ローマのど真ん中に開いた穴!古代ローマの歴史を知る重要な手がかりに?
2020年4月、イタリアのローマにあるパンテオン(古代ローマの神殿)前に、大きな陥没穴が現れた。突如としてぽっかりと空いた陥没穴自体も驚くべきものだったが、それ以上に、人知れず長い間地中に埋まっていたものを発見して人々は驚嘆した。この穴から発見されたものは古代ローマについて知る手がかりを与えてくれたが、一方で、毎日何千人ものローマ市民や旅行者が歩いている地面のすぐ下に、他にはどんなものが埋まっているのだろうかという疑問を投げかけることとなった。
パンテオン神殿のちょうど前
突然ぽっかりとあいた陥没穴は、パンテオン神殿のちょうど前に現れた。パンテオン神殿は117年に建てられて以来、ローマ市民に長い間礼拝堂として使われている。
それはローマのロトンダ広場でのことだった。ちょうど10平方メートルも満たないほどの大きさの地面が突然崩れ落ち、ぽっかりと口をあけたのだった。考古学者らががれきを調べ始めたとき、そこから何が見つかるかなど誰も予想していなかった。
陥没が発生するのは珍しいことではない
パンテオン神殿前の陥没穴は確かに稀なケースだが、実際には、ローマ市内で陥没事故が発生するのはさほど珍しいことではない。というのも、都市自体が長い長い歴史を持つ上、古代に使われていた採石場やトンネル、地下墓地などの上に整備されているためだ。そのため、数千年の時を越えて、突然地面が崩れ落ちてしまう事故が発生する。
特にローマ市の東側地域に見られる石畳が並ぶ通りの下には、かつて採掘で使われていたトンネルがあり、過去の遺物が再び日の目を見るのを待っているのだ。
陥没はあちこちで次々と起こるが…
古代から続く都市ローマで起こる陥没事故は、1年のうちに100件以上となることもある。しかしながら、2020年4月にパンテオン神殿前に現れた陥没穴はローマだけでなく、瞬く間に世界中で話題となった。
この陥没穴が長い歴史を誇るローマ市内に現れたことから、多くの考古学者らは、地下から歴史的に重要な遺物が発見できるに違いないと推測し、注目を集めることとなったのだ。
パンテオン神殿の遺産
パンテオン神殿は、何千年も前に古代ローマ人によって作られた建造物の中でも、最も保存状態が良いものの1つとして残っている。さらに特筆すべきは、古代ローマ人がパンテオン神殿で祈りを捧げていたように、現在もここで祈りが捧げられているという点だ。
たいていの場合、週末には旅行者は立ち入り禁止となっている。こうすることで、地元の人々が喧騒を離れて心穏やかにお祈りを捧げることができるからだ。
元々はキリスト教会ではなかった
現在、ローマのパンテオン神殿は教会として使われているが、その昔は違った。元々の建造物は、紀元前25年にローマ帝国初代皇帝アウグストゥスを義父に持つ、マルクス・アグリッパによって建てられ、その形状は現在我々が目にするものとは異なっていた。
マルクス・アグリッパの建てたパンテオン神殿は、現在のものよりも小さく、キリスト教会ではなく、むしろ、さまざまなローマ神を奉る万神殿であった。「パンテオン(pantheon)」の「pan」はギリシャ語で「すべての」を意味し、「theos」は「神々」を意味している。
火災のため焼失
残念ながら、元々のパンテオン神殿は建造からおよそ100年ほどで、火事によってほとんどが焼失してしまった。
その後、81~96年にローマ皇帝となったドミティアヌスによって再建された。信じられないことに、この再建されたパンテオンも長くはもたなかった。というのも、110年に落雷でひどく損傷してしまったのだ。火事での焼失、落雷での破壊と、2度にわたって建造物が「破壊」されてしまったこともあって、古代ローマ人らは神殿に対していささか懐疑的となる。
皇帝ハドリアヌス、数多くの建造物を建設
皇帝ハドリアヌスが在位についた117年になって、パンテオン神殿は今日の姿に再建された。芸術や建造物に造詣が深かったハドリアヌスは、帝国周辺に様々な建造物を建設することを最優先事項の1つとしていた。
