あなたは何個知ってる?昔のスーパーマーケットの実態とは
スーパーマーケットは、アメリカ人の生活を語る上で欠かせない。かつては食料品店とか雑貨屋と呼ばれていたこともあったかもしれないが、何と呼ばれていたにしろ、これまでも常に人々が商品を買い求めにくる場所だった。アメリカ人の生活の変化をたどるには、その買い物方法に注目すると良い。そして、昔のスーパーの写真を見れば、生活様式が本当に変わったことは一目瞭然だ。それでは見ていこう。
交通手段は明らかに違った
スーパーに買い物に行くときには大きな車両の方がいい。もちろん、たった1つの物を買うためにお店に行かなければならないこともあるが、たいていの場合、何度も行かなくても済むようにまとめ買いをするものだ。
昨今では、スーパーで買い物をする人はミニバンやSUVにすべて物を積み込むのかもしれないが、ずっと昔はそうではなかったようだ。18世紀や19世紀の初めころには、人々は必要かもしれないものすべてを積み込むために十分な広さがある馬車に乗ってスーパーに行っていた。馬の糞を踏まないように避けながら食べ物を買いに行くのを想像してみよう。
レジ店員は正装
今日ではどのスーパーを選ぼうと、そこはたいてい大手のチェーン店であることが多い。そして、どのチェーン店でもたいていの場合、店員はその店だけの制服を着ていることが多い。
しかし、昔のスーパーの店員の制服は少し違ったようだ。まるで銀行であるかのように、レジにいる店員はシャツを着てネクタイをしめていた。プロであることを表す制服だったが、清潔さを保つために、後にその上にエプロンをするようになった。
スーパーには色々な種類の商品が少しずつあった
今日、私たちが買う商品の中には、特定の商品だけを専門とする店からきていることもある。たとえば、特定の商品を探している人のために、オリーブオイル、ベーキング用品、世界各地のスパイスだけを取り扱う店もある。しかしながら、19世紀から20世紀の初めには、このように幅広い選択肢はなかった。雑貨店と呼ばれていたのには理由があり、買い物客が必要なものすべてを買える場所だった。当時の商品が並ぶ小規模の「ターゲット(アメリカの大手スーパー)」を想像してみるといい。
肉コーナー、なかなかの体験
現代でも人は多くの肉を消費しているが、それでも1930年代や1940年代と比べると、ベジタリアンや完全ベジタリアンの割合は増えている。今日食される動物の肉は、昔とは少し異なる形で処理され、陳列され、販売されている。
かつてのスーパーの肉コーナーは今日のものよりも人目を引くもので、ブタや牛、鶏の大きくカットされた肉が並べられていた。さらに、今日の肉好きはそんなに頻繁に牛の胃や豚足を探し求めないかもしれないが、20世紀半ばには、普通に食されていた。
スーパーに行くのは一大事
今日、多くの人々はスーパーに買い物に行くことは雑用だと考えている。スーパーに行く前に着飾ることなどないし、たいていの場合はその日に仕事に着て行った服のままであったり、家でくつろいでいた服のまま、「そろそろ行かないと」と自らに言い聞かせてやっと重い腰をあげるといったものだろう。
しかしながら、当時モダンなスーパーが人気になり始めたころ、寝起きのままの格好でスーパーにいるところを見られたくはなかったようだ。かつて飛行機で旅行するときに少し着飾っていたのと同じように、人々はオシャレをしてスーパーに行っていた。
料金の支払方法もずいぶん違っていた
スーパーでの料金の支払方法は数年ごとに変わっている。1980年代には小切手で支払っていたが、2000年代にはクレジットカードリーダーが使われるようになった。そして今日では、セルフレジなどで店員と話すことなく、商品をスキャンして料金を支払うことができる。
しかし1940年代には、まったく状況は異なっていた。商品をカウンターに持っていくと、店員は手計算で合計金額を出し、客はたいてい現金で支払いを済ませていた。
