王族の闇、精神疾患や狂気・精神異常に苦しんだ王族とは
昔から、人々は病気や精神疾患、先天性欠損症などに悩まされてきましたが、王族もその例外ではありません。これまでにも多数の王族が、生活に重大な影響を及ぼす遺伝性疾患を患っていましたが、たいていの場合、その王族の健康状態が問題視されることはありませんでした。病気を抱えたまま人生の大半を過ごしつつ、治世に尽力した王族たちをご紹介しましょう。
ポルトガル女王マリア1世、狂気の女王として知られていた
マリア1世は、1777年~1816年にかけてポルトガルを治世しましたが、精神的に不安定でした。また、体調が思わしくなかった叔父と結婚しています。在位中に、2人の子どもと義理の息子、そして孫までを天然痘で亡くしています。これらの死によって、女王はそれまで以上に精神に異常をきたしていったと考えられています。
時折、女王は訳もなく癇癪(かんしゃく)を起こし、子ども用に作られた服を着ようとしていたことから、狂気の女王と呼ばれるまでになりました。1799年には、実質的には息子が国を治め、マリア1世は名ばかりの女王となりました。その後、ナポレオン戦争でブラジルに逃亡した直後、女子修道院で崩御しました。
アレクセイ・ニコラエヴィチ皇太子の病気によって、悪名高いラスプーチンがロマノフ家の信頼を得る
当時は誰も知らなかったのですが、ロシア帝国の正式な後継者だったアレクセイ・ニコラエヴィチは、血液が正常に凝固しない遺伝性疾患である血友病を患っていました。母親のアレクサンドラは息子の病気を治そうとして、様々な病気治癒ができると噂されていたものの、評判の良くなかったラスプーチンを招き入れます。
皇帝夫妻からの信頼を勝ち取ったラスプーチンは、次第にアレクサンドラの考えや決断にまで影響を及ぼすようになり、権力を持つようになりました。結果的に、ラスプーチンは1917年のロシア革命を引き起こすきっかけとなり、皇帝一家は処刑されました。
ツタンカーメン王、体のあちこちが悪い
ツタンカーメン王は、古代エジプトで最も有名かつ議論がなされたファラオの1人ですが、近年のDNA検査によって、健康とはまったく言えない状態だったことが明らかになっています。研究によると、紀元前1300年頃に王位についたツタンカーメンは、兄弟姉妹で結婚していた王家の伝統によって引き起こされた遺伝性疾患のために、信じられないほど体が弱かったことが明らかになりました。
わずか10歳で即位して19歳で逝去するまで、ツタンカーメンには口蓋裂があり、脊柱側彎症を患っており、内反足で、その頭蓋骨は奇形だったと考えられています。専門家らは、その免疫システムが弱いためにかかったとみられるマラリアの跡も見つけています。
メディチ家、くる病に苦しむ
フィレンツェのルネサンス時代、メディチ家はイタリアで最も権力を握っていた一族でした。しかしながら、裕福で影響力を持っていたメディチ家でさえも、ビタミンD欠乏により生じるくる病(脚の湾曲など骨格異常を引き起こす病気)から逃れることはできませんでした。
科学者らはドン・フィリッポを含むメディチ家の9人の子どもの遺骨を分析したところ、9人のうち6人に手足の湾曲などが見られ、くる病を患っていたことが分かりました。これは、メディチ家の一族が子どもを過保護にするあまり、外にも出さず、授乳を長く続け、肌をほとんど露出させなかったためだと考えられています。
拒食症とうつ病に苦しむオーストリア皇后エリーザベト
「シシィ」の愛称で知られる皇后エリーザベトは、いとこに「狂王」と呼ばれたバイエルン王ルートヴィヒ2世など、有名でありながらも一風変わった行動をとる家系のもとに生まれました。わずか16歳にして、エリーザベトはいとこのフランツ・ヨーゼフ1世に嫁ぎ、オーストリア皇后となりました。エリーザベトはフランツに愛されていたものの、義母にあたるゾフィー大公妃が大嫌いだったと言われています。
若いころにその美貌で知られたエリーザベトは、年を取ると共に見た目を異常に気にするようになり、過酷なダイエットのために食事もとらず、誰にも自らの肖像画を描かせませんでした。うつ病を患っていたとも言われています。1898年、無政府主義者によって殺害されるまで、自らの命を絶つことについても公然と口にしていました。
王女ナヒエナエナ、息子を失う
1815年、ナヒエナエナはハワイ王国の高位プリンセスでした。王女は幼い頃から兄のカメハメハ3世に恋していました。
ハワイ王国創立初期において、兄弟姉妹婚は決して珍しいことではなく、血統を純粋に保つため、王族の兄弟姉妹婚はむしろ推奨されていたのです。カメハメハ3世とナヒエナエナは結婚しようとしていましたが、宣教師らによって反対されました。2人は決して婚姻関係にはありませんでしたが、子どもを授かります。ところが、その子は数時間後に死亡してしまいます。おそらく、近親婚による健康上の問題が原因だろうと考えられています。
クレオパトラ、肥満体型だった?!