ハドリアヌスが建設した建造物の中でも最も重要なものに、ハドリアヌスの長城がある。これは118キロメートルにも及ぶ壁をイギリス北部に建設したものだ。この壁はローマ帝国の国境線を示しており、この壁より先は「世界の終わり」だとされていた。
ハドリアヌス、アグリッパへ敬意を表す
専門家の多くが、再び再建された3度目のパンテオン神殿は126~128年の間に完成したとしている。これが完成したとき、ハドリアヌスは初めにパンテオン神殿を建設したアグリッパへの敬意を払うことを忘れなかった。
この建造物の正面には、「ルキウスの息子マルクス・アグリッパが、3度目の元首のときに建造」と記されていたため、アグリッパが建てたものは火事で焼失したはずだ、と長い間歴史学者らを混乱させた。現在では、アグリッパがかつて建てた場所にハドリアヌスがパンテオンを再建したと結論づけられている。
パンテオン神殿、やがて荒廃していく
わずか200年後、ローマ帝国の首都はローマから現在のイスタンブール、当時のビザンティウムに移された。残念ながら、これはパンテオン神殿にとっては好ましくなかったようだ。というのも、この首都移転の結果、パンテオン神殿は荒廃の一途をたどる。その後609年、パンテオン神殿の修復に乗り出したのは、ローマ教皇ボニファティウス4世だった。
ローマ教皇ボニファティウス4世は、パンテオン神殿に新たな役割、つまり、カトリック教会として甦らせようと考え、ビザンティン帝国の皇帝フォカスに許可を得た。そしてラテン語で「聖母マリアと殉教者」を意味する「Sancta Maria ad Martyres」と名付けた。
異教からカトリックへ
こうして、かつてローマ神を奉っていた万神殿は、カトリック教会へと変貌を遂げる。こうした宗教を越えた用途の変更は初めてのことだったが、パンテオン神殿の構造にも大きな影響を与えた。
カトリック教会に作りかえるにあたって、ローマ教皇は古代コンクリートとれんがを組み合わせて、屋根のある玄関ポーチ部分、広々とした建物内部、そして高いドーム状の天井を作り上げ、荒廃したままだった神殿にかつての栄光を甦らせた。
建築上、重要な意味を持つ屋根
パンテオン神殿のドーム型屋根は、古代ローマ建築上、最も素晴らしい建造物の1つだとされている。信じられないが、頭上のアーチ部分には構造を支持するための梁などを一切必要とせず、それがまた建造物としての価値を高めている。
1,000年以上もの間、この神殿の丸天井は世界最大と称されているが、今日までもこのスタイルの天井において補強を必要としない唯一のコンクリート屋根だ。つまり、古代のみならず、現代においても驚異的な建造物といえる。
ドーム型屋根だけではない
およそ直径43メートルのドーム型屋根自体も非常に素晴らしいが、さらに驚くべきなのは、頂上部分にあるオクルスと呼ばれる部分だ。直径9メートルほどの大きさの穴が開いているが、これにはもちろん理由がある。
この開口部は、建物内に入った人々が信仰する神々に近づけるようにという特別な目的のために設計された。建築的には、ドームがもつ構造上の張力を緩和させている。
ミケランジェロも感嘆した
ミケランジェロは、特にイタリア・ルネサンスを生きた芸術家の中でも、間違いなく最も才能のある芸術家の1人だが、パンテオン神殿は神の設計であり、これほど完璧な建造物を人が作ることができたなんて信じられない、と述べたと言われている。
さらに、この建造物の設計に影響を受けたのが、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンで、バージニア州に「モンティチェロ」と呼ばれる自身の邸宅を建造している。さらにアメリカのそれぞれの州都にある建物の多くも、パンテオン神殿の設計の影響を色濃く受けている。
パンテオンのもう1つの役割
パンテオン神殿はルネサンスの最も有名な芸術家らに影響を与えた上、カトリック教会に変わったために、重要な地位にいた人々の埋葬地ともなっている。
たとえば、イタリア画家のラファエロや、君主などが埋葬されている。現在では、世界中から旅行者が素晴らしい建造物だけでなく、歴史上の有名な人々の墓地を見るために訪れている。