たくさんの商品が店の外に陳列されていた
今日スーパーに行くと、建物の外側に特定の商品が陳列されていることがある。それらはたいていの場合、植木などの植物だったり、パティオ家具だったり、またはアウトドア用品などのように外に置かれたままになっているものだ。
20世紀の初めころから半ばまでは、店の野菜コーナー全部が店の外の通りに陳列されているのが一般的だった。こうすることで、店内のスペースを最大限に利用することができ、潜在的な顧客の集客にも役立ち、通りすがりの人もついでに何かを買うことができたのだ。
買い物できる時間が限られていた
昔と比べると、今はずいぶんと買い物が楽になった。多くのスーパーでは、特に腐らない食品など、注文してから1日で家まで配達してもらえる。それに24時間営業の店も数多くあり、行きたいときにスーパーに行くことができる。
1950年代~1960年代においては、買い物ができる時間帯というのが決まっていた。そのため、女性は自分の忙しいスケジュールの中に買い物に行くことを入れなければならなかった。たとえ、髪の毛にカーラーを巻いたままだったとしても、スーパーの開いている時間帯に行かなければならなかったのだ。
当時のマーケティング戦略も違った
1930年代~1940年代、メーカーにとって自社商品を宣伝することは非常に難しかった。テレビの宣伝などはるかに少なかったため、宣伝は主に新聞やラジオを媒体として行われていた。そして、メーカーが店内の陳列を行ってキャンペーンをするときなどには、人の目を引くように工夫がこらされていた。
これは、現在店が商品を宣伝する方法とはまったく異なる。メーカーはテレビやインターネット、さらには個人個人に合わせパーソナライズ化した広告で、自社商品を宣伝しまくる。さらに、スーパーは取引のあるメーカーの商品を割引から棚の配列に至るまで工夫をこらして宣伝をしている。
食品店でガソリンがつげる
1930年代~1940年代のスーパーはその立地によって特徴がずいぶんと異なっていた。もしもニューヨークに住んでいたのなら、わずか数ブロックの距離に食品店が複数あったことだろう。
しかしながら、もっと小さな街、どちらかといえば田舎の方に住んでいたならば、そのあたりで見るスーパーは、食品店以外の役割も兼ねていたことだろう。田舎では数少ないスーパーのほとんどが、客のニーズにこたえるためにガソリンスタンドとしての役割も果たしていた。そう、まるで初期版のコストコのように!
魅力的なレジ係をそろえて集客をはかる
集客をはかるために店がとった方法は様々だった。たとえば販売している商品に関連するものであったり、大々的なセールをしたりというふうに。しかし、客足を呼び込むためにレジ係として見た目の美しい女性を雇用する店長もいた。
カリフォルニア州エンシーノにある「ピグリー・ウィグリー」というスーパーは、若くて綺麗な女性ばかりをレジ係に雇った。この方法は、パンアメリカン航空がかつて使っていた手法と似ている。だが、スーパーの限られた営業時間内に行く買い物客の多くが女性であったことを考えても、この戦略がそんなにうまくいっていたようには思えない。
容器はすべてガラス製
1940年代~1950年代には、現在のように大量生産されているプラスチック製品はどこにも見られなかった。これはつまり、店の商品棚に陳列されていたほとんどの商品が今日店で見られるものとまったく異なっていたということだ。
この違いは主に、液体の入った容器で顕著に見られる。当時はほとんどの容器がガラス製だった。しかしながら、今日では費用を削減し生産を増やすためにガラス容器に代わってプラスチック容器が使われている。興味深いことに、プラスチックは環境に悪いため、今日では再びガラス容器が注目されつつある。
牛乳はスーパーで買うものではない?!