一般的に、クレオパトラは絶世の美女で細身であったように肖像画などで描かれていますが、実際はそうではありませんでした。近年になって考古学者らは、実際にはクレオパトラは他の家族と同じように、肥満であったのではないかと推測しています。
これまでに、クレオパトラの家系は肥満で、血統を純粋に保とうとしていたことが知られています。そのため、遺伝的にもクレオパトラは兄弟姉妹同様に、肥満だったのではないかと言われているのです。
ジョージ3世、精神疾患に悩まされる
イギリス王ジョージ3世は、アメリカ革命で敗北したことでよく知られていますが、精神を病んでいたことでも知られています。ジョージ3世は、精神疾患の発作を引き起こす遺伝的疾患であるポルフィリン症を患っていたと考えられていますが、その原因は双極性障害かもしれないと言われています。
ジョージ3世の状態は年々悪化し妄想が酷くなったため、時には拘束衣を着せたり、血を抜いたり、または落ち着かせるために氷浴させなければならず、王としての統治が難しくなっていきました。医学的検査によると、ポルフィリン症はジョージ3世などを輩出したハノーファー家には一般的であったことが明らかになっています。
カスティーリャ女王フアナ、悲しみから精神錯乱
カスティーリャ女王のフアナは、元々はカスティーリャ・アラゴン連合王国(スペイン王国)の王位を継ぐことにはなっていませんでした。しかし、兄弟姉妹に先立たれ、結局王位を継承することになったのです。残念ながら、フアナはスペイン女王として精神的にふさわしくないと、特にフアナの母親に失望されています。
フアナは、ハプスブルク家の「美公のフェリペ」と結婚し、恋に落ちます。しかしながら、夫フェリペはフアナと同じような愛情を返すことなく、死ぬ前に何度も不誠実を重ねました。それでもフェリペが亡くなった後、フアナはそのショックからこれまで以上に精神異常が顕著となったため、やがて女王としての任務から降ろされ、1555年に崩御するまで幽閉されました。
バイエルン王ルートヴィヒ2世、趣味に散財し殺害される
オーストリア皇后エリーザベトをいとこに持つバイエルン王ルートヴィヒ2世の家系は、何世代にもわたって近親交配を繰り返し、ルートヴィヒ2世にその悪影響が色濃く出たと言われています。幼い頃、すでにルートヴィヒ2世は被害妄想が強く、現実から逃れて自分だけの世界にいることに周りの人々は気づいていました。統合失調症パーソナリティ障害と、晩年にはピック病を患っていたのではないかと考えられています。
ルートヴィヒ2世は豪華な城の建設や芸術に莫大な額を費やし、王の浪費と指導力のなさに多くの民は悩み、政府を不安に陥れました。1886年、王の遺体が湖で発見され、殺害されたのだと推測されています。
ヴィクトリア・メリタ王女、2人の子を亡くす
ヴィクトリア女王の孫娘、ヴィクトリア・メリタ王女は、当時ヨーロッパ中の王族間で盛んに行われていた近親交配の結果生じる血友病にかかることはありませんでしたが、かなりの問題を抱えていました。祖母の女王の強い勧めで、いとこのヘッセン大公と愛のない結婚をしています。
2人の間に諍いは絶えず、それも物を投げあうほどの激しい喧嘩だったと言われています。それでもヴィクトリア・メリタは2人の子どもに恵まれました。長女は8歳で亡くなり、もう1人の男児は死産だったと言います。こうして2人の子どもらが亡くなったのも、ヴィクトリア・メリタ王女とヘッセン大公がいとこ同士で結婚(近親交配)したからではないかと推測されています。
冷酷で良心に欠けた皇帝、カリグラ
ローマ帝国には残酷な皇帝が多く存在しましたが、カリグラは中でも最も残酷だったと言われています。残忍かつ狂気じみた独裁者として知られ、ローマ帝国が財政難に苦しんでいた間にも、大した理由もなくいくつもの巨大事業を完成させるようにと命じています。カリグラは退屈したからといって、剣闘士の試合を見ていた観客の一部を猛獣らの前に投げ入れさせたとも言われています。