埋もれた歴史
現代のローマ地域には、文明都市になる前から何千年もの間、人間が暮らしていた。そのため、たとえば古代ローマ人らが採石場から石を切りだして運ぶトンネルなどのように、地中に歴史的に重要な遺物がたくさん埋まっていたとしても、それは当然のことなのだ。
古代に作業員らが掘った採石場に繋がる空洞やトンネル、地下墓地があるために、現代陥没事故が発生しているのだが、陥没事故が発生するもう1つの理由としては、都市が建てられている地盤が緩いことも挙げられる。
陥没穴を調査
パンテオン神殿のすぐ前の地面がぽっかりと口をあけたのは、2020年4月のことだった。当初、その穴の大きさはちょうど10平方キロメートルほどで、深さはわずか2.5メートルほどだった。穴にしては大きかったが、ローマ市全体の下に眠っているものすべての大きさを考えると、これは取るに足らないほどの大きさだ。しかし、わずかとは言え、歴史学者らはローマの歴史について手がかりを得る機会を得たのだ。
ANSAの考古学者チームは、穴から何が見つかるかなど、予想もつかないままに調査を進めることになった。
古代の石を発見
ANSAの考古学者らが陥没穴に初めて入ったとき、かつてローマが帝国の首都であった古代に使われた敷石を発見した。
敷石は合わせて7つ見つかったが、これらはおよそ紀元前25~27年にまでさかのぼることができた。興味深いことに、紀元前27年といえば、正にローマ帝国が成立した年でもある。
敷石は最初の神殿の一部
前述のように、最初にローマにパンテオン神殿が建てられてたのは、紀元前25年のことで、ローマの最初の皇帝アウグストゥスに仕えた義理の息子アグリッパによって建てられた。
そして、こうした情報から、歴史学者らはこの敷石がアグリッパの建てた最初のパンテオン神殿の一部に使われたものだと結論づけた。なんと、アグリッパはその敷石までもを自身で設計したという。考古学者らが、自身が立っている石の歴史の重みを知って驚愕したのも無理はない。
敷石はどのようにして地中に埋められたのか
アグリッパの建造したパンテオン神殿が焼失した後、ハドリアヌスの代になって、様々な建造物を作るときに、神殿を再建した。さらにそのとき、神殿を取り囲む広場も修復したのだ。
その後、200年の初め頃、パンテオン神殿と広場に更なる改修工事が行われたため、元々の敷石などが地下に眠ることになったのだと思われる。しかしながら、古代の石が現代になって発見されたのは、これが初めてのことではない。
1990年代に一部発見されていた
1990年代、作業員らは地下トンネルに引き込みケーブルを新しく敷設していた。そして、この工事中に作業員らが古代ローマ人らによって敷き詰められたトラバーチンの石造物を発見したのだった。
1990年代に発見された石造物ももちろん素晴らしい発見だったが、2020年4月の発見が注目を集めたのは、陥没事故がきっかけだったことにある。それはまるで、古代ローマからの敷石が息を吹き返し、もう一度、日の目を浴びたかったかのように。
発見後、再度、埋め戻した
1990年代に引き込みケーブルの工事中に初めて敷石が見つかったときには、それが何であるかを確認した後、ポゾランを上からかぶせる形で再び地中に埋められていた。
ローマ市の管理者ダニエラ・ポロは、ポゾランはセメントのように、水と混ぜ合わせることで硬化する素材だと説明している。そのため、見つかった敷石の上にこのポゾランを流し込むことによって、時が経過しても、損傷を受けないよう保護することができると述べた。
ポゾランを打設したのは正解だった
2020年4月、再び敷石が姿を現したとき、ポロはポゾランを打設したことで、遺物がしっかりと保存されていたことに言及している。
2020年5月に、ポロは「歴史的遺物の保護は、我々にとって非常に重要なことです。歴史を学ぶ機会となるだけでなく、特にローマのように貴重な遺産の上に成り立ち、歴史の証人とも呼べる遺物はきちんと保存されなければなりません」と述べている。
陥没穴の発生、大惨事にもなりえた
1990年代の発見がきっかけとなって、パンテオン神殿前に陥没穴ができ、敷石が見つかったときには、すでに敷石の保存計画が出来上がっていた。