スーパーで買う生活必需品と言えば、ほとんどの人はパンに牛乳、卵を思い浮かべるのではなかろうか。20世紀半ばにはパンと卵は生活必需品とされたが、牛乳は今ほどみんなが買うものでもなかった。
これは当時、牛乳が今日とは異なる方法で販売されていたことによるためだろう。牛乳を飲む人々は、各家庭に牛乳配達を頼んでいたのだ。1963年までに30%の人が牛乳配達サービスを受けていたが、1975年にはこの割合は7%にまで減少している。
買い物客はクーポンを切り取る
1950年代~1960年代にかけて、多くの人々は買い物をしにスーパーに行く前に、新聞チラシをチェックしていた。このチラシにはクーポンが入っており、切り取って店に持っていけば割引が受けられるというものだった。
今日でも未だにクーポンを利用する店もあるが、ほとんどが切り取り式のクーポンの発行をやめている。現在、店の多くはメンバーズカードなどを発行し、常連客が割引を受けられるようにしたり、レジで使えるようなアプリを作成していたりする。
最新のうわさ話が聞ける場所
子ども達が学校に行っている間、家でじっとしていてばかりいるのは郊外の主婦らにとっては退屈だったのかもしれない。だが幸いにも、他の人と話をしたりできる上に、やることリストの中のすべきことを済ませられる場所があった。
小さな街や郊外では、スーパーはそこの住民にとってのたまり場のような役割を果たしていた。商品を買うだけでなく、近所に越してきた新しい人たちの話など、井戸端会議ができた。
長い長ーい長蛇の列
今日のスーパーはものすごく便利であることを重要視している。レジ係の人に会計をしてもらってもいいし、セルフレジを使うこともできるし、何なら家まで配達してもらうこともできる!支払方法だって、現金やクレジットカードが利用可能だ。時間のかかる小切手を使う人はもうほぼいない。
当時は、小切手が唯一の支払方法であったため、毎日大量の小切手が使われていた。しかも、多くの人がレジに並んでいた。とにかく食料を買いにスーパーに来た人は、長い列に並んで待たなければならなかったのだ。
シリアルにワクワク感はなかった
子どもの頃に好きだったシリアルは何だっただろうか?おそらく、トリックスやフルーティ・ペブルズ、ひょっとするとキャップン・クランチだったかもしれない。あれ?これは全部ベリーが入っている。こうしたシリアルは美味しいだけではなく、ほとんどのシリアルの箱の中にはおもちゃなど、ワクワクするような何かが入っていることもある。
1940年代~1950年代のシリアルには、そんな楽しみはまったくなかった。選ぶポイントはシリアルの原料で、穀物か小麦、ふすまの中から選ぶことができた。そしてもちろん、シリアルの箱の中にはおもちゃなどは入っていなかった。
商品も食生活も、今とは大きく異なっていた
これまでに人の食生活は劇的に変化している。わずか数十年前でさえも、今日の食生活とは大きく異なっている。1930年代~1940年代には、人々は栄養にどちらかといえば無関心であり、それらが体にどんな悪影響を及ぼすかなど考えていなかった。
そして1970年代~1980年代になると、低カロリーや脂肪分ゼロと銘打った食品がスーパーに並ぶようになる。そして時代とともにスーパーは更に変化している。現代のアメリカ人はケトン・ダイエット用食品やベジタリアン用、または完全ベジタリアン用食品など、特定の目的別に食品を買い求めることから、かつてのスーパーとはさらに様相が異なっている。
かつては種類もそんなになかった
今日では料理は趣味としてとらえられることもあるが、1940年代~1950年代にはむしろ、料理はテーブルの上に食事をのせるための手段だった。もちろん、中には調理が楽しいものもあるが、かつては今日のように料理自体に楽しみが見出されることはなかった。
これが変わったのはジュリア・チャイルドとその料理番組や料理本のおかげだ。今では、料理に関連する番組のみを提供するテレビチャンネルまである。こうした背景から、今日のスーパーには材料と一口に言っても色々な種類のものが並んでいる。
食品の価格はどうだったのだろうか
昔のスーパーの写真を見ていてまず気づくのは、非常に安い食品の価格だ。1946年には、卵1パックがおよそ70円で買えた。さらに450グラムの鶏肉が60円ちょっとという破格の安さだった。
以降、アメリカは何度もインフレを経験し、現在色々なものの値段ははるかに上がっており、何でも安いということはなくなっている。今では450グラムほどの鶏の胸肉はおよそ320円ちょっとほどだろうし、オーガニックの卵1パックあたりは540~650円といったところだろう。
客足を呼ぶためのセルフカー
1957年、スーパー「パブリックス」はキャンペーンを実施し、新しく設置された幅広い通路と自分で手に取ることができる乳製品の陳列ケースを導入した。マーケテイング戦略として客がセルフで運転するセルフカーを導入し、客足を伸ばした。肉コーナーなどでも客は自分で商品を手に取ることができたため、もう列に並んで待つ必要はなくなったのだ。
20世紀にはこれほど幅広い通路はなくなり、客が他の客や商品にぶつかることなく通路を通れなくなった。できれば、またマーケテイング戦略などで通路が大きくされればいいのだが。
戦時中、抗議の看板が掲げられる
12月8日、真珠湾攻撃の翌日、日系人が経営するスーパーには「私はアメリカ人です」という看板が掲げられた。この当時、日本人の子孫である日系人はみんな、家を奪われ、西海岸のあちこちに設置された捕虜収容所に入れられた。
この写真にあるスーパーは、マツダさんという家族が経営していたのだが、言論の自由権を行使し、店の窓に看板を掲げた。このスーパーは避難命令が出された後に閉店している。現在であれば、閉店することなく経営者が変わり、店は継続されることだろう。
1ヶ所ですべての物が揃う店は存在しなかった
スーパーが初めて事業をスタートさせたときには、野菜や果物を買える八百屋、肉屋や乳製品店、魚屋、乾物や缶詰食品を売る店など、様々な店舗が建ち並んでいるというものだった。
今日、様々な店の並ぶ通りを歩かなくても、私たちはテイクアウトをすることができる。1ヶ所ですべての買い物ができる店というものは、もっとずっと後、1930年にキング・カレンがオープンしてから可能となった。キング・カレンは最初の(今日のような)スーパーだと言える。
肉・生鮮食品以外の生活必需品が揃う
1920年代には、アメリカのあちこちにスーパーのチェーン店ができ始めた。生鮮食品や肉以外であれば、あちこちはしごをすることなく様々な食品を買うことができた。この当時、生鮮食品や肉は、まだ地元の肉屋や農家から買っていた。
この後20年の間にすべてが揃う店ができ始め、キッチンで何かきちんとした食事を作ろうとするときに必要な物すべてを揃えたスーパーが一般的となっていった。
商品を一定数以上買うと商品が当たる?!