毒が原因ではないかと考えられる深刻な病から回復を遂げたカリグラでしたが、この後は狂気に陥ります。自身にとって脅威だと思われた者すべてを追放または処刑し、自分の完全なる権力を守るため、残忍な方法で拷問を行いました。やがて、その独裁政治のために暗殺されることとなりました。
ヘンリー6世、自分はガラスでできていると信じていた
イングランド王ヘンリー6世は、1歳の誕生日を迎える前に王位に就きましたが、人生の大半を精神疾患に悩まされたことで、やがて王国はばら戦争へと突入していきます。初めて神経衰弱に陥ったのは1453年で、ヘンリー6世は王としての役目を果たすことができなくなりました。
時と共に病状は悪化し、ヘンリー6世は自身はガラスでできており、わずかに触れられただけでも壊れてしまうと信じるようになっていました。1461年にヨーク派に捕らわれたものの、1470年には復位しました。その後幽閉され、1471年に暗殺されたのではないかと疑われています。
オーストリア皇帝フェルディナント1世、深刻な先天性異常を患っていた
オーストリア皇帝のフェルディナント1世は、神聖ローマ皇帝フランツ2世と、その二重いとこにあたるマリア・テレジアの長男として生まれました。この近親婚により、フェルディナント1世はてんかんの他に、言語障害、神経障害、水頭症を患い、運動技能にも不自由が見られたと言われています。
フェルディナント1世はまったくの不能というわけではありませんでしたが、多いときには1日に20回も発作を起こすこともあり、病弱であったため、国の統治を秘密国家会議に任せざるを得ませんでした。こうした先天性異常にもかかわらず、フェルディナント1世は1848年に退位するまで13年間、皇帝を務めました。
エリザベス1世、歯痛に苦しんでいた
エリザベス1世は、スペインからイングランドを守り、その領土を広げたことで名声を得ました。しかし、「処女王」と呼ばれたエリザベス1世は、歯の痛みに悩まされていたのです。多くの歯を失い、残りの歯も黄ばんでいたり、虫歯になったりしていました。
このせいで常に歯の痛みに悩まされていたものの、女王はどの虫歯を抜くことも許しませんでした。「虫歯を抜かせなかったことで、何年も断続的な歯痛や歯周病に悩まされ、結果的に顔や首の神経痛に繋がったのです。」とイギリスの歴史作家アリソン・ウィアーは説明しています。
ロシア初代ツァーリ、雷帝イヴァン4世
ロシアの初代ツァーリであるイヴァン4世は、国民に甚大な負担をかけ、国を長期的に繁栄させることに成功はしませんでしたが、中世国家のままだったロシアを帝国にまで発展させました。
イヴァン4世はその狂気と残酷さで後世にまで名を残していますが、貴族階級を拷問にかけたり、処刑したり、ノヴゴロドの街全体を大虐殺したためだと思われます。さらに1581年、イヴァン4世は、息子の妻の服装に我を忘れるほど激昂して妊娠中だった息子の妻を殴打して流産させた上、後継者であった息子もこの時の殴打で亡くしてしまいました。
カルロス2世、近親婚の代償を払うはめに
スペインのカルロス2世の両親は伯父と姪の関係にあたり、おそらくこの近親婚のため、先天的な問題に生涯悩まされました。当時は「呪われている」と考えられていたカルロス2世ですが、ハプスブルク家によく見られた顎や唇を特徴としていました。つまり、先端巨大症により肥大した舌と、下顎が前に突きだし、下唇が厚いためにひどい受け口になっていたのです。
現代においては、これは下顎前突症と呼ばれています。肥大した舌のせいで、咀嚼が難しく、常によだれを垂らしていたと言われています。その他、4歳まで言葉を話せず、8歳まで歩くこともままならず、発育不全も見られていました。性的にも不能だったため、ハプスブルク家によるスペインの支配は、カルロス2世をもって終焉を迎えました。
胸膜炎を患ったイギリス王ジョージ5世
ジョージ5世は、1906年~1936年に崩御するまで、イギリスならびに海外自治領の国王であり、かつインド皇帝でもありました。第一次世界大戦中にジョージ5世の健康に多くの問題が生じましたが、胸腔膜が炎症を起こす胸膜炎を患いました。