イタリアで最も発行部数の多い新聞、ラ・スタンパは「この陥没穴が発生した場所は、現在は立ち入り禁止の措置が行われているが、ローマ市民や観光客らが、春のなんてことない日に歩いていて陥没が発生していたなら、大惨事となっていた可能性もあった」と述べている。
ローマ、対策に乗り出す
幸い、ローマ政府は市内で起こる陥没の危険性について重々承知している。これは長い歴史を誇る都市に見られるマイナス面の1つだと言える。
問題に対応するため、2018年3月、ローマ市は市内のあちこちで開いている5万件以上の穴を修復する計画を発表した。市長のバージニア・ラッジは、この計画を実施するため、さらには今後陥没穴の問題で悩まされないよう、およそ21億円以上の予算を割り当てた。
計画通り、というわけにはいかなかった
ラッジ市長が初めに陥没穴を修復する計画について発表したとき、プロジェクトを開始した最初の月に5万件もの陥没穴を埋めることが可能だとしていた。しかしながら、2020年の春以降、この計画は大幅に遅延している。
このため、道路の穴は毎日道路を歩く何千人ものローマ市民や観光客にとって危険であるままだ。さらに、既存道路のメンテナンスも不十分であることから、新たな陥没穴も発生し続けている。
他の史跡にある陥没穴
パンテオン神殿の前に突然現れた陥没穴は、しばらくの間話題に上っていたが、ローマの史跡に現れた陥没穴はこれだけではなかった。2020年1月、同じように陥没穴はイタリアの象徴的な歴史建造物、コロッセオにほど近いマルコ・アウレリオ通りで発生していた。
新たに開いた陥没穴の周りの地面の安全性を調査していくうち、結果的にローマ市は陥没穴の近くのアパートに住む住民全体を避難させなければならなくなった。
剣闘が主なエンターテインメントではなかった
古代ローマ帝国時代のエンターテインメントといえば、古代ローマ人が喜んで見ていたという、コロッセオでどちらかが死ぬまで戦う剣闘士らを思い浮かべるだろう。確かに古代ローマ人らにとって、剣闘士らの戦いはスポーツ観戦のように楽しまれていたものの、古代ローマ人らに人気があったエンターテインメントは他にもあった。剣闘士らの戦いは大規模に行われていたが、残酷でもあり、すべての人に受け入れられていたわけではなかった。
戦車レースこそ、当時最も人気のスポーツだった。剣闘士らが戦ったコロッセオは5万人もの人を収容できたが、戦車レースが行われたキルクス・マクシムスは25万人もの人が観戦できるようになっていたのだ。
古代ローマ人の平均寿命
ローマは技術的に非常に進歩していたが、だからといって市民らの生活環境や都市が衛生的であるとは言えなかった。こうしたことから、歴史学者らは古代ローマ人らの平均寿命は25~40年ほどだったろうと予測している。しかしながら、これは大きな誤解だ。というのも、これは人口の平均的な寿命であって、個人の寿命ではない。
古代ローマでは子どもの死亡率が高く、子どもが10歳になる前に半分ほどが死亡してしまうほどだった。しかしながら、10歳以上生き長らえると、長生きするとされていた。平均寿命が短くなった他の要因としては、兵役についた男性と、出産中に死亡する女性の数が挙げられる。
クリスマスはサートゥルナーリア祭が起源
サートゥルナーリア祭は、毎年12月中旬に古代ローマで農神サートゥルヌスを祝して行われていた異教の祭りだ。この祭りで行われていた飾りつけや贈り物の習慣が、現代のクリスマスに繋がったとされている。サートゥルナーリア祭は12月17日から1週間にわたって続く。この祭りの間、すべての仕事は休みになり、日々の活動も一切行われない。
古代ローマ人らは家を緑の葉やリースで飾り、服装も変えた。奴隷も仕事を休み、祭りに参加することが許されたばかりか、場合によっては、主人と表面上の役割を入れ替えて振る舞った。これは歴史上、西欧社会で盛大に行われた祭りの1つだった。
ウェスタの処女