かつては、もし客がラッキーだったら、スーパーで自転車やフライパンが当たることがあった。スーパーにクジが用意されており、それに参加して当選した人にプレゼントがあったのだ。こうすることで、地域の客を集め、ラッキーな家族は新しいおもちゃやキッチン用品、または家で使える何かをもらって帰ることができた。
現在では、こうしたクジは何かのスポーツイベントでしか行われない。スーパーでかつてのように大規模に人を集めてクジを行うということはなくなった。
スーパーでは食品の袋を運ぶ手伝いをしてくれていた
かつて古き良き時代には、スーパーの従業員が食品の入った袋を客の車まで運んでくれていた。時代がそうさせていたのだ、と言う人もいるだろう。というのも、1950年代には人に親切に、丁寧に接するように誰もが教えられていた。
そういったこともあって、スーパーでは従業員がすべての客にではないものの、食品の入った袋を運ぶのを手伝っていた。かつてスーパーで買い物をすることは専業主婦の仕事であったものの、男性が買い物に行くこともあった。しかし、従業員が主に手助けをしていたのは年配の客だった。
毎日何か無料のものが提供されていた
昔の1950年代に、買い物客がある商品を一定数以上買えば、何かが無料でもらえた。たとえば、特定のメーカーの石けんを毎週毎週買うことで、瀬戸物の皿一式がもらえるといったこともあった。
21世紀の現在、客が何か無料でもらえるとすれば、1つ買って2つ目が無料といったものだろうか。そしてこれは特別セールのときだけだ。
新しいピンクのコンロやオーブンに嬉しそうな主婦
第二次世界大戦後、戦時中に家の外で仕事を手伝った女性の多くは、家庭に戻った。仕事を続ける女性もいたものの、多くは主婦として家庭に戻り、従来の役割を果たしていた。男性が一家の大黒柱であり、女性の役割は家で子どもの世話をしながら家事をすることだった。
1950年代の理想的な主婦は、ピンク色のコンロやオーブンを喜んで使いこなしたことだろう(オーブンでパンプキンパイを焼いていることにもお気づきだろうか)。1957年に印刷されたこの広告から、幸せな妻=幸せな生活という当時のステレオタイプ的な家庭が見てとれる。もちろん、主婦でいることが幸せだという女性もいれば、他の分野で人生の目的を探す女性もいた。
子ども達、この写真のようなロボットに大興奮
1950年代はどちらかといえばシンプルな時代だったと言える。子ども達は現代の子ども達のようなテクノロジーに触れることはなかったし、比較的地味なおもちゃで遊んでいた。この写真の男の子を見てみよう。未来的な宇宙帽やメガネを身につけている。そしてこの子が遊んでいるおもちゃは、アイデアル社(おもちゃメーカー)が製造したロボットのロバートだ。
このロボットは1959年の夏にモスクワで行われたアメリカン・フェアで紹介された。歩いて話すことができるロボットとして当時もてはやされた。しかもリモコンで目を光らせることもできる。このロボットの価格はおよそ650円だった。
特定のファッションスタイルをした反抗的な若者
この写真の若い男達のように、10代の若い子らの中には、駐車場にとめたバイクの周りでたむろしている人もいた。サンフランシスコのこうした若い子らのグループは「グリーザー(暴走族のような意味)」と呼ばれていた。一般的にグリーザーらはイタリア系アメリカ人かヒスパニック系アメリカ人で、ロックやロカビリー、ドゥーワップといった音楽を好む若者たちだった。
グリーザーらは一般的に反抗的な態度を見せ、Tシャツにジーンズ、そしてブーツなどのように肉体労働する人のような服を身につけ、ワセリンなどで髪をオールバックにしていた。一方で、女性のグリーザーらは皮ジャケットをはおり、カプリパンツや女性用スラックスなど、ぴったりとしたクロップドパンツをはいていた。
自転車に乗ったり、新聞配達をする子ども達