死の間際にあった国王に対し、王の主治医は王妃の要請を受け、王が苦しむことのないように意識を失わせるべく血清を投与しました。その後、致死量にあたるモルヒネが投与され、国王を安楽死させています。
リチャード3世、思っていたより多くの病気にかかっていた
ウィリアム・シェイクスピアによって有名となったリチャード3世は、1483年~1485年にイギリスを統治しました。戦死した最後のイングランド王として知られています。近年になって、リチャード3世の遺骨が駐車場の地下から発見され、ひどい脊柱側彎症を患い、左肩が右肩よりもずいぶんと下がっていたことが明らかになりました。
さらに、胃腸が位置する骨盤あたりから複数の回虫の卵が見つかりました。つまり、脊柱が歪んでいたばかりではなく、寄生虫にもむしばまれていました。
ローマ皇帝クラウディウス、見た目より病弱だった
イギリス南部を征服したことで知られているローマ皇帝クラウディウスは、治世中に多くのことを成し遂げました。しかし、クラウディウスは生涯、病気に苦しんでいました。言語障害があり、膝が悪く動作はギクシャクとし、興奮すると鼻水が出ていたと考えられています。
クラウディウスはまた、おならを我慢すると健康に良くないという不安から、おならを我慢することはなかったようです。皇帝クラウディウスは、「テーブルを囲んで席についているときにおならをすることについて、合法化しようとしていた。」と、ローマ帝国の歴史家スエトニウスによって記されています。
王族に広がる血友病、ヴィクトリア女王が原因
19世紀~20世紀にわたって、ヨーロッパの王族の多くは血友病を患っていましたが、歴史学者らは、それがヴィクトリア女王から始まったのではないかと考えています。ヴィクトリア女王は血液凝固障害にかかっていましたが、幸いにも酷い副作用は避けられたようです。
ヴィクトリア女王の孫のうち5人は血友病による合併症で死亡しています。その血統はヨーロッパの王室中に広がっており、特に血友病は、母親側の染色体によって発症するということが分かっているため、おそらく女王が原因ではないかと考えられます。
フェリペ5世、酷いうつ病を患っていた
フェリペ5世は、フランス王ルイ14世の孫にあたります。フランス王室の一員であり、かつスペイン王家の血を色濃く引くものとして、スペイン継承戦争後、フェリペ5世はいとも簡単にスペインの王位につき、1700年11月から1746年7月まで在位しました。実際には、1724年に息子のルイス1世に譲位しましたが、わずか数ヶ月後にルイス1世が急死したため、再び在位せざるを得ませんでした。
フェリペ5世は生涯にわたって、在位中を含め、躁うつ病とうつ病に悩まされていました。しかし、歌手ファリネリの音楽を聴いてそんな心の病の痛みを和らげていたようです。
エリク14世、妄想症のせいで暴力的に
1560年~1568年、スウェーデン王エリク14世は圧政を敷きました。エリク14世はその知性の高さだけではなく、激情や妄想症など精神的不安定さでも知られています。学者の間では、精神疾患が統治の前からだったのか、統治後に始まったのかについて、未だに議論がなされていますが、この精神疾患が統治に影響を及ぼしていたということでは意見が一致しています。
エリク14世の妄想症は酷く、自分に従わない一族を殺害することもありました。しかし、こうした暴力的な支配のために失脚し、最終的には獄吏によって毒殺されました。
デンマーク王クリスチャン7世を取り巻く政府の戦い
当時、正式に精神疾患を患っていると診断されたことはなかったものの、デンマークのクリスチャン7世は、酷く精神的にも情緒的にも不安定だったと言われています。1766年、クリスチャン7世は王位を継承しましたが、王を中心とした政治が展開されることはありませんでした。結婚後は妄想症、幻覚、自傷行為などの症状で、状況は悪化していきました。
デンマークは当時、クリスチャン7世にうまく取り入った政治顧問によって統治されていました。色々な意味で、名ばかりの王だったと言われています。
バイエルン王オットー、名ばかりの王