古代ローマにおいて、ウェスタの処女は、古代ローマで信仰された健康を司る女神ウェスタに仕えた巫女らを意味する。当時4~6人にいた巫女らは終生、聖職者としてつとめた。巫女らのつとめは、聖なる炎を絶やさないようにし、聖具を管理し、女神ウェスタにまつわる行事を執り行うことだった。
巫女らは6~10歳までの少女の中から最高神祇官によって選ばれた。その後、30年間巫女として仕えることを誓わされる。30年後に巫女を辞めて自由になることが許されていたが、辞めるものはほとんどいなかったという。巫女が職務を全うすることができなかった場合には、重い処罰やむち打ちが行われた。さらに、禁欲の誓いを破った場合は生き埋めにされるか、溶かした鉛を喉に注がれた。
尿は日用品だった
古代ローマでは、公共施設のみならず公衆トイレに対しても使用税を課していた。これは皇帝ネロの時代に始まり、次の皇帝ウェスパシアヌスの治世にも引き継がれた税金で、「ウェクティーガル」、つまりは尿税と呼ばれていた。古代ローマ時代、尿は決して無駄にされていたわけではない。公衆トイレだけでなく、家のトイレから集められた尿はプールに貯められ、様々な目的のために再利用して使われていた。
当時、尿は動物の毛皮から毛髪繊維を取り除き、きれいにするために使われていた。また、信じられないかもしれないが、尿にはアンモニアが含まれているため、衣服の漂白や洗濯にも使われていた。
ローマ建国者にまつわる伝説
ローマ神話によると、ローマは半神半人の双子の兄弟、ロームルスとレムスによって西暦紀元前753年4月21日に建国された。一般的に、この双子はレア・シルウィアと軍神マールスの子だと言われている。双子がまだ赤子のとき、双子の祖父を追放して王位を奪った王の弟アムーリウスは、双子を殺すように命じ、ティベリス川に流した。その後、双子はメスオオカミに救われ、羊飼いに発見され育てられたという。
双子は成長した後、アルバ・ロンガのアムーリウス王を討つと、王位を継いだ。双子は新しい王国を作り上げるのにどのような土地がふさわしいかを話し合っていたが、じきに口論を重ねるようになり、その後、ロームルスは決闘を行ってレムスを殺すと、新たな都市に自身の名をとってつけた。これは神話だが、現代においても最も有力な説だ。
剣闘士の肝臓は特別な治療薬
古代ローマ人は健康のためと、現代で考えればかなり信憑性にかけることをしていたことで知られている。尿で歯を磨いたり、公衆浴場で体を洗うスポンジを共有したりといったことは、特に問題ではない。だが驚くことに、1~6世紀の間、剣闘士の肝臓を食せばてんかんが治癒できると信じていた。
これは、倒れた剣闘士の血が魂を浄化すると信じられていたためで、てんかんを治癒するにはその人の魂を浄化しなければならないと考えていたためだ。コロッセオで決闘した後に死んで間もない剣闘士の、まだ生温かい血が売られていることも珍しいことではなかった。
下水道の女神
信じられないかもしれないが、古代ローマ人らはローマの下水道にも女神がいると信じていた。クロアキナ、または「浄化者」として知られる下水道の女神が、古代ローマの下水システムで「最大の下水」を意味するクロアカ・マキシマを守っていると信じられていた。元々はエトルリア神話に由来する女神だが、後に古代ローマ人にも信仰されるようになり、ヴィーナスとして定着した。
時が経つにつれ、下水道の女神であるだけでなく、クロアキナは婚姻関係にある男女の性行為を守る者として見なされ、ごみの女神、純潔の女神としてまつられるようになった。この女神をまつった神殿は、クロアカ・マキシマの入り口のすぐ上に建てられたと言われており、歴史学者らもかつてはそこに神殿があったと推測している。
古代ローマ、人類史上初のショッピングセンターをつくる
世界で初めて作られたショッピングセンターは、トラヤヌスの市場だと言われている。これは100~110年の間に、ダマスカスのアポロドーロスが建設したと推測されている。ダマスカスは建築家だったが、トラヤヌスに気に入られ、トラヤヌスのフォルムを建設するよう任された。このショッピングセンターは大きな複合施設で、コロッセオとは反対側の端のフォリ・インペリアリ通りに建てられている。