1950年代、子ども達は外で遊ぶのが一般的だった。この写真はデラウェア州フェアファックスの子ども達が近所で自転車に乗って遊んでいる。1949年~1960年にかけて子ども達が欲しがった自転車の1つがSchwinn社のブラック・ファントムだ。この自転車のサドルは皮革で、フェンダーライトやブレーキライト、後ろには荷台がついていた。
子ども達は自転車に乗って新聞配達をしていたものの、「街で一番オシャレな自転車」であるファントムに乗るのは、天気のいい日に友人らに自慢するときだけにしていた。昨今では、子ども達はかつてほど外遊びをしない。テクノロジーの普及やテレビゲームのせいで、家の中で過ごす子ども達は多くなっている。
放射能隔離シェルターは、しごく真っ当な懸念
第二次世界大戦は終焉を迎えたものの、その後まもなくしてアメリカは冷戦に突入した。この頃、ソ連に対する恐れや、原子爆弾や水素爆弾が使われるのではないかという不安が高まっていた。1940年代後半~1950年代にかけて、核戦争が始まるのではないかという恐れから、アメリカ国内のあちこちで、万が一の事態に備えて避難するためのシェルターが作られ始めた。
このシェルターを宣伝する会社が出始め、最悪の事態に備えたいとする人々の需要もあり、ビジネスとして成り立っていた。アメリカ政府さえも、核兵器による攻撃に備えて、郊外に住んでいる場合、生き残るのにシェルターを作ることが最善策だと発表していた。
アイ・ラブ・ルーシーなどの人気テレビ番組などで、テレビが普及する
1950年代の典型的な家族は、この写真のように、ボクシングの試合などのテレビ番組を家族で一緒に見たりして時間を過ごしていた。この時代の人気テレビ番組と言えば、「アイ・ラブ・ルーシー」や「パパは何でも知っている」、「ハネムーナーズ」、「ビーバーちゃん」、「ガンスモーク」などだった。
1940年代にはテレビは贅沢品だったが、1950年の半ばまでには、およそ2/3の家庭にテレビがあった。テレビ番組に出てくる理想的な家庭として、働きに出る父親、真珠を身につけた主婦である母親、従順な娘、そして昔からありがちな軽いトラブルを起こす息子が描写されていた。しかしながら、この当時のアメリカにテレビに出てくるような完璧な家族はほとんどなかった。
10代の若者、「付き合う」前にダブルデート
1950年代は「純粋」という言葉に集約されるようだ。1958年にミルクセーキを一緒に飲む若者を見てみよう。どうもデートをしているようだ。ベタベタしているわけでもなく無邪気なようだが、親密な様子がうかがえる。この当時、特に少し恥ずかしがり屋な人々にとってはダブルデートをすることが一般的だった。そこから始まり、その後2人きりでのデートが始まり、うまくいけば「お付き合い」をするという流れだったようだ。
1950年代において、「付き合う」とは、カップルが互いのみとデートを重ねるという意味だが、必ずしも結婚を視野に入れてというわけではなかったようだ。彼氏から彼女には卒業記念指輪やレターマン・セーター、IDブレスレットが贈られていた。
ツーピースの水着が人気、だが決しておへそは出さない
これは、カリフォルニア州パーム・スプリングスで水着を着ている若い女性達の写真だ。1950年代の水着はナイロン、タフタ、綿で作られたものが多かった。泳ぐのに邪魔にならないというよりは女性の曲線を美しく見せ、女性を魅力的に見せるために作られていた。フラミンゴなど、明るい色の柄やトロピカルなものが人気だった。
多くの女性はワンピースの水着を好んだようだが、この頃ビキニも人気が出始めていた。しかしながら、ビキニとは言え、ワンピースの水着よりも決して多く肌を露出するようなものではなかった。ボトムスはフリルのついたものが多く、腰のあたりまであり、決しておへそを出すものではなかった。トップスは肩ひものないものか、ブラのようなトップス、チューブトップ、またはホルターネックのトップスが一般的だった。
多くの女性がタイプ課で勤務