ルートヴィヒが王位に就く前はオットー1世が王位に就いていました。1886年~1913年の統治とされていますが、精神疾患のため、実際に統治に携わってはいなかったと見られています。普仏戦争後、うつ病と不安症状に苦しみ、常に誰かに監視されるようになりました。
晩年、オットーは居城で事実上、捕虜となりました。歴史学者らは、これはオットーが梅毒によって身体的な麻痺が生じ、そのために統合失調症と多重パーソナリティ障害が酷くなったためだろうと推測しています。
ヨルダン国王タラ―ル1世、わずか1年の在位
タラ―ル1世・ビン・アブドゥッラーがヨルダン国王になったのは1951年のことでしたが、そのわずか1年後に退位させられています。国王が統合失調症にかかっているという報告を受けて、議会はタラ―ル1世を退位に追い込んだのです。タラ―ル1世の配偶者のゼイン女王がパリにある英国大使館に行き、国王が女王や子どもらをナイフで脅したと主張した後、その報告が広がったためだと考えられています。
その直後に、タラ―ルは退位し、残りの人生を療養所で過ごしました。短かった統治期間にもかかわらず、ヨルダンの近代憲法を確立したことで知られています。
ティベリウスを取り巻く噂
ティベリウスは尊敬を集めたローマ皇帝の血筋を引いていました。当時、ローマ史上最も偉大な将軍として知られていますが、それにもかかわらず、「孤立して」、「地味だった」と考えられ、博物学者で政治家でもあったプリニウスは「最も陰気な男」と称しています。
これはティベリウスがカプリ島に引きこもっていた時期と重なります。当時、ティベリウスの妄想症や残忍性について噂が渦巻いていました。うつ病を患っていたかどうかの真相は不明ですが、ティベリウスが問題を抱えた統治者であったことは間違いありません。
史上最も暴君として知られるネロ
精神疾患を患っていたと考えられるもう1人のローマ皇帝は、かの悪名高いネロです。ネロはローマが大火災にあっているときにフィドルを弾いていたとも、自身の母親を殺害したとも言われ、歴史に悪名を残しています。ネロの統治は残虐で、暴君的だとして知られています。
あまりにも残虐だったため、歴史学者の多くは、ネロが共感の欠如や、自分の性格とは異なる方法で状況に対応する原因となった何らかの病気を患っていたのではないかと考えています。
ユスティヌス2世、精神錯乱状態に
東ローマ帝国を支配したユスティヌス2世は、ユスティニアヌス朝の第3代皇帝でした。必要な時に力を示したことで知られていますが、ユスティヌス2世はまた、自分は「無敵だという態度をとり」、現実性に欠けると言われていました。
このため、多くの人がユスティヌス2世は気が狂っていると主張しました。572年、エフェソスのヨハネスは、ユスティヌス2世が精神に異常をきたし、「野生動物のようにふるまい、動く玉座の上で落ち着きなく動き回り、昼夜を問わずオルガン音楽を演奏させている」と記しています。
自らを牛だと思い込むネブカドネザル2世
新バビロニア王国時代、ネブカドネザル2世は紀元前605年~562年までバビロニア王として統治しました。旧約聖書によると、ソロモン神殿を破壊した王として知られています。
また、ネブカドネザル2世は現代ではボアンソロピー(獣化妄想)として知られる精神疾患を患っていたと旧約聖書に記述されています。これは人間なのに自分を牛だと思い込んでしまう精神疾患です。ダニエル書には、ネブカドネザル2世が「牛のように草を食べる」と記されています。この障害を患った人の中でもネブカドネザル2世は最も有名な人でしょう。
ツタンカーメン王の本当の見た目
ツタンカーメン王のミイラのDNA研究によって、彼の死を引き起こしたのは、いくつかの健康問題が原因だったということがわかりました。ツタンカーメン王は高身長のファラオだったものの、非常にか弱い人でした。複数のマラリアの発作に苦しんだだけでなく、骨疾患を抱えており、死亡時には骨折した足が、感染症を起こしていたことが明らかになっています。