複合施設には屋根付きの市場、店、住居アパートまであった。時の経過とともに、上に増築が進み、さらに住居アパートや店も増えて社交の場となった。かつては活気あふれるローマの中心地だったものの、今や廃墟となっている。
左利きの人は不幸
今日では左利きであっても、実際に問題があるというよりは単に不便だという以外の何物でもない。ただ、古代ローマにおいては違ったようだ。左利きの人は不運で、右利きの人には害でしかないと考えられていた。左利きの人はペテン師だと思われていたので、疑われることも多かった。
古代ローマにおいて左利きの人は敬意を払われていたという人もいるが、それは間違いだ。左利きの人に対する強い偏見のせいで、古代ローマ人らは結婚指輪を左手の薬指にはめ、左利きではないことを証明し、罪から逃れようとした。
胃腸の運動を助けてくれる神
古代ローマ人は、おならなど、思いつく限りのものに神がいると信じていたようだ。とある文献によると、クレピタスは膨満感の神だったようだ。一般的には、腸の運動を助けるためにクレピタスが呼ばれたという。
多くの学者らは、クレピタスは古代ローマ人から崇拝されていたわけではなく、古代ローマ文化について書いたキリスト教の風刺作家によって作りだされたものだと推測している。しかしながら、クレピタスがまったくもってでたらめだというわけではない。というのも、フランス文学の多くの作品でクレピタスが登場しているからだ。
ゆったりと寝転がって食事
古代ローマ人はテーブルについて食事をするのを嫌っていた。たいていの場合、といっても身分にもよるが、寝転がって、手でつまんで食事をしていたようだ。一般的には裕福なローマ人だけがこのようにリラックスして食事を楽しむことができたようだが、当時でもこうした贅沢が楽しめたのは主に男性だったようだ。
女性はあまり晩餐会などには呼ばれなかったのだが、呼ばれたとしても、きちんと座って食事をしなければならなかった。時代の変遷とともに、上流階級の女性はゆったりと寝転がって食事を楽しめるようになってきた。当時は、こうして寝転がって豪華な食事を楽しむことが、裕福さの象徴だと考えられていた。
古代世界における無神論者
ローマ帝国の住民はさまざまな神々を信仰していたが、なかには初期キリスト教信者と思われる者もいた。皮肉にも、古代ローマ人は異教神に敬意を表すことはなかったため、こうしたキリスト教信者は無神論者だと思われていた。
ただ、キリスト教信者を無神論者だと見なしたのは、異教神を認めなかったということだけが理由ではない。こうした初期キリスト教信者らには組織的なものがなく、教会もなければ、牧師などもいなかったのだ。結果として、初期キリスト教信者らは生活ぶりに卑猥な噂を流されたりして、社会から排斥された。
兵士の働きは塩で支払われる
「給料(Salary)」という言葉は、「塩」を意味するラテン語の「salarium」に由来している。これは、ローマ帝国時代に、兵士は塩で支払われていたからだという。
実際にそうだったという確たる証拠はないものの、多くの学者らはこの説を支持している。当時、塩はよく取引されており、古代ローマ帝国で通貨の代わりに使われていたとしても何ら不思議ではない。また、奴隷も塩で売買されていたと言われている。
父親は子どもを売ることができた
古代ローマでは、父親は子どもを働かせただけでなく、奴隷として売ることもできたという。しかしながら、これはむしろ賃貸契約のようなもので、買い主はある時点で子ども返す決まりになっていた。
父親が子どもを奴隷として売りにだすことも珍しくないようで、上限回数が設けられていた。つまり、子どもを奴隷として売り渡すのも3回までと決められていた。それ以上子どもを売ろうとすれば、父親として相応しくないとされ、子どもはその父親から解放される。こうした理由から、子どもは何人かいた方が助かる。それぞれを少なくとも2回ずつ賃貸しすることができるのだから。
剣闘士の汗、美しさの秘訣
すでに洗濯に尿が使われ、剣闘士の血が薬として飲まれていたことについては前出の通りだが、明らかに、人間の体から出る体液をまったく無駄にしなかったようだ。古代ローマ人は剣闘士の汗さえも採取していたらしい!
