまだ終わってない」と、ハーモンは『ピープル』誌に語っています。
ドラマを去る理由がない
ハーモン自身も、まだやめる準備は出来ていないようです。「なんであるかを理解するのに十分な位この役を演じてきたよ。そういうコミットメントは、僕自身が選んだことだろ?このドラマが終わってしまうことがあれば、自分でもわかる。このような作品は他にはないんだ」と、ハーマンは『ピープル』誌に語っています。
さらにハーモンは、「永遠に続くものなんてない…でも、今は去る理由がない」と付け加えています。すぐにお気に入りの捜査官を失うことはないと考えてよさそうです。
自然だとは思わない
『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』の長きにわたる成功の中、彼が良き父親であることを忘れたことはありません。2019年現在、マーク・ハーモンとパム・ドーバーは30年以上も結婚生活を続けています。これは、ハリウッドカップルではかなり珍しいことです。
「パムと僕は、どっちもこの業界で生計を立てていたんだ。それでも、それはなかなか難しいよね」と、ハーモンは『クローサー』に話しています。
芸能界が結婚に良くないことは承知していた夫婦
パムもハーモンには同意しています。「お互い芸能界で常に働きながら、結婚生活を続けることが出来るとは思わないわ」と、話すパム。だからこそ、パムは良き母、妻であることに集中しているのです。
「子どもが出来て、"私はこの名声とやらを追うことは、もう必要ないわね"って思ったの。そして、私もそれで満足だったのよ」と、『クローサー』に話しています。しかし、それでも、どうやってこの結婚生活を2人が維持し続けているのか、人々は不思議に思っているようです。
大人として成熟していたお陰
ごくたまに、ハーモンとドーバーは結婚生活を維持する秘訣を暴露しています。ハーモンは、その理由の一部を2人の成熟性のお陰であると考えています。
「結婚した時、僕たちはどちらも30代だったんだ。若い時にした過ちが役に立ったんじゃないかな。秘訣って言ったら、それくらいしか思いつかないなぁ」と、ハーモンは『ピープル』誌に語っています。しかし、ハーモンには毎日気を付けていることがあります。
常に身に着けておくようにする
ハーモンが結婚生活を維持するためにもう一つしているのが、毎日指輪をつけることです。それは結婚指輪とは限りません。時には、自分の祖父の形見であるワシの頭の指輪をつけることもあります。
「撮影していないときは、結婚指輪や数個の指輪をしてるんだ。だって、結婚したことを誇らしく思ってるし、自分が結婚した相手を誇りに思っているんだ」と、ハーモンは語っています。
秘密を守ることが必要
パム・ドーバーは、マーク・ハーモンとの関係に置いて、常に戦略的でした。少なくとも、公に出ることに関しては、です。1987年、ドーバーは、たくさんのうわさがある中で、自分たちの関係を公に話さない理由を『ピープル』誌に明かしています。
「秘密にしようとしてるわけじゃないのよ。でも、もしパパラッチに利用されたくなかったら、そうしなきゃいけないこともあるわ」と話したドーバー。プライバシーは、彼らが家族の中で大切にしたもののようです。
スポットライトを避ける
マーク・ハーモンとパム・ドーバーは、プライベートで結婚式を挙げています。そのようなプライバシーは、家族の中でも大切にされています。子どもが生まれると、夫婦は意図的にスポットライトを避けるようになりました。
「雑誌で私たちのことを見ないことに気づいたかしら。結婚していると、それが現実よ。外に出る度、子どもを隠しながら生活するなんて…私は嫌だわ」と、ドーバーは『エンターテイメント・トゥナイト』に話しています。旦那さんのハーモンも、プライベートと分けることが長続きさせる秘訣だと同意しています。
ソーシャルメディアを避ける家族
家族を育みながら結婚生活を維持するためには、地味に過ごすということが大事であるという点で、ハーモンは奥さんと同意していました。2人は意識的に家で過ごすようにしていたのです。
「選択肢の問題じゃないんだ。これが、僕たちという人間さ。家で時間を過ごす。たくさんのね。僕は、TwitterやFacebookをするような人間でもない。息子もそういうものには興味がなくてね」と、ハーマンは『クローサー』に明かしています。おそらく、これはハーマン自身の育ってきた環境が関係しているのでしょう。
自分が育って環境での子育て
”ゴシップ誌に追われないような家庭を築く”というハーモンとドーバーの決断は、ハーモンの育ちが関係しているのでは、と思う方もいるかもしれません。有名な親の元で生活していたにも関わらず、ハーモンは「普通に」成長しました。
「僕の親は現実的だったんだ。僕は、親が有名だなんて全く知らなった。父さんとある日車に乗っていて、突然父さんを知っている人に囲まれるまで全くわからなかったよ。自分がよく知っていると思っていた父さんを見つめて、この人一体誰なんだ、って思ったことを覚えてるよ」と、ハーモンは思い出しています。
空港で見かけたら、挨拶くらいはしてくれるかも?
『NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班』の大成功のお陰で、家族のためにプライベートライフを秘密にしているにも関わらず、やはりハーモンは道端でバレてしまうことがあるようです。ハーモンは、気づかれること自体は時々であれば構わないと考えています。
「ドラマが好きなファンに囲まれずに空港を通り抜けるのは大変なんだ。文句を言っているわけじゃないよ。謝りながら空港を歩くのはどうかと思うだけさ」と、ハーモンは『ペイジ・シックス』に答えています。