彼の内反足は、当時よく行われていた近親交配が原因である可能性があります(ツタンカーメン王の母親と父親は、兄弟でした)。これらの発見によって、アーチェリーのプレー時を含め、常に座っている姿として捉えられていたツタンカーメン王の人生が、より明確にわかりました。
ネロ皇帝の本当の見た目
2019年、スペインの芸術家たちが、胸像、絵画、記述に基づき、ネロ皇帝のリアルなレンダリングを作成しました。このイメージは、あごひげから傲慢な笑いまで、ネロの特徴を細かく捉えています。冷血な独裁者だったということを考慮せずとも、たくさんの人が彼のことを嫌っていた理由が何となくわかりますよね。
西暦64年、火事が発生し、ローマの街を飲み込みました。しかし、ネロは服を身に着け、王宮の屋根から歌を歌っていたとされています。ネロは処刑される前に、「なんと偉大な芸術家が失われることか」と叫び、自ら命を絶ちました。
ネフェルティティの本当の見た目
2018年、旅番組の『エクスペディション・アンノウン(原題)』が、3Dイメージ技術を使用し「若い貴婦人」として知られるミイラの顔をスキャンして、デジタルマッピングしました。「若い貴婦人」のミイラはネフェルティティのものであるとされていましたが、このミイラの本当の正体に関してはまだ議論がされていました。
ミイラの顔がスキャンされた後、ネフェルティティの歴史的なイメージに基づき、古美術家のエリザベス・デインズが500時間を費やして顔を再現。このプロジェクトによって、「若い貴婦人」は実際にネフェルティティであると証明されました。この発表がされて以来、ネフェルティティの肌の色に関して様々な議論が飛び交っています。
マクシミリアン・ロベスピエールの本当の見た目
これこそ、フランス「恐怖政治」の顔です。2013年、法医病理学者のフィリップ・シャルリエが、復顔専門家のフィリッペ・フローチとタッグを組み、フランス革命の中心人物のレンダリングを製作しました。
本人を喜ばせるために作られたロベスピエールの肖像画に加え、シャルリエとフローチは本物のマダム・タッソーが製作したとされるロベスピエールのデスマスクを使用。タッソーは、斬首されたロベスピエールの頭からマスクを作りました。ロベスピエールは、公安委員会のメンバーになった1年後の1794年7月28日に処刑されています。
ロバート1世の本当の見た目
ロバート1世のものとされている頭蓋骨から型を使って、彼の実際の見た目を作り出そうとしたのは、グラスゴー大学の研究者たち。過去には、創造力と言い伝えに基づいて、芸術家たちがロバート1世の絵画や銅像を製作していました。
フェイス・ラブ技術を駆使して、法的・考古学的証拠を参考にしつつ、研究者たちは彼の見た目を作り出しました。1324年、ヨハネス22世はロバート1世を独立国スコットランドの正当な王として認めました。しかし、彼はその5年後に逝去。ロバート1世はダンファームリン・アビーに埋葬され、彼の心臓はメルローズ修道院に埋められています。
ガイウス・ユリウス・カエサルの本当の見た目
オランダのライデンの国立古代博物館には、ガイウス・ユリウス・カエサルの3Dの再現が展示されています。彼の大理石の彫刻の一つのスキャンに基づいて、芸術家たちは白髪交じりのリアルな胸像を製作しました。
ローマ内戦に勝利したのち、カエサルの終身独裁官としての時代が始まります。社会的・政治的改革を行い、ローマ帝国の最も端の領域に住む者にもローマ市民権を与えました。元老院たちはこのようなカエサルの方針に不満を抱き、紀元前44年の3月、彼を暗殺しました。
クレオパトラの本当の見た目
クレオパトラは高い教育を受け、多数の言語を操ることが出来たとされています。そのため、共同統治の際には彼女が主権を握っていました。人を引き付ける力を持つエキゾチックな美しさでも有名です。他の帝国の統治者たちとのロマンチックな関係でも知られています。
彼女の評判を考慮すれば、真の見た目を暴くために、3Dアーティストたちが既存の肖像や彫刻を使用したがったことも頷けます。再現されたクレオパトラのはっきりとした鼻と男性的な特徴は、映画でクレオパトラを演じたエリザベス・テイラーのような見た目を想像していた人には、驚きだったかもしれません。