コロッセオの外では、剣闘士の汗が入った瓶を売っているのが一般的だった。そして裕福な女性はこの瓶を買い求め、フェイスクリームとして使っていたとか。有名な剣闘士の皮膚から、あかすり道具のようなものを使って汗とほこりをこそぎ落としていたのだ。もちろん、誰もがこの汗入り瓶を買い求めることができたわけではなく、富裕層の女性のみが買えたものだった。
古代ローマ人、時代を先駆け
ローマ帝国の人々に同性婚などなかったと思うかもしれない。しかし、13年間在位した皇帝ネロは、治世中に2人の男性と結婚している。
サートゥルナーリア祭の間、ネロは解放奴隷のピタゴラスと結婚したたが、ネロはこの結婚式において「花嫁」役となった。もちろん、ネロは複数の女性とも結婚したが、そのうちの1人を恐ろしいことに殺害してしまった後、新しい花嫁としてスポルスという美少年と結婚している。スポルスをより女性らしくするため、去勢までさせたようだ。
ローマ帝国、地図で見るほど大きくはない
ローマ帝国について学んだときにみた地図から、その領土はかなり広大だったように見える。しかし、実際にはそうではなかったようだ。ローマ帝国は世界で28番目に大きい帝国だったようだ。
そればかりか、ローマ帝国はその最盛期においても、人口が世界人口のわずか12%でしかなかった。そのため、実際には、ローマ帝国の規模は比較的小さかったと言える。だが、ローマ帝国が歴史に残したものの功績は大きい。世界全体と比べると比較的規模の小さかったローマ帝国だが、何百年もの間続いた。
ローマ帝国で最も大事にされた馬
ローマ皇帝カリグラは自身の馬インキタトゥスをこよなく愛するあまり、この馬を執政官にしようとした。少なくとも、古代の歴史家スエトニウスはそう書いている。インキタトゥスを愛するあまり、カリグラは大理石で馬房を作ったり、象牙で飼い葉おけを作ったり、インキタトゥス用の家を建てたりした。
インキタトゥスの首には宝石のついた首輪をつけ、金箔の入ったオート麦を与えた。多くの学者がこの説の信憑性を疑い、カリグラは冗談で馬を執政官にしようとしたのではないかと推測している。しかし、カリグラはよっぽどその馬を寵愛していたため、あながち嘘ではないかもしれない。
妻、夫の所有物にならないよう、3日間ほど家を出る
ローマ帝国時代、婚姻している女性は十分に注意して、1年のうち3日間ほど家を空けなければならなかった。「使用取得」法で、法的に何かを所有するというにはどのくらいの期間それを所有した状態でいなければならないかについて定められていたためで、この法は人間にも適用されたのだ。
つまり、妻が家に一年中ずっといれば、法的に妻は夫の所有物となる。幸いにも、女性にはある程度の自由が認められていたため、妻は夫の所有物にならないために、3日間連続で家を出ていた。
紫色は高貴な人だけに許された色
歴史上、紫色は王族や上流階級の人にしか許されなかった色だが、古代ローマ社会においても同様だった。ローマ帝国の皇帝らはよく紫色のトーガなどを着用していたが、一般人が紫色を身につけることは許されていなかった。
これは当時「奢侈法」の1つに定められ、下流階級の人は裕福そうな衣服を着用することが禁じられていた。これによって、古代ローマでは一目でその人の社会的な身分が分かるようになっており、身分の卑しい者に丁寧な物腰で接するといった無駄を省いていた。
雷に打たれた人に関わってはならない
ローマ帝国時代にとある人が雷に打たれたとしても、誰も何もしてくれない。たとえ友人が雷に打たれて死亡したとしても、きちんと埋葬することさえ許されなかった。
これは、古代ローマ人が雷に打たれるのは、神ユーピテルのなせる御業だと考えられていたためだ。もし何かが雷に打たれたならば、それはユーピテルが気に入らなかったためだと思われた。人が雷に打たれたときも同じことだ。雷に打たれて死亡した人を埋葬することは、神ユーピテルの生贄を盗むことに等しいとされた。もしこの禁忌を犯した場合には、罰として自身がユーピテルの生贄とならなければならなかった。
女性が浮気をした場合、公衆の面前で恥をかかされる
誰だって浮気はされたくない。しかし、古代ローマにおいても浮気はあったのだ。男性が浮気をした場合、その妻は泣くしかなかった。しかし、女性が浮気した場合、その夫は極刑を科すことができた。
いくつかの文献によると、夫は妻と浮気相手を閉じ込めておき、その後、夫は間男を見に来るように知り合いに声をかけたりすることができるという。それから、法的に妻と離婚する義務が発生するまで、浮気についてできる限り詳細を公にした。
葬式で泣くのは違法
古代ローマにおいて、葬式は一般的に行列から始まる。遺体を運びながら通りを練り歩くのだ。もちろん、泣く者もいる。当時、行列で練り歩く最中にその死を悼む人が多ければ多いほど、故人がどのくらい人気だったのかが分かるとされていた。
中には、体裁を良く見せるため、行列の間故人を偲んで泣く人々を雇う家族もいた。雇われた女性の中には、顔をかきむしり、髪の毛を振り乱して、本気で悲しんでいるように見せかける人もいた。やがて、その演技も度を超し過ぎるため、役者を雇わないように、葬式で泣くことが法律で禁止されるようになったほどだ。