これは1959年、ロンドンの小売業者「マークス&スペンサー」事務所内のタイプ課の写真だ。女性が外で働く場合、それは往々にして秘書やタイピストの仕事につくのが一般的だった。今日のデジタル時代以前には、男性は速記かタイプのできる女性を雇っていた。
速記タイピストは口述を書き取り、レターや書類をタイプするのが仕事で、たいていの場合、他のタイピストとタイプ課で共に作業していた。秘書は電話に応答し、ファイル整理やタイピング、そして上司の指示で作業するのが仕事だった。今日にも似たような職種はあるが、役職名はオフィス・アドミニストレーターであったり、パーソナル・アシスタントと呼ばれている。
理想的な核家族は、父親、母親、子ども2人に犬1匹
1950年代の理想的な核家族は、母親に父親、そして2人以上の子どもだった。白い柵で囲まれた敷地に、仕事に出る父親に専業主婦の母親、2人の明るい子ども達に犬といった構成の家族がアメリカンドリームの象徴だった。「オジーとハリエットの冒険」や「ビーバーちゃん」などのテレビ番組は、こうした理想的な家族の生活がいかに素晴らしいかを描写していた。
この写真は核家族の一例だが(この家族が本当に幸せなのかどうかはこの写真からは読み取れないが)、この4人家族は1959年に家の車道にとめたマーキュリー・モントレーに乗り込んでいる。車の隣に写っているのがペットの犬だ。
10代の若者らはレコードを聴き、エルビス・プレスリーのような歌手が好きだった
ラジオのディスクジョッキー、ディーン・カルガノは週に1度のみ番組を行っていたが、多くの10代の若者から絶大な人気を得ていた。これは1955年、大量のレコードと共に撮影されたディーンの写真だ。1949年、フォークミュージック、カントリー、ブルース、リズム、ポップ、クラシック、国際的な音楽のジャンルで、45回転のレコードが正式に一般に紹介された。
1950年代のポピュラー音楽には、ディーン・マーティン、ペリー・コモ、レイ・チャールズ、エルビス・プレスリー、チャック・ベリー、ジョニー・キャッシュ、ニーナ・シモン、ハリー・べラフォンテが挙げられるだろう。レコードはヴィンテージ愛好家らによって再び人気が出ているが、昨今ではたいていの人がストリーミングで音楽を聴きたいと思っていることだろう。
ローラースケート、リンボ、フラフープが人気
ローラースケートは1950年代の子ども達の間で人気の娯楽だった。この写真は、2人の少女が縁石に座ってローラースケートを履いている様子を写したものだ。足元を見ると、靴を履いたまま、その上からローラースケートを履いているのが分かるだろう。足に履いたスケート靴をしっかりと固定するためにはコツが必要だった。ローラースケートがローラーブレードになったのは1979年のことだった。
1950年代の子ども達は何をして遊んでいたのだろうか?一般的なものとしては、リンボ競争、チューインガムで風船ふくらまし競争、フラフープ競争などがあった。人気のあったパーティーゲームはロバの絵にしっぽをつける、福笑いのようなゲームだった。「ネーム・ザット・チューン(音楽をあてるクイズ番組)」を家族で一緒に楽しむこともあった。
ファッションは完璧
これは1958年に発行されたヴォーグの写真だが、ニューヨークでクライスラービルを背景にした2人のモデルを写している。毛皮のマフに、ベルベットのドーム型帽子、ウール素材のノースリーブ・ベビーウェストチェックドレス(左)とウール素材のベビーウェストツイードドレス(右)に身を包んでいる。当時の女性の象徴的なスタイルには、ペチコートとゆったりしたスカート、細身のペンシルスカート、タイトなセーターがあった。
女性小物としては、手袋、シンチベルト、シフォンスカートに真っ赤な口紅が人気だった。キトン・ヒールやスチレット・ヒールも人気があった。10代の女の子らにはプードル・スカートにピーターパン・カラーのブラウスが人気だった。