エリザベス1世の本当の見た目
コーリショウは、見物人を目で追い、今にも話しそうに口を動かす、超リアルなエリザベス1世のマスクを製作。このマスクは鏡にくっついていて、クイーンズハウスのアルマダ・ポートレイトの向かい側に展示されています。有名なアルマダ・ポートレイトは若かりし頃のエリザベス1世を描いていますが、1588年にこの肖像画が描かれた際のエリザベス女王の年齢は55歳。コーリショウのマスクは、当時の彼女の見た目をより正確に表しています。
エリザベス1世は、1603年の3月24日にリッチモンド宮殿にて逝去するまで、44年に渡ってイングランドを治めました。
ウィリアム・シェイクスピアの本当の見た目
2010年、ダンディー大学のキャロライン・ウィルキンソンは、シェイクスピアのものであるとされているデスマスクを分析し、彼の実際の見た目を再現したレンダリングを製作しました。3Dイメージを利用して、マスクを元に顔の特徴をマッピングし、陰鬱なシェイクスピアのイメージを作り出したウィルキンソン教授。
彼の頭全体を描き出してはいないものの、多くの人はこのレンダリングがシェイクスピアを描いたアート作品のほとんどに類似しているということで同意しています。 シェイクスピアは、1616年4月23日、52歳でこの世を去りました。
ジョージ・ワシントンの本当の見た目
研究者たちは、詳細なレンダリングと彼の肖像を比較しながら、コンピューターでワシントンのイメージを製作しました。これによって、ほとんどの彼の肖像は、かなり正確だったということが証明されています。
イメージがリアルな理由としては、当時はおしろいで隠していいたとされる彼の無精ひげと、そのヘアスタイスがあげられるでしょう。のどの痛みを伴う合併症で、1799年の12月14日に亡くなったワシントン。67歳でした。
メアリー (スコットランド女王)の本当の見た目
ダンディー大学のキャロライン・ウィルキンソン教授は、肖像画と絵画を利用して、メアリーの顔を3Dで再現しました。高度にスタイライズされた絵画の描写を避けるため、生物学的な情報も考慮しています。
こちらのレンダリングは、よく見られる彼女の肖像とはさほど変わらないようにも見えます。しかし、違いは一目瞭然ですよね。絵画の彼女の特徴に近いものと言えば、彼女の鼻です。
リチャード3世の本当の見た目
2012年になるまで、実際のリチャード3世を再現することは出来ませんでした。リチャード3世の遺体は、亡くなってすぐに失われていたためです。2012年、リサーチチームは手がかりから、遺体がとある駐車場に埋まっていると推測。
ここで発見された遺体は、掘り起こされました。このイメージを作り出すために、たくさんのダンディー大学のメンバーが関わっています。彼が生きていたころの現実主義的な絵画は存在しないため、研究者は歴史的な記録からこのイメージを製作しています。
メリトアモンの本当の見た目
研究者が参考にできるものと言えば頭蓋骨しかなかったため、メリトアモンについてあまり知られていません。しかし、多少の情報を得ることに成功しています。まず、彼女は18~25歳程度であったとされています。彼女の死亡理由に関しては、いまだ不明のままです。
研究者が発見した面白い事実は、虫歯があることから考えて、甘いもの好きであったということです。アレクサンドロス大王がエジプトに砂糖をもたらした時期であることを考えると、頷けますよね!女王だって、ちょっとした悪い習慣を持っているものです。
本物のパドヴァのアントニオ
パドヴァのアントニオが亡くなった時、勝手にベルが鳴り、子どもたちが道端で泣き出し始めた、と言われています。彼の遺体は死後30年後に掘り起こされましたが、残っていたのは顎骨と舌のみでした。
セント・アントニオ・オブ・パドヴァ大学の人類学博物館の研究者たちは、サン・パウロ大学から迎えたデザイナーとタッグを組み、パドヴァのアントニオの顔を再現